アニスは、『過去』へと戻ってきたその日、モースと共に導師イオンへ会いに行った。
隣を歩く男の存在に堪えきれない怒りを抱きつつも、両親が人質に居るのだからと、アニスはその感情を喉元で押し殺す。あの時死んでしまったイオンを救うことが出来るのだから、これくらいは我慢しなければと自身に言い聞かせて。
そうして通された部屋で二人を出迎えてたイオンは、アニスの記憶と違わず、優しく、穏やかな笑みを浮かべていた。しかし彼がレプリカであり、モースによって囚われの身となっているのを知っている。
また、彼を監視するスパイとしての日々が始まるのかと思うと少しばかり憂鬱だが、両親を放っては置けないし、何よりイオンの傍に居たい。何かあれば自分がイオンを守ればいいと考え、アニスは殊更明るい笑顔を浮かべ、元気良く挨拶することにした。
「初めましてぇ、イオン様☆ アニス・タトリンでーす! 気軽に『アニスちゃん』って呼んで下さいねぇ〜☆」
その瞬間、イオンの表情が少しばかり困惑のそれに変わる。しかしアニスはそれに気付かず、愛想を振りまき続けた。
「……モース? この子は……」
「彼女が今度から、貴方の導師守護役となります。何、幼いですが戦闘能力はなかなかのモノですからな、きっと貴方をお守り出来ましょう」
いやらしい笑みでモースが言う。
守るも何も、アニスにスパイの仕事を持ちかけたのは他ならぬ彼なのだから、むしろ率先して危険に晒すつもりだとしか思えないが、勿論そんなことはおくびにも出さない。
だが、イオンの困惑はますます深まり、どうしたものかと表情を曇らせた。
「──困りますね、モース様。わたしの許可無しにそのようなことを決めるなど」
其処へ割って入ってきたのは、第三者の声。アニスの聞いたことのないものだった。
振り返った彼女が目にしたのは、白銀の髪に紫電の瞳を持つ、まるで御伽噺に出てくる妖精の如き美貌を持った人物。思わずぽかんとしたアニスを余所に、冷たい眼差しでモースを一瞥すると、脇を通り過ぎ、イオンの傍へ歩み寄る。
「セレス」
「申し訳御座いません、導師イオン。お傍を離れまして」
イオンは、何処かほっとしたように微笑むと、「構いません。それよりもセレス、こちらへ」とその人物を招いた。
春の日差しのような雰囲気を持つイオンとは対照的に、まるで氷のような冷たさを感じさせるその美貌の人は、イオンの隣に並び立つと、凍てついた視線でアニスを見下ろす。
ぞっとするようなその目に、アニスは怖気づいたものの、何故見知らぬ人間に見下されなければならないのかと怒り、負けじと睨み返した。
「な……なによ!」
「……はあ。これを導師のお傍に置くと? モース様、ご冗談も程々になさって下さい。導師守護役はおままごとの延長で出来るほど容易いものではないのですよ」
「なぁっ!?」
それはモースを責める言葉だったが、同時にアニスに守護役は務まらないと明言したも同然であり、それはアニスのプライドをいたく傷付けた。
アニスには、『過去』の『未来』において、立派にイオンを守り通したという自負がある。最終的にはモースの卑劣な罠によって死なせてしまったが、今回は仲間達の助けも、『未来』の知識もある。モースの好きにさせるつもりはなく、だからこそ今のセレスの発言は、アニスにとって怒りを注ぐものだった。
「な、何よ! 偉そうに……! 大体アンタ、誰よ! 一体何様のつもり?!」
アニスの叫びに、けれどもセレスは冷えた眼差しに侮蔑の感情を上乗せして、彼女を見下ろすだけ。
「……何様、ねぇ。その言葉こそ、貴方が導師守護役に向いていないという何よりの証明になるのでは? モース様、貴方が導師イオンにちょっかいをかけるのは勝手ですが、こちらの人事にまで手を出さないで頂けますか?」
口を聞くのも嫌そうに、少しだけ顔を顰めて言ったセレスに、モースもまた怒りで顔を赤く染める。
「き、貴様……私を誰だと思って!」
「大詠師様、でしょう? それは十分承知の上ですよ。けれども導師守護役の人事権限は導師にしか無く、また導師守護役部隊は神託の盾騎士団のどの所属からも独立した、導師イオンの直轄部隊。……幾ら大詠師様とはいえ、導師の直轄に口を挟むのは越権行為が過ぎますね」
淡々とした口調で整然と論破されて、モースは返す言葉も無く黙り込むしかない。
──そもそもこの事態を憂慮して、わざわざモースは裏から手を回し、この人物を導師の傍から遠ざけたはずなのに、何故此処に居るのだろうか?
