「ときに門倉さん。甘いものは平気ですか?」
「どうしたの、急に。……まあ、人並みに」
「じゃあ食べに行きましょう。しあわせを」
「……へ? し、しあわせ?」
目の前で目をシロクロさせている人は、付き合って半年になる恋人である。ちなみに上司であり家主だ。
最初こそ、全然意識されていなくて何度も心が折れかけたが――落ち込むことはあった。でも諦めなかった――なんとか周りの人に協力してもらって、必死にアプローチをして彼――門倉さんの隣を歩く権利を獲得したのだ。けれど……。
――いつ、門倉さんは私にすきと言ってくれるんですか。
そう、そうなのだ。彼から「すき」や「あいしている」などといった甘い言葉を聞いたことがない。試しに「門倉さん、すきです」と所謂、萌えポイントだと言われている上目遣いをしながら甘えた声で告げれば「俺も」って素っ気ない返し。
いや、あの、「そこまでじゃない」って言われるよりはマシなんですけどねっていつも言いそうになるほど、この短いようで長い半年間、悶々といている。同棲をさせてくