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春が来るまでは



 轟焦凍と焦凍の母・轟冷は一緒にテレビを見ていた。
 時折、玄関の方から足音が聞こえるたびに、冷は小さく背筋を伸ばした。焦凍もその様子に気づいているはずなのに、あえて何も言わなかった。
 この家では、父が帰ってくる時間になると、空気が少しだけ変わる。
 そんな時、ふと思い出したかのように冷は言う。
「焦凍、明日はお客さんが来るから早起きしてね」
「お客さん?」
 焦凍は首を傾げる。
「そう。お父さんのプロヒーロー仲間の夫婦・ヴェントスとニンファとその娘さん」
「ヴェントスとニンファってあの、仲が良いってよくテレビに出てるヒーロー?」
「そうよ。明日そのヴェントスとニンファの娘の風詠李愛ちゃんと遊んであげてね」
「上手く話せるかな………」
「焦凍なら大丈夫よ。だって、焦凍は優しい子だもの」
「うん!」
 焦凍は、明日来る子はどんな子なんだろう…と思いを馳せていた。
 
***
 
 その日は、春らしいぽかぽかとした陽気だった。
 この日は父が出勤していて不在だった。静かな食卓は、いつもより心なしか気持ちが落ち着いていたはずなのに――それでも焦凍の心はざわついていた。
 食卓に座っていても、ごはんの味がよくわからない。お味噌汁の湯気がふわっと立ち上る。その香りが鼻をくすぐるのに、焦凍の舌は何も感じなかった。鮭の切り身を箸でつまむのも、どこかぎこちない。普段は平気なのに、今日はうまく力が入らない。箸を動かす手が、少し震えているのを自覚していた。
「……焦凍、緊張してるの?」
 向かいに座る母・冷が優しく笑う。焦凍は「してない」と小さく首を振ったが、彼の指先は正直だった。そんな彼の様子を微笑ましそうに見つめる冷は、ふっと立ち上がる。
「じゃあ、お客さんが来る前に、縁側の掃除でもお願いしようかな」
 掃除と言われ、焦凍はやっと重たい体を動かし始めた。……風詠李愛ちゃん、どんな子なんだろう。
 焦凍は小さな竹箒を両手で握りしめながら、縁側の端からゆっくりと掃き始めた。まだ慣れない動きで、時折ごつんと柱にぶつけてしまう。
(綺麗にしないと……父さんに叱られる……。変な子だと思われたくない。父さんは“ヒーローの子は人前で恥をかくな”って言ってたから)
 変な子だと思われたくない、というより――
 どうしても、仲良くなりたかったのだ。
 まだ顔も知らない相手なのに、そう思ってしまう自分が少し不思議だった。
 そんな思いが頭をぐるぐる回り、ひとつひとつの動作に力がこもる。母に「丁寧にね」と声をかけられた時、焦凍は黙ってうなずいた。
 父・轟炎司の知り合いであるプロヒーロー、ヴェントスとニンファ。その娘・風詠李愛は、轟焦凍が初めて出会った“異性の子”だった。
「ヴェントスさん、ニンファさん、この度は来て下さりありがとうございます。」
「こちらこそ招待ありがとうございました!」
「ほら李愛ちゃん、挨拶して」
 水色のツインテールが、歩くたびにぴょこぴょこと揺れる。小さなその姿を見た焦凍は、「可愛い」と思った。
「ほら焦凍も、挨拶して」
 それが幼い彼にとっての“一目惚れ”だった。
「こんにちは……風詠李愛です」
 李愛が小さな声で挨拶すると、焦凍は少し戸惑ってから、頭をぺこりと下げた。
「……轟、焦凍」
 ふたりの目が合う。李愛は恥ずかしそうに笑って、焦凍は思わず目を逸らした。
(水色の髪……なんだか、青空みたいできれいだな)
「じゃあ焦凍、李愛ちゃんをよろしくね」
 冷に背を押される形で、焦凍は李愛を家の縁側へ案内する。
 同年代の子と遊ぶのも、異性と接するのも、これが初めてだった焦凍は、緊張のあまり言葉を発せず、身振り手振りだけで李愛を誘導していった。
 二人並んで縁側に座るものの、会話はない。
 春風が心地よく吹いているはずなのに、二人の間には気まずい沈黙が流れていた。
 やがて、李愛の目にうっすらと涙が浮かぶ。
 その理由はわからなかったが、焦凍は困惑し、内心で焦る。
 そんな時だった。李愛がふと、部屋の中に飾られたプロヒーロー・オールマイトのグッズを見つけ、ちらちらと焦凍の方を見る。
「オールマイト、好きなの……?」
 小さく震えた声。その一言が、重たい空気をすっと和らげた。
 焦凍は嬉しさと緊張を混ぜたような表情で、少しだけ口角を上げる。
「う、うん。李愛……ちゃんも、オールマイト好き?」
「うん、好き。堂々としてて、強くて……すごく好きなんだ」
 李愛は少し目を輝かせながら答えたあと、またおずおずと尋ねた。
「………そういえば、焦凍くんは、どんな個性……なの?」
「右から氷が出て、左から炎が出るんだ。……李愛ちゃんは?」
「李愛、でいいよ。私はね、風と妖精の個性なの。風を操ったり、出したりできるし……ここにサクラっていう妖精がいるんだけど……」
 李愛は、頭の上に何かを掴むような仕草をする。だが、焦凍にはそれが見えなかった。
「サクラは私に意地悪ばっかりしてくるの……。私、自分に自信が持てなくて、そのたびにサクラが責めてきて……でも誰にもサクラの姿が見えなくて……こんな個性、嫌……」
 ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
 焦凍はどうしていいか分からず戸惑うが、それでも――李愛の力になりたいと思った。
「その……サクラって子は、きっと李愛と仲良くなりたいんだよ。だから、少しずつ仲良くなっていけばいい。サクラが李愛に意地悪したら……僕が怒ってあげる」
 焦凍はそう言いながら、ぎこちなくも彼女の手を包み込む。その手に込めた想いは、「少しでも安心してほしい」という、彼なりの優しさだった。
「それに、自分の個性だから、自分だけが向き合える。……僕、応援してる。李愛とサクラが仲良くなれるようにって」
 李愛は涙を拭い、はにかむように微笑んだ。
 それは焦凍にとって、初めて見る李愛の笑顔だった。焦凍が彼女に惹かれていることに、この時の焦凍はまだ気づいていなかった。

