────誰かが泣いている気がしたの。
ハッ、とうつらうつらと揺蕩っていた思考が浮上し。もう随分と見慣れた天井が暗闇の筈なのに、やけにくっきりと細部まで目に映った。ふと気だるげな動きで横を見やると、濃紺の空を四角くく切り取ったような額縁の先に、月がぼんやりと浮かびこちらを照らしている。
あぁ、いけない。窓掛けを閉めるのをすっかり忘れていたみたい。
月の位置と、体感時刻から察するにまだ真夜中だろう。今日の月は格別機嫌でもいいように明るく、寝ぼけ眼の私をからかうように輝いてる。
魅入られたように惚けて光を見つめながら フと、夜半の静かさに紛れ 微かに別の部屋で物音がしたのに気付いた。
…彼だろうか?
月を見上げて、確信などないのにそう思い至った。
いつもだったら、些細な家鳴りだろうと興味もなく済ますであろう。しかしどうにも、頭に過った人の事が思考を占め 半ば突き動かされるように、気付けば寝室として宛てがわれている部屋から出ていた。
薄暗い廊下を素足で進むと、布団の中で温まっていた足先の体温がどんどん奪われていく。口酸っぱく"いくら春先とはいえ、夜は冷えるんですからね、暖かくしてください"と何度注意されたことか。
ニャー。
独りでに苦笑を零していると、とある部屋の扉の前でかりかりと しなやかな曲線をした生き物が、何かを訴えかけるように爪を立てているのを見つけた。
貴方のご主人様はここ?
ゆらりと緩慢な動きで月色の瞳がこちらを向く。私の姿を確認した猫は 愛想もなく直ぐに顔を背け、まるで自分の役目は終えたと言わんばかりに優雅に尾を揺らし、背を向けて廊下の先の暗闇へ紛れた。
彼の愛猫である あの子は、名前が無い。まるで必要以上の愛着を抱かないようにするように、頑なに彼はこの子に名前をつけようとしない。…そんな猫に、少し自分の姿を重ねてしまう
カチャ。
その爪を立てられた板には鍵は掛かってはいなくて。あっさりと私の侵入を許す。
開いた扉の先はキン、と纏う空気が変わるようだった。どこか冷たくて、隔離された別世界のようにも感じる。 ぎし、と床を鳴らして奥へと進むと 暗闇に溶け込みそうになっていた影が、怯えるようにびくりと揺れた。
「…江渡貝さん?」
「……っ、…こ、こないでください…!」
私を拒むその声は、随分湿り気を帯びていて、力なく壁へ反響する。その痛ましい声を、どこかで聞いたような気がするな、と。どこか冷静な頭の片隅で思った。
暗闇にも目が慣れぬ内に無謀にも歩き出すと、案外近くにいたその人の元へと直ぐに辿り着けた。窓枠の下で身を隠すように縮こまっている影におそるおそると触れると、柔らかい手触り。見えなくとも分かる、彼のふわふわな髪の感触だろう。一瞬触れられたことに驚いたように身を揺らしたけれど、態度での拒絶はされなかった。
──ふと、この部屋の窓掛けが風に揺れてふわりと踊るように揺れる。肌寒いと感じたのは、どうやら部屋の窓を開けていたからみたい。
外の月明かりは一時的に雲に隠れていたらしく。顔を再び覗かせ暗い部屋の中の一部を映し出す。
春の月明かりに輪郭が淡く照らされて、その件の相手の表情がぼんやり見えた。頬に走る特徴的な線の上を沿うように光る跡。迷子の子供のように途方に暮れたような目が私を映す。目尻に浮かぶ星を見て、どうしようもなく湧いたのは安堵だった。
────嗚呼 お月様。起こしてくれてありがとう。
でなければ、1人で泣かせてしまう所だった。
***
「もう…来ないでくださいって、言ったのに…」
「すみません」
「…みっともない所ばっかり見せてますよね…」
「そんなことないですよ」