そんなモースの考えを察したのだろう、セレスは軽く溜息を吐いた。
「……まったく、主席総長殿も。モース様経由でわざわざ呼び出すから何かと思えば、仕事が忙しいから自分の代わりに部下の面倒を見て欲しいですって? 仕事を放り出してバチカルへ遊びに出かけている彼の自業自得でしょうに、何で彼の尻拭いをわたしがしなければならないんでしょうねえ……」
「っ」
「導師イオンの身辺警護を、何だと心得ていらっしゃるのでしょう……主席総長殿も、貴方も」
モースに突き刺さる、軽蔑の目。
イオンは容赦の無いセレスに苦笑しつつ、しかしそれを庇おうとはしない。
あの『優しい』イオン様なら、私の事を庇ってくれたのに……と、アニスは愕然とした思いで『かつて』の主だったイオンを凝視する。アニスにとってイオンとは、優しく、温厚で、自分を何より大事にしてくれる存在だった。そして、優しすぎるが故に、アニスを守るため命を落としてしまったとも。
──すべての本質から、目を逸らして。
彼女がどう思おうが、この時点でイオンにとってのアニスとは、紹介されたばかりの相手だ。幾らイオンが掛け値なしのお人よしでも、見ず知らずの人間、しかもあのモースが連れて来たという少女を、率先して庇うなどというのは有り得ない話だった。
「し……しかしだな、幾ら何でもその導師に導師守護役がついていないというのは……」
「でしたら、アリエッタを戻しましょう。あの子なら、戦闘能力も知識も礼儀も、申し分ありませんし……突然の異動に一番反対していたのは彼女ですから、元の部隊に戻すとなれば、二つ返事で了承するはずです」
「え、ええ? そんなぁ、根暗ッタなんかより、アニスちゃんの方がずっと強いですよぅ!」
此処で、これまで冷淡な反応しか見せていなかったセレスが初めて、にっこりと笑う。それに焦ったのはアニスだ。『過去』の『未来』において、アリエッタに真実を伏せ、己の手で殺したことを悔いてはいたが、それとイオンに関することは別だ。アニスにとって、彼女にイオンを取られるのは何よりも屈辱的なことだった。
だがセレスはアニスの反応など意にも介さず、微笑を引っ込めてアニスを見下ろす。
「強い? ──そんなもの、導師守護役部隊において、当たり前のことではないですか」
「え……」
思わぬ切り替えしに、アニスは目を瞬かせる。
導師守護役という職務について、彼女は少しばかり思い違いをしていた。守護役、という字面から、当然のように専属のガードマンが主な任務のように思われるが、実際には少し違う。勿論、警護も守護役の重要な仕事の一つではあるから、戦闘面の強さも要求されるが、導師守護役において一番重要視されるのは、知識と礼儀、教養なのである。
導師守護役とは導師のための秘書であり、護衛役であり、医師であり、相談役なのだ。導師に意見出来る権限を持つ、というのも結局は導師のためのものであり、基本的に戦闘面での実力を評価される他の騎士団員と独立して数えられるのも、その特異性からだ。
導師守護役において、戦闘能力のみに特化した者など、半端モノの役立たずでしかない。ましてや何よりも敬愛する導師に向かって、礼儀も作法もすっ飛ばした挨拶をするような人物を、国のトップや重鎮とも会うことの多い導師の傍に置くことなど、出来るはずが無い。
だが、アニスはこのような導師守護役の常識を知らない。何故か? それは、かつて彼女が導師守護役に就任したのが、士官学校を卒業したての頃だったからだ。