 ***
 
 縁側で打ち解けたあと、焦凍がふと部屋の中を指差す。
「……あのポスター、かっこいいよね」
 李愛はすぐに頷いた。
「うん、オールマイト、強くて優しくて最高だよね!」
「……やってみる?」
「えっ?」
 焦凍が静かに立ち上がると、真似をするように両腕を高く掲げて言った。
「オールマイトの……あのポーズ」
「や、やりたい……! 『私が来た!』だよね!」
 李愛が無邪気に笑いながらポーズを真似すると、焦凍も照れくさそうに片腕を上げて応えた。
「……わ、焦凍くん似合ってる……! そのままヒーローになれそう!」
「……李愛の方が似合ってる」
「ほんと……? 嬉しい、な」
 照れ笑いしながら二人は、庭を走り回ったり、「悪者役」になったり、「人を助けるフリ」をしたり。
「えいっ、悪者め〜! 捕まえた!」
 李愛がそう叫んで焦凍の腕をつかむと、焦凍はおとなしく「つかまっちゃった」と言って笑った。
 初めての遊びなのに、焦凍の心はどこか懐かしい温かさで満たされていく。
 いつしか風がふわりと舞い、李愛の髪がキラキラと光を受けて揺れる。
「焦凍くん、私たち、大きくなったら一緒にヒーローになれるかな?」
 その言葉に、焦凍は少し黙ってから、静かに頷いた。
「……なれる。きっと、なれると思う」
 空の上でオールマイトが笑ってるような、そんなあたたかい春の午後だった。
 気がつけば空はオレンジ色に染まり、二人はすっかり打ち解けていた。
「李愛ちゃん、そろそろ帰るよ〜」
 そう呼びかけたのは、李愛の父であるヒーロー・ヴェントス、風詠風牙だった。
「え〜、まだ焦凍くんとお話してたい!」
 李愛は焦凍の手を握って、子供らしく駄々をこねる。
「すっかり焦凍くんと仲良しになったのね。でも、もう夕方だから轟さんに迷惑がかかっちゃうよ」
 微笑みながらそう言ったのは、母・ニンファこと風詠星奈だった。彼女は李愛に優しく手を差し伸べる。
「は〜い……。焦凍くん、また明日遊びに来るね」
「うん、またね」
「明日もヒーローごっこしようね!」
 二人はお互いの姿が見えなくなるまで、何度も手を振り合った。
 縁側に戻って腰を下ろし、李愛の残した笑い声を思い出す。
「……また明日」
 小さくつぶやいたその声に、春風がそっと返事をした気がした。
 布団に潜り込んだあとも、李愛の笑い声が耳に残っていた。
 水色の髪が陽に透けて、きらきら光っていた。まるで本当に妖精みたいだったな――なんて、ふと考える。
「……また会えるんだ」
 誰にも聞かれないように、小さく呟いた。
 ──そして、ある出来事が起こるまでは。
 二人は、まるで日課のように、互いの家を行き来する日々を過ごすことになる。
 