泣き腫らした目を擦りながら、鼻を啜ったその人は拗ねたように窓枠に手を掛ける。月の輝く外に目を向けて。私から視線を逸らした 長い睫毛の下、月に照らされて光る潤んだ瞳はどこを映しているのか分からず、不思議な輝きをしている。どうにも、美しくて。私を魅了してやまない。
───彼の名前は江渡貝弥作さん。若くして、この剥製工房を切り盛りしてる腕利きの職人さん。成人はしている筈だと思うのだけど、どこかあどけなさの残る好青年。
「…何かありましたか?」
「………母さんが、」
「…」
「…母さんが、貴女を追い出せって言うんです」
涙の理由を尋ねると、1度言いづらそうに俯いたものの、言葉にしてくれた彼は 私に申し訳なさそうに肩を小さく窄める。そんな様子を見て、ああやっぱり、と納得したような気持ちの方が強かった。
やはり私は、お母様によく思われていないようだ。
お父様は随分前に亡くなられていて、長い間お母様と二人きりで生活をしているのだという。江渡貝さんはどこか過保護なお母様の言うことに反抗することができないようで、度々それで気落ちしていたり、癇癪を起こしたり、今日のように泣いたりしてる姿を見かけたことがある。
…でも、奇妙なことに、私はそのお母様の姿は見たことがない。それどころか生活している片鱗さえ感じない。
──屋敷中の掃除を任せてもらっているけれど、唯一入っては行けないと言われている部屋がある。
何か根深く。姿を見せず彼を苛むお母様と関係があるのか、私はそれを聞けずにいる。ここ最近は特に、こんなふうに隠れて泣く姿を頻繁に見かける。
「…私、出て行った方がいいですかね」
「 な、なんでそうなるんですか…!」
ずるいとは分かっていても、つい答えを求めるような言い方をしてしまう。驚いたように開かれた大きな瞳に見つめられ、きゅうっと胸の奥が締め付けられる様だった。
─── 私はこの屋敷で、彼にお世話になっている身だ。
私には、江渡貝さんに会うまでの自分自身の記憶が抜け落ちている。自身の名前さえ思い出すことができない状態で。表面に大きな怪我は見られなかったが、この洋館の近くの林に力無く倒れていたらしく。それを見つけて介抱してくれたのが江渡貝さんだった。
お母様が私を忌み嫌うのも頷ける。怪しい以外の何者でもないと思うのだ、私の存在は。
それでも、江渡貝さんは見ず知らずの他人である私を受け入れてくれた。行き場のない自分に衣食住を提供してくれて、工房の手伝いや雑務の仕事まで頂き。江渡貝さんは私に居場所をくれた。感謝してもしきれない。だからせめて、負担にだけはなりたくなかった。
「出ていけなんて、そんなこと言ってないじゃないですか…!」
「でも、私がいたら江渡貝さんがまたお母様に何か言われます」
「…っあの人は、母さんは、いつもああなんですっ。僕のやることを、全て否定する…っ」
苛立ったように自身の前髪を荒く掻いた 彼の瞳が、ぐにゃりと、悲しげに歪む。嗚呼またこの優しい人を悲しませてしまった。
ゆっくりと手を伸ばし、今にも涙が零れそうな目尻にそっと指先で触れる。
「……なかないで、江渡貝さん…」
「…っ泣いてないです」
「大丈夫ですよ、私本当に…ここじゃなくても、江渡貝さんみたいに優しい人がいてくれるってだけで。そう思うだけで、案外生きていけそうです」
「…」
「だから、」
せめて明るく伝えようと、緩ませた口元はその先の言葉を紡いではくれなかった。
伸ばした指先を手の甲ごと彼の、想像していたよりも大きな手に するりと覆うように取られて。慈しむようにそのまま特徴的な線の走る頬に宛てがわれ、呼吸が一瞬止まってしまったかと思った。
「……え、どがいさん…?」
「……────行かないで」
「っ、」
