世間一般的に春って良い季節みたいなイメージが定着してる。概ね同意したいところなのだが、きょうの私にはちょっと難しいかもしれない。
春だから新人さんが入ってきた、彼女は私より年上だけど、とても素直で大らかな良い人でいっしょに仕事をする上で何の文句もない。しかしいかんせん新人さんなので教えることは山ほどあって、時間がいくらあっても足りないのにきょうは2人勤務で、平日だというのにバカみたいにお客さんが来た。
オマケに春だから桜だと遅めの花見見物にやって来た酔っ払いが、もう葉桜なんてどうしてなんだと意味不明のクレームを30分近くに渡り喚いた上、何にも買わずに帰っていった、知らんわ、桜の開花は私には制御できない。
昨日は初夏かよというくらい暖かかった太陽は何故か朝から元気が無く、それだというのに春だから私は花粉症で1日中鼻をすんすん言わせるハメになった。春だから天気と気温が行ったり来たりで花粉症じゃなくても風邪を引いてしまいそうだ。
そういうときに限っていっしょにやらないと覚束ない作業が山積みになって、ぜんぶ背負い込んだら定時を余裕で過ぎていた。申し訳なさそうな顔をしていた彼女を先に帰して、やっと作業を終えてやけに寒い帰途に着けば、駅に着く前に春時雨に見舞われた。慌てて折り畳み傘を探すも、鞄の中に入れたはずのそれが見つからない。
道中唯一のコンビニに駈け込めば、春だから気候が良くて観光客が増えてて、突然の雨に私の1人手前で傘が売り切れた。そこそこの救いはドシャ降りじゃなかったことだけど、疲れた体に花冷えの雨は冷たい。朝それなりに暖かかったおかげで薄着をしたのがアダになった。シャツは濡れて肌に張り付いて、靴の中も水が染みて気持ち悪い。濡れねずみのまま座るわけにもいかずに、がらんとした車内で立ったまま数駅過ごし、最寄駅にやっとのことたどり着いた。やっぱり雨が降っていて、家までどうしようか一瞬迷う。
これだけ濡れてたらいっしょか、もう、ほんとサイアクだ、春なんてだいきらい。
きょう何度目か知れない大きなため息を吐いて屋根から一歩踏み出したときだ。私に向かって一台の車がパッシングした。濃いネイビーのミニ・ハッチバックモデル。小柄な車体に似合わない大きな身体の運転手が窓から少し顔を覗かせて手を振った。
「おーい、名前。早く乗れよ、濡れちまうだろ」
「…キロさん?」
「おう、俺だ。いや俺じゃない車になんか乗るなよ?」
に、と冗談めかして笑った彼に、愛想良くできる気がしなくて今度こそかなり迷った。ドアに手を掛けたまま逡巡してしまった私をキロさんが見上げてる。この位置からの視線はなかなかにレアだなと意味不明なことを考えた。
「どうした?」
「…いやあの、…シート濡れちゃうし」
「良いってそんなの」
「でも革でしょ?」
「あとで手入れすりゃ何でもない。ほら良いから乗れって」
「…ん」
それでも車内を濡らしてしまうのは何となく申し訳なくて、私は助手席で意味もなく小さくなった。適度にエアコンが入っていて暖かい。やけに冷えたままの手を無意識に風にかざして温めた。
「…何で来たんですか?」
「恋人を迎えに行くのに理由が要るか?」
相変わらず何故なのかわからない上機嫌でキロさんは答えた。彼は余程のことがない限り、大抵の場合上機嫌なので、その笑顔と言葉に深い意味はないのだけど、余裕のない私の精神はそれを素直に受け取ることを拒否する。
また鼻がぐずぐず言い始めてて普通にブサイクなくしゃみをしそうだし、雨で無残に崩れているだろうメイクも気になってざわざわする。いやいっしょに暮らしてるからメイクもクソもないんだけど。
いつも通りのスムーズなキロさんの運転で、無事マンションまで帰ってきた。ブスっとした私の手を引くキロさん。大きな手が暖かくて、意味もなく泣きそうになる。まだ仕舞ってなかったヒーターをオンにして、いつの間に持ったのかキロさんはタオルでごしごし私の髪を拭き始めた。
「…『しごおわですー』」
「…?」
「そうやってお前がひと言送って来ねえ日は、なんかあった日だ。気温がガタガタしてたから、そろそろかと思ってた。おつかれさん、名前」
穏やかに笑った彼が頬にひとつキスをする。ふわ、と気が緩んで、あ、泣く、って思った瞬間にくしゃみが出た。流石に一瞬驚いたキロさんが、今度は声を出して笑い出す。
「ッぶ、お前、このタイミングかよ、あっはっはっは!」
「笑わないでくだ、っくしゅ!」
「あー、もう、花粉だか風邪だかわかんねえな。
ほら、風呂あったまってるから、さっさと脱いで入って来い。メシ用意しとくから」
もう、もう。
春なんてきらい、だいきらい。
環境も変わるしお天気は変だし花粉症だし変なお客さんは増えるし、散々だ。
花冷えの雨の夜
けど、こんな風に少し肌寒い雨の夜は、あなたがいつもより強く抱き締めてくれるから。
ちょっとだけ、きらいじゃない、って思うの。