行く春、来る春






本来、入学の時期に向けて咲くべき桜の木が早々に咲き乱れ吹雪を舞わせたのはカレンダーも三月半ばに差し掛かろうとしていた頃のことだった。

 卒業式を目の当たりにして、とうとう自分が送り出される身になったのだと強く感じ入る。前日までは、どうってことなく普段通りに過ごしたのに、不思議なものだ。
 堅苦しい卒業式も、湿っぽい担任の教師からの別れの挨拶も、なんだかいつも以上にあっという間に終わってしまった。人生、これからもこんな風にあっけなく終わってしまうのかな。そんな風に…らしくなく思うほど、それは滞りなく終わってしまった。

 卒業、なんてどうってことないと思っていた。
 ただ、この場所に来ることがなくなるだけ。
 だって、用事がなくなるのだもの。出席も、単位も、なにもかもを取得して、ここでやることがもうなくなったのだ。
 それが、卒業。

「はあ」

 名残惜しい、だなんて。
 全てを修了したにもかかわらず…やり残したことがあるような気がするのだ。きっと、そんなことはないのだけれど。

 校内中からすすり泣きや、励まし合い、別れを惜しむ声、送り出す声、先に行くぞと告げる声がする。
 三者三様、十人十色ではあるが、皆一様に別離の挨拶をしている。

「…………」

 そんな校舎を横目に、私はただ足を動かしていた。
 そう、今日になって突然卒業を実感して……まだその気持ちが新鮮なままで。どうにも持て余してしまって。

「ま、私が来るのなんて……ここしかないか」

 いつもの場所にいた。
 同級生たちが受験勉強に躍起になって取り組んでいる間にも、私はここで竹刀を振っていたのだ。ほんの一週間ほど前まで、まるで卒業のことなんて考えもせずに私は無我夢中でここにいた。ここで練習をしていた。いつまでも、ここに居られるような気がして。

「あ、誰かタオル忘れてる……」

 体育館の隅に放置されたままのフェイスタオルを拾い上げる。きちんと畳まれてはいるけれど、確実に汗でぐっしょりなっていたであろう代物だ。誰かいるのなら預けるが、今から校庭まで出て後輩を見つけるのも面倒な話だ。
 他に手立てを考えたが、周囲には誰もいなければ本日は卒業式のため部室棟すらも開いていない。

「ったくもう、今日は部室棟も開いてないのに……」

 一般的な高校三年生は、夏の大会が終わればほとんどが引退する。
 だけど私は己の意思で続けた。進学先もスポーツ推薦で、勉強よりもむしろこの剣の道をひた走った方が自分のためになると思ったからだった。

 ここで、二年と半分、剣道部主将として汗を流した。
 他ならない私が尽力してこの学校の剣道部を復興させたのだ。部員が来なくて前年度でお取り潰しが決定していた剣道部だったけれど、学校側に掛け合い、頼み込み、なんとか存続させた。
 そして大会で上位入賞させるほどまでに鍛え上げた。この、短い間で。まるで少年漫画みたいに。

「……主将」
「、鯉登か」
「そのタオル、私のものです」
「ああ、これ鯉登のだったのか。誰かに託さないとと探し回らなくてよかった。ほら」
「ありがとうございます」

 振り返ると、学ランの詰襟を一番上まできちりと閉めた男子学生が佇んでいた。体育館近くの桜の木から、花弁が風に舞ってちらちらと彼の登場を演出している。
 なんとも花があり、憎いことだ。

「鯉登が忘れ物とは、珍しいな」
「私も忘れ物くらいします」
「ふぅん」

 彼は私の次の年に入学してきた剣道部の後輩で、名を鯉登音之進と言った。
 自己紹介をされた時は、まあなんと勇猛で力漲る名だろう。そう思ったのだけれど、名は体を表し嘘偽りなく彼を表現していた。
 彼は剣道部に入ると、幼い頃から鍛え上げてきた剣道の腕を遺憾なく発揮し、私と二人部活の柱となって大会出場を果たした。

「………」
「………」
「部活は?」
「あなたは……剣道のことばかりですね」
「当たり前でしょう。それはこれまでの付き合い含めて私の実績が物語ってる。私は剣道を窮めるために生まれて、ここへ来た。潰れかけの剣道部を立て直して、大会にも出た。団体優勝は出来なかったけど、単独での優勝は勝ち取った。私と、鯉登で」
「……はい」

 確かに、平たんな道のりではなかった。
 何をするにも一苦労で、部員集めから始まった私の部活動は二年目に入る頃には青春そのものと言えるほど充実したものとなっていた。
 高校を卒業して次に来るその季節には、まだ青い春は続いているのだろうか。私の青春は、もうすでに高校生活で消耗してしまったのではないか。そうであれば、次に来るのは、長い長い朱夏なのだろうか。