朧月のような大きな瞳がこちらを見てる。切なげに歪む眼差しにくらりと一瞬視界が明滅した。他の誰にも聞かれないように、夜半に溶ける掠れたその声がどうしようもなく儚げで。指先から伝って、彼の少し冷えた温度がはっきり分かるくらいに、全身が熱持つ。
それからの互いの沈黙は長く、外からの風がふわりと彼の跳ねた髪先を揺らす。季節は春。桜の花びらが部屋にそれを知らせるように飛び込んできた。
「…いつも、考えます。出会った時と同じように…貴女は、突然どこかへ消えてしまうんじゃないかって…」
「……」
見つめ合ったまま、先に口を開いたのは彼の方で。絞り出された言葉と共に、ほろりと、光に反射する美しい朝露の様な雫がその月から滴る。
必要じゃなくなる、なんて。そんなこと。あるはずもない。だって私はこんなにも、私の方こそ、いつも貴方の事でいっぱいなのに。
「江渡貝さんの、負担になりたくないんです」
「負担でも重荷でもないです。…貴女に助けられてることだってたくさんあります」
「…お母様に叱られてしまうかもしれません」
「何度だって、説得します」
「………ここにいても、いいんでしょうか?」
「いいんですよ」
「……ほんとは、本当は、私」
「……」
「ここに、いたいです」
「………いてください」
たった一人に求めて貰えることは、こんなにも幸せな事なのだろうか。
人と極力関わらずに生きてきたのであろう江渡貝さんの瞳は、他者から曲げられることがなかった分、とても真っ直ぐで綺麗だ。そんな瞳に、自分を映してもらえている。
何も持っていない自分の、何もかもが肯定されたような心地だった。血管を巡るように温かい気持ちで満たされて、釣られるように私も目元が熱くなり、涙を零していた。
「…泣かないで」
「…ないてないですよ」
可笑しなことに、先程とは立場が逆になってしまった。けれど、けして悲しい涙ではないと知って欲しくて微笑むと、江渡貝さんは少し頬を染めて 俯く。名残惜しむような仕草でそっと江渡貝さんの頬から外された手は、繋いだまま。
お互いに少し臆病なのは分かってる。だから確信めいた言葉は口には出さない。けれど、今なら分かる。心通わせた気持ちがここにあることを。
「…もう出ていくなんて言わないでください」
「…ごめんなさい。強がり言いました」
「そうですよ、貴女最初は満足に買い物も出来なかったくせに。そんなんで1人で生きていけると思ったんですか?無謀です」
いつもの調子の小言染みた江渡貝さんに戻ってしまった。苦笑しながら全くもってその通りですと頷くと、頬に伝った涙の跡を、繋いでいない反対の彼の手が そっと撫ぜる。
「……貴女は春の月のような人ですね」
「春の月…?」
「…春の夜は、なんとなく闇が濃いように感じます。月はそれに負けないように強く輝きを増すのに、どこか潤んでいて、その輪部をはっきりとさせない…」
窓の外に目をやった江渡貝さんは、煌々と輝く月を見ながら、私の手を繋ぐ手に力を込めた。
「…月を見ると、貴女を思い出します」
──だから、春が終わると。貴女も消えてしまうのではないかと、怖かった。
そう微笑む江渡貝さんこそ、今にも消えてしまいそうで、ぎゅっとその手を握り返す。
「消えないです。春の月は、季節ごとに見え方を変えるだけで、そこに居続けます」
「……そこに、居続ける」
言葉を反芻するように小さく呟いた江渡貝さんが、月の見える部屋で、何に怯えて涙を流していたのか、ようやく分かった気がした。
「…いつか私が、何もかも、全部思い出しても、変わらず江渡貝さんの傍にいます」
「……」
「その時はどうか、改めて、私の名前を呼んでください」
「…うん」
ようやっと、柔らかく心から微笑んでくれた江渡貝さんは、私の手を宝物をしまう様に大切に両手で包んでくれた。どくどくと忙しなく耳裏にまで響く心音を感じながらも、私は逸らすことなく、江渡貝さんを見詰め返す。