 ――――――
 
 あれから毎日、李愛は轟家に遊びに来るようになった。
「今日はね、おやつとマントを用意したんだ。これで沢山ヒーローごっこ出来るね」
「わぁ! 焦凍くんありがとう!」
 焦凍は、最初に会った時よりも笑顔が増えた李愛に自然と笑顔がつられて笑うようになった。
「今日は私が悪役やるね! ふははは、私を倒せる者など誰一人いないのだ〜!」
「李愛、悪役も上手だね」
 おぉ〜と感心してぱちぱちと手を叩く焦凍。
「昨日ね、テレビで出てた敵のセリフ! 焦凍くんは見た? 昨日のオールマイトと敵のバトル!」
「昨日は早く寝ちゃったからちょうど見てない……見たかったな」
「凄くオールマイトかっこよかったんだよ! パンチ! パンチ! って! スピード早くて目で追うの大変だった!」
 李愛はオールマイトのパンチの真似をする。李愛の瞳をキラキラと輝かせパンチの真似をしている姿は、きっとオールマイトよりは遅いんだろうなぁと焦凍は思いながら見つめていた。
「そっか。李愛、昨日のことちゃんと覚えててすごいね」
 焦凍はぽつりとそう言って、李愛のパンチを真似してふわっと手を振る。
「わっ、焦凍くんもやってくれるの? じゃあ一緒に! せーのっ、パンチ!」
 そうしてふたりはまた笑って、庭を駆けまわった。
 風がふわっと吹いて、李愛のツインテールが空を泳ぐ。
 焦凍はその光景を、どこかぼんやりと眺めていた。
(李愛って……本当に、風の子みたいだ)
 その日の夕方も、李愛は名残惜しそうに帰っていった。
「また明日来るからね!」
 そう言って、振り返るたびに手を振る彼女の姿を、焦凍はいつまでも見送っていた。
 家に戻り、縁側に腰を下ろして、焦凍はぽつりとつぶやいた。
「……ヒーローって、強くて優しいんだよね」
 そう言って、静かに空を見上げた。
 青く澄んだ空の中、李愛の髪の色が重なって、胸が少しだけきゅっとした。
「僕も……なれるかな」
 誰にでもなくそう呟いた声に、そっと風が吹き抜けていった。
 ──その日から、焦凍の中で少しずつ、“誰かのために”という想いが芽吹きはじめた。
 今思えば、この頃からだった。
 父の炎司が焦凍に体罰とも言えるような鍛錬をさせ始め、家族が狂い始めたのは。