本来導師守護役へ入るためには、士官学校で相当優秀な成績を修めなければならない。そして優秀な成績を残し卒業した女生徒にのみ勧誘がかかるのだが、それでも最初は下っ端からのスタートで、新人が導師の専属になるなど、夢のまた夢なのである。
そしてその下っ端時代に必要な礼儀、作法、知識等を徹底的に教育され、導師守護役長に認められて初めて、一人前の守護役として導師の傍で働けるのだ。
しかし彼女は、この必要な過程を経ることなく、モースのコネで導師守護役に就任してしまった。そしてそのことに文句を言おうにも、肝心の導師守護役長はあの時存在せず、導師は周囲に対し弱腰だったため、そのような有り得ない人事が罷り通った。
更に言えば、アニス自身の士官学校での成績は悪くはないが、取り立てて優秀でもない。敢えて言うならば、まあまあ頑張っている、程度だ。導師守護役に勧誘されるレベルではない。
アニス同様、アリエッタも例外中の例外だったが、あれは導師本人の強い希望と、アリエッタの熱意と努力が認められた形になる。周囲が『彼女ならば』と考えるほど、アリエッタは導師の傍に在るための努力は惜しまなかったのだ。
──セレスは、全ての努力を否定され、泣きじゃくるアリエッタの姿を思い出す。
「強さも、知識も、礼儀も、すべてを兼ね備えて……初めて『我ら』は、導師の傍に存在することが出来るのです。貴方のような小娘に務まるはずもないのだということを理解なさい」
自然、セレスの語気は強くなる。一方、馬鹿にされたと感じたアニスも、怒りを露にした。セレスの口にしたことなど、殆ど理解はしていない。
……理解していれば、避けられる衝突もあったのだが。
「何よっ! さっきから大人しくしてれば……あたしはイオン様の導師守護役になるの! あんたなんかの許可なんていらないんだから!」
モースの焦りもイオンの苦笑も見ず、感情のまま怒鳴るアニス。
自分が傍にいなければ、イオンの悲劇は防げない。だから自分が、自分こそがイオンの傍にいなければ──そんな意識が、アニスの中にあった。けれど、その考えは筋違いなのだと、彼女は遂に気付かなかった。
「そう」
セレスの声が、殊更冷たく響く。
「ならば尚更……『導師守護役長』のわたしの許可無き者など、導師守護役として認められるわけがありません」
細められた紫電の双眸が、アニスの心を射抜く。自らが口にした発言が、取り返しのつかない事態を招いたと気付いた時には、もう手遅れだった。
セレスの発した号令で、外に待機していた衛兵達がやって来て、アニスを取り押さえる。罪状は『導師に対する不敬罪』。モースもまた、このような不敬な者を導師の傍に置こうとした件で責任を問われ、失脚。
命こそは取られなかったものの、アニスは入りたての軍を解雇され、雀の涙ほどの退職金を持たされ、両親共々教団を追い出されてしまった。
更に不祥事を起こして教団を追い出されたとあってはダアトに残ることも出来ず、タトリン一家は頼る当ても無いまま、パダミヤ大陸を後にすることとなる。
街を去る直前、仰ぎ見た大聖堂の入り口に立っていたのはイオン。多くの守護役にしっかりと守られる彼の姿は、アニスと共に居た時のような気弱さは見受けられない。
そして、アニスは漸く思い出す。何故、此処へ戻ってきたのか。どうして彼を守りたいと思ったのか。……どうして、彼を失うことになってしまったのか。
自覚は、同時に後悔となってアニスを襲った。けれどもう、過去を悔やむには、全てが遅すぎて──……。
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