「いつか、貴女の名前を知れる日を 楽しみにしていますね」
「私も 江渡貝さんに読んで貰えるの、楽しみです」
「…ありがとう」
「…」
「貴女に出会えて、良かった」
──こちらこそ。
貴方に巡り会えて、私は幸せです。
────
───────
──────────
──見学の時から思っていたけど、ここの大学の敷地内は本当に桜が綺麗だ。
辺りでがやがやと活気づくサークル勧誘をのらりくらりと潜り抜けながら、教室を目指す。
春は好きだ。温かくて、空気が柔らかく。花々の彩が美しい。少し前は秋の方が好きだと言っていたような気もするのだけど、いつからか好きな季節は と問われると即座に春と言いきるようになった。
だからどうしたというものなのだが、何故か春の季節を迎える度に、わくわくとは違った想いが胸を占めるのだ。ではそれは何?と問われると途端に言葉に詰まってしまうから不思議なものだ。どうにもちくりと違和感の棘が刺さったような感覚が抜けてくれない。
ちくちくと小さく痛むのに、春を愛おしく思うのは何故なのか。
───バサッ、
「わっ」
「す、すみません!」
ぼさっと考えながら歩いていると、突然私の進む道の前方に何枚もの紙がばら蒔かれた。どれもでかでかと"大歓迎!"等という誘い文句が羅列されており、おそらく勧誘用のチラシだろう。それを落としたであろうふわっとした柔らかそうな髪をした男の人が慌てて地面を這うように拾っている背中だけが見える。
少しおどおどした様子の人で、おそらく断られずに色々と押し付けられたのだろうなという様子が窺えた。周りは誰も彼を手伝おうという人がいなくて、直接的に謝罪を受けた身として放っておく事ができず、散らばったチラシを数枚拾った。
「大丈夫ですか?」
「あ、す、すみませんありがとうござ、い、…………。…え、」
顔を上げた男の人は、私を見てこの世のものでは無いものでも見たかのように驚愕に染まった表情で私を見てる。しかしこちらだって驚いた。なんというか…とても綺麗な顔をした男の子だったから。両頬に特徴的な線が薄く走っていて、その上にある瞳は何とも綺麗で大きくて。睫毛も長い。凛々しい眉毛をしているのにどこか甘やかな顔立ちで、一瞬見とれてしまった。
数秒何故か時間が止まったかのように見つめ合い。まじまじと人の顔を見るなんて失礼だと気付き慌てて平静を装い「それじゃあ、」と一言だけ声をかけて足早にその場から離れようとすると、手首をがしっと掴まれる。
「え、」
「あの、名前、名前を…教えて頂けないでしょうか…!!」
「え、え、」
掴んできたのは、もちろん、チラシを手渡した綺麗な顔の男の子で。頼りなげな印章だったというのに、随分興奮した様子に声を荒らげて、キリッとした瞳が私を射抜く。
え、これは、ナンパというやつなのだろうか。人生で出会い頭にこんな風に名前を聞かれるなんて初めての経験だ。
「あ、の…?」
「あ、ごごごごごめんなさい!怪しい者では無いんです!その、先に名乗るべきでしたよね!失礼しました!」
「いえ…」
「ごめんなさい、嬉しくて、ごめんなさい」
戸惑っていると、興奮した様子からハッとした様に背筋を正し私に向けて頭を下げてくれた。
よく見るとその人は何故か涙目で、目尻を潤ませながら私を幸福そうに見つめていた。
なんだか、とても懐かしいような感覚がした。
「僕は、江渡貝弥作と言います。…貴女の名前を、教えて貰えないでしょうか」
気づけば、彼以外の輪部がぼんやりと滲んでいて、いつの間にか私も釣られるように涙を滲ませていることに、ようやっと気付く。
「───わたし、は…」
胸のちくちくは、いつの間にか流れて消えていた。