────────

 焦凍と李愛が五歳になった年、ある事件が起こった。
 焦凍の母・轟冷が、ある日突然息子に煮え湯を浴びせ、焦凍の左顔面には大きな火傷の跡が残った。
「焦凍くん、目の周り痛くないの?」
「ううん、大丈夫……なんで李愛、泣いてるの?」
「だって……焦凍くんが痛そうな顔してるのに、大丈夫って、無理してるから………焦凍くんの分まで、私が泣くの………っ」
 その出来事の詳細は語られなかったが、李愛はそれが焦凍の「個性」に関わる何かだと感じ取っていた。
 普段の様子、ちょっとした焦凍の表情、周囲の大人たちの空気から、子どもなりに必死に読み取ろうとしていたのだ。
 焦凍の母・冷は病院に入院した。焦凍はただ一言、そう言って黙ってしまった。
「どうしてそんな傷があるの?」と、聞きたい気持ちはあった。けれど、それを口にしてはいけない気がした。焦凍の目は、何かを押し殺すように、どこか遠くを見ていたから。
 それ以来、李愛は“家族”や“個性”、“ヒーロー”といった言葉そのものが焦凍の痛みを呼び起こすような気がして、自然とその話題に触れなくなっていった。
「焦凍くん、あれ……ううん、やっぱいいや。なんでもない! 気にしないでね」
 言いたいことを飲み込む癖は、そこから始まった。
 以来、二人の間では、それまで大好きだったプロヒーローの話もしなくなった。オールマイトの勇姿を真似て一緒にポーズを取った日々も、まるで遠い昔のことのように感じられた。日課のようだった互いの家の行き来も、知らず知らずのうちに途絶えていった。
 それでも、ふたりは離れなかった。
 時が流れ、小学生になった焦凍と李愛。
 李愛は髪型をハーフツインテールに変えていて、焦凍は変わらず寡黙だった。二人ともプロヒーローの子供として、学校では目立つ存在だった。廊下を歩けば、すれ違う生徒たちの囁きが聞こえてくる。
「あの子、エンデヴァーの息子でしょ?」
「じゃあ、あの水色の髪の子は?」
「ヴェントスとニンファの娘じゃない?」
 好奇心、羨望、そして少しの嫉妬と恐れ。そんな混じり合った視線を向けられても、焦凍も李愛も何も言わなかった。クラスに溶け込もうとはせず、ふたりで一緒にいることが自然だった。
 ある日の放課後。通学路から家に帰る途中で、ピタッと立ち止まる焦凍。
「どうしたの? 焦凍くん」
「………これ、李愛に渡そうと思って」
 焦凍は手より少し大きいサイズの箱を取り出し、李愛に渡した。
「え! なになに? 開けていい?」
「うん」
 焦凍が頷くのを確認した李愛は、貰ったプレゼントの箱を開ける。中にはキラキラしたシンプルで豪華な、ピンク色のお花が目立つ金色の簪が入っていた。
「わぁ! 可愛い! これどうしたの?」
「李愛に似合うと思って」
 李愛の高揚した表情を見た焦凍は、珍しく微笑んだ。その瞬間、焦凍の胸の中にふっと小さな光が灯ったようだった。火傷の一件からずっと笑わなかった焦凍が見せた、大切な瞬間だった。
「貰っていいの?」
「うん。李愛の為に買ったから」
「ありがとう焦凍くん! 大切にするね!」
 李愛は焦凍が微笑んだのを見て、更に笑顔になる。一緒にいる時だけ、自分たちが“普通の子ども”でいられるような気がした。
 だが、焦凍の足取りはどこか重たかった。
「……今日も、帰ったら訓練だから」
 李愛は「えらいね!」と笑ったが、焦凍は曖昧に頷くだけだった。
 遊んでいる時と違って、訓練の話になると焦凍の声はいつも少しだけ小さくなる。
 だから、いつも手を繋いでいた。手のぬくもりを感じられて、お互い隣にいると認識して安心できたから。
 無言でも、手の温もりが伝えてくれる安心感。
 いつも通り手を繋いでいると、焦凍は心の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。言葉は少なくても、このぬくもりが自分にとって何よりの支えだった。それは言葉よりもずっと、ふたりの心をつないでくれていた。