「主将」
「さっきも言おうか迷ったけど……私はもう主将じゃないでしょ。主将は鯉登だよ」
「………はい」

 私の主将の席は、鯉登に明け渡した。
 彼以外に相応しい者がいなかったのだ。
 強さも、存在感も、思考も、判断力も主将のそれに相応しいと判断した。周囲から異論が出ることもなかった。皆、同じ考えだったのだろう。
 鯉登は、私の考えや意思をまるでそのままインポートしたかのように同じ思考回路を保有し、部活動を執り仕切っている。私が大会なんかに出なくなっても。

「鯉登、後は頼んだ」
「……しゅ、……先輩」
「なに」
「また、お顔を見せてください」
「出来ればそうしたいけど……進学先は、」
「分かっています。遠隔地であることは。…しかし帰ってくることがあれば、どうか……ご連絡を、お待ちしております」

 鯉登から、私の顔を見たいだなんて言葉が出るとは思っていなかった。いつも、私の言葉を無言の内に飲み込んで従ってきたから。

「……鯉登がそう言ってくれるのなら、顔を出すのも悪くないね。分かった、じゃあ次帰ってくる時は必ず連絡をするよ」
「先輩、」
「ん?」
「その……これ、を」

 鯉登は不意に胸に手を当てると、上から二番目に取り付けられていた学ランのボタンを引き千切った。

「な、っ……今裁縫セットなんて持ってないけど! どうしたの、ボタン、ゆるんでた?」
「受け取ってください」
「え?」

 竹刀を握りすぎて固くなっている鯉登の手のひらには学ランのボタンがころりと転がっている。
 こんなの、一昔前の慣習だと思っていた。第二ボタンの譲渡なんて。でも、あれは卒業する者が残る者に渡す代物で……。

「どうして第二ボタンなのか、ご存知ですか?」
「え?」
「どうして、第二ボタンを譲渡するのか。ほかのボタンでなく、二つ目である理由を、ご存知ですか」
「いや……知らない」

 ブチ、と引き千切った第二ボタンを手のひらで遊ぶ。その転がる様子をじ、と眺めている鯉登は、まるで感情が読めない。

「心臓に、最も近いから……だそうです」
「………」
「心臓、心を、思う相手に」
「ちょ、ちょっと、鯉登…?」
「どうか、お受け取りください。今後一年は、第二ボタンをあなたに預けて過ごします」
「もう付け直さないってこと? みっともないじゃない!」
「すでに心を捧げた人がいるのだという牽制です」
「誰を牽制するの!」
「世の人間に」
「ん? でも待って、つまり……鯉登は、」
「お待ちください」

 そこまでやっと思考回路が追い付いて、やっとその先のことを考えようとした矢先、鯉登が私を止めた。

「その先は、私が卒業した暁に、あたなに」
「私に、待てと?」
「はい」
「……まあ、私を信用してくれてるの、かな」
「……はい」

 呆れ混じりに言うと、先程の読めない表情からは一変、恥ずかしそうに俯いた。なにを恥ずかしそうにしてるんだ、この野郎。恥ずかしがるのは今じゃなくて、ボタンを引き千切った前後だろう。

「どうか、お納めください」

 いつも私への態度も言葉づかいも丁寧だった鯉登。優秀な後輩であるという印象が先行して、ま、気持ちだし。いいか。
 そんな軽い気持ちでそれを受取った。

「鯉登の第二ボタン、しかと受け取った」
「どうか、私と思って……お側に」
「……出来たらそうするよ」

 そこで気付く。
 なにか引き換えに、ものを上げなくてはならないと思ったのだ。
 今、自分が身に付けているもので、上げられるもの……ああ、これしかない。

「じゃあ、これ」
「え、」
「あげる」
「しかし、」
「もらってばっかりじゃ嫌だから」
「……よろしいのですか」
「もちろん」

 胸元で結ばれていたセーラー服のスカーフを緩めて取ると、ろくに畳みもせず鯉登に投げて寄越した。

「ずっと、側にいられる気がします」
「鯉登、そんなに重かったっけ」
「?」
「いや、いいわ……」
「先輩」
「ん?」

 部内での練習試合にて、相対する面の向こうから見えるまさに真剣勝負の眼差し……それと同じものが向けられている。

「すぐに追いついて見せます」
「……見物だな」

 私の手にはボタンが、鯉登の手にはスカーフが握られている。
 この光景は、端から見るとまさに青春そのものだろう。自分でもそう思える。
 ただ、これが青春だけで終わってしまうものなのか。これ以降の朱夏も白秋も、玄冬ですら超えて…ずっと続いて行くものなら……。

「返さないぞ?」
「構いません」
「それも、返さなくていい」
「大事にします」

 宣言通り、本当に大事にしそうだ。

 これにて話は終わりであると態度で示そうと、鯉登が佇む体育館の出入り口まで足を向ける。

「あ、」

 外へ降り立ったと、ざあ、と風が吹きあがった。
 先程鯉登の登場を演出していた桜の花弁が、この度は私の周囲をも含めて舞い踊っている。

「……春の祝福だ」
「、先輩」
「なに?」
「ご卒業、おめでとうございます」

 桜と共に祝福を述べた鯉登は上品に笑んだ。が、私が返す言葉はすでに決まっていた。

「遅いよ」