 けれど――
 それは他のクラスメイトから見れば、面白い“からかいの材料”だった。
「今日も手繋いでるぞ〜!」
「ヒューヒュー!」
 からかいの声が飛ぶたびに、李愛は眉をひそめ、拳を軽く握りしめた。焦凍は無反応で流した。傷ついていないように見せていたが、内心では少しずつ、胸に小さな棘のような違和感が刺さっていた。
「なんで私と焦凍くんが手を繋いでるだけで、いちいち言うんだろうね」
「……だね」
 李愛はそのたびに疑問を呟いた。けれど年月が経ち、思春期に差し掛かると、その疑問は「恥ずかしさ」に変わっていった。
 ——男女で手を繋ぐのって、変なのかな。
 ——これって、“好きな人”としかしちゃいけないことなの?
 そう思った瞬間、それまで自然だった行動が、急に重く感じられるようになった。
 教室で、廊下で、誰かの視線が突き刺さるたびに、李愛は焦凍の手を取ることが怖くなっていった。
 ある日、焦凍が手を差し出すと、李愛が首を横に振った。焦凍の胸がキュッと痛んだ。
(どうしたんだろう)
 何があったのかはわからないけれど、彼女の拒絶を感じて、言葉が詰まった。胸が締め付けられるが、何も言えなかった。
「……どうした? 李愛。手、繋がないのか?」
 焦凍の声には、困惑と寂しさが滲んでいた。それが胸に刺さった。でも正直に言えなかった。恥ずかしいからなんて、言えるはずがなかった。
「………あのね、私、もう“大人”だから、手を繋ぐの辞めたの。大人だから!」
 焦凍は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに微笑んで頷いた。
「そっか。大人になったんなら……仕方ないな」
 その笑顔が、なぜかとても遠く感じられた。李愛は初めて、焦凍に“嘘”をついた。
 そしてもう一つ、初めて知った。焦凍の手の温もりを失うことが、こんなにも寂しいなんて——。
 その日の帰り道。隣を歩く焦凍の手が、何度かポケットの中で動くのが見えた。
(……やっぱ、手繋いでてもよかったかな)
 李愛は心の中で何度もそう思いながら、何も言えなかった。
 夜、自分の部屋の布団の中で、李愛はぽつりと呟いた。
「焦凍くん、ごめんね」
 ちなみに、クラスの男子たちは二人が手を繋いでいないことにすぐ気付き、騒ぎ始めた。
「え、あいつら喧嘩したんか?」
「……からかいすぎたか?」
 そんな風に気にされるほど、二人は“特別な存在”だったのだ。
 翌日から、焦凍はもう手を差し出せなかった。何かを壊してしまった気がして、それがどうしても怖かった。でも、本当はまた繋ぎたい、ただそれだけだった。
(なんだか、落ち着かない)
 李愛が自分から言い出した事だったが、手を繋がなくなった事が焦凍と距離が開いた気がして、悲しかった。
 ある日の夜。焦凍はふとした拍子に、父の言葉を思い出していた。
「女と馴れ合っている暇があったら、鍛錬に集中しろ」
 その時は何も返せなかったけれど、胸の奥が静かにざわめいていた。
(李愛といる時間を、“無駄”だって思ってるんだ……)
 それからは、なんとなくだが、お互いに距離が出来たかのように感じた。隣に居るのに、心が遠い。そんな感じがした。それでも焦凍と李愛は変わらず一緒にいた。クラスには最後まで馴染めなかった。
 でも言葉にしなくてもわかり合える信頼が、二人の間には確かにあった。
 だが不意に、過去の事を思い出す李愛。焦凍と無邪気にヒーローごっこをして遊んでいた日々。
『焦凍くん! わーたーしーがー! 来たー!』
『李愛、オールマイトの真似上手!』
 でも今は、お互い何かを避けるように喋るから、以前のようには盛り上がらなかった。李愛は段々と、その失ったものが大きくなっていくのを感じた。
 
 ――――――
 
 そして小学校卒業の日。
 教室の黒板には「卒業おめでとう」の文字と、担任の先生が描いた大きな桜の花。
 李愛の母が「こっち向いて〜!」と写真を撮る声に、焦凍はちょっとだけ恥ずかしそうにして、でも李愛の肩にそっと手を置いていた。校門を出ると、焦凍は無意識に李愛の肩に手を置いた。その小さな距離が、彼にとって唯一安心できる場所だった。
「中学も一緒って聞いたよ! 中学校生活も楽しみだね」
「あぁ」
 焦凍の答えはいつも通り短かったが、ほんの少しだけ、目元が柔らかくなっていた。
「中学生になっても、隣にいてね!」
「あぁ、勿論だ」
 ふたりの未来はまだ知らないけれど、この瞬間だけは何も失われていないように思えた。
 たとえこれから何があっても、この瞬間の二人の絆は色褪せない――そう信じていた。
 帰宅しても、父は卒業のことには何も触れなかった。
「……どうせ誰でも卒業する」
 それが、父の言葉だった。焦凍は黙ってその背中を見送った。
(李愛の家なら、きっと花束やケーキがあったんだろうな)
 そんな考えがふと浮かんで、焦凍は寂しさに気づかないふりをした。
 
────────
 
 焦凍は眠る前に制服のネクタイを何度も結び直した。鏡に映る自分の姿を見て、ふと思う。
「李愛も、同じ制服着るからな。きっと、似合うに決まってる」
 桜が満開の季節。柔らかな風に舞う花びらの中、轟焦凍と風詠李愛は中学生になった。
 凝山中学校の制服を身に纏い、浮足立つ生徒も多かった。そんな中焦凍は静かに校門で李愛を待っていた。
 入学式の看板の横で写真を撮る家族や、制服姿を自慢する子供と喜ぶ親を横目で眺めながら、李愛を待っていた。轟炎司は一緒に居なかった。
 だが、入学式が始まるまで李愛を待っても、李愛の姿を見つけることは出来なかった。李愛を見つける事はいつも簡単なのに、と思った焦凍は、不意に嫌な予感がした。
 入学式が終わり、新たな学びの場になる教室で配られた新入生名簿を眺めていた。しかし、どれだけ目を凝らしても、そこに「風詠李愛」の名前は見当たらない。
 ――見落としてるだけかもしれない。
 そう思ってページを何度もめくるが、やはりどこにも名前はなかった。
 指で名簿をなぞるたび、胸の奥が冷たく沈んでいく。
 小学校まで毎日一緒にいた名前が、まるで最初からなかったかのように、そこには存在していなかった。
『中学も一緒だね!』
 焦凍は嫌な予感を振り払うように、一年生全クラスをくまなく見て回る。しかし、どこにも彼女の姿はなかった。
 オリエンテーション、自己紹介——行事をこなす間も、頭の中は李愛のことでいっぱいだった。もしかしたら、別のクラスで名前が見落とされていただけかもしれない。そう思いたかったが、そうではないという確信が、心の奥で重く沈んでいた。
 新しいクラスメイトたちは、「よろしく!」と笑い合い、あちこちで席の交換や自己紹介が飛び交っていた。その輪に入る気にはなれなかった。
 焦凍の視線は、名簿にしか向いていなかった。
(違う、そんなはずは無い)
 帰宅した焦凍は、制服を脱ぐ間も惜しんで父・轟炎司の元へ向かった。
(いや………まさか)
 その顔を見た瞬間、胸に渦巻いていた疑念が怒りへと変わる。気づけば、彼の胸ぐらを掴んでいた。
「おい、李愛が新入生名簿にいなかったぞ!! どういうことだ!!」
 怒鳴り声が家の空気を裂いた。その音に、姉の冬美が慌てて駆けつける。
「どうしたの?! 二人とも、落ち着いて!」
 だが、焦凍の問いに対して、炎司は落ち着き払ったまま口を開いた。
「風詠の娘は、お前を誑かしている」
「……………は…………?」
 その言葉は、焦凍の心に氷の針のように突き刺さった。何を言っているのか、最初は理解できなかった。だが、父の次の言葉で全てが崩れ落ちる。
「あの個性はお前に相応しくない。お前には、もっと優秀な個性を持った女と結婚してもらう。——もう、あの女には会うな。会うことは許さない」
 淡々と告げられるその声に、焦凍の拳は震えた。怒りと悔しさ、無力感が混ざり合って、言葉にできない感情が込み上げる。
「俺は、個性で人を判断するようなお前みたいな男には、絶対にならねぇ」
 低く抑えた声で言い放つと、焦凍は表情を変えない父と、おろおろと間に入ろうとする冬美を振り切り、自室に戻った。ベッドに腰を下ろし、手元のスマホを握りしめる。そして、迷わず李愛に電話をかけた。
「……そういえば、李愛の制服、どんなだろうな」
 画面の向こうの彼女を思い浮かべるが、想像の中の李愛は、小学生の頃のままだった。
『もしもーし! 李愛です!』
 明るく響くその声に、張り詰めていた焦凍の心がふと緩む。まるで、その声だけで過去の記憶が蘇り、痛みが少しだけ和らいだ気がした。
「俺だ。……李愛、少しいいか?」
『いいよ〜! 何かあった?』
 その無邪気な問いかけに、焦凍はしばらく言葉を飲み込んだ。伝えるべきか迷っていた。けれど、沈黙の末に出たのは——
「…………………暫く会えねぇ」
 静かな言葉だった。その一言の中に、怒りも悲しみも、どうしようもない現実もすべて込められていた。
『………………………やっぱり、中学違ってたんだね………』
「…………あぁ。」
 沈んだ空気の中、李愛の声が再び明るさを取り戻す。
『じゃ、じゃあさ! 焦凍くんがよければだけどさ、通話しようよ! 焦凍くんに話したいこと、沢山あるんだ』
 その前向きな言葉に、焦凍の胸がじんわりと温かくなった。彼女は何も知らず、ただ変わらず自分に寄り添おうとしてくれている。
「……あぁ、ありがとな李愛。………俺も、李愛の声を聞いていたい」
 会えない代わりに、せめてその声が、今の俺を繋ぎ止めてくれる。
『えへ、嬉しい。ありがとう焦凍くん! 私、頑張るね! じゃあね!』
 プツッという音と共に切れた通話。焦凍は暗くなったスマホの画面をしばらく見つめていた。
「……何を頑張るんだ……?」
 呟いたその言葉は、自分自身にも向けられていたのかもしれない。
 三年間。焦凍は何度も李愛の声に助けられた。
 画面の向こうから聞こえる「大丈夫!」という言葉に、どれだけ救われただろう。それは焦凍にとって、世界でいちばん温かくて、いちばん正直な声だった。それからは、二人は姿を見せることなく、ただ声だけで繋がっていた。会えなくても、声を聞くだけで心が少し軽くなる。そんな日々だった。
 焦凍と李愛は、通話で他愛のない話をしていた。
 友達のこと、勉強のこと、試験のこと……。
『私ね、友達が出来たの! 今日その子とスイーツ食べてきた!』
「……そうか、楽しそうだな」
『うん! ……でも、焦凍くんとも行きたいな』
 李愛の声のトーンが少し下がるのがわかった。
『会えた時にやることリストに追加しとくね!』
「そうだな。俺も、李愛とやりたいことあるんだ」
『え、なになに? 何あるの?』
「……秘密だ」
『え〜? 教えてよー!』
 画面越しの笑い声が、部屋に優しく響いた。
 それを聞きながら、焦凍は自分の胸の内にそっと呟いた。
「……会えた時に、ちゃんと伝える」
 その言葉は、まだ名前もない「やりたいことリスト」の一番上に刻まれた。
『あ!もうこんな時間!また明日ね、焦凍くんっ!』
「あぁ、また明日話そう」
 ベッドに横になりながら、焦凍は天井を見上げた。通話の向こうの彼女の声が、まだ耳に残っている。
「……絶対、会いに行く」
 それは誰に向けたでもない、小さな誓いだった。
 そして、まだ見ぬ春が、少しずつ近づいていた。
 
───────
 
 中学三年の冬、焦凍は雄英高校への合格通知を受け取った。
 明日は入学式。新たな道の始まりの前夜、空には星が静かに瞬いていた。

2025/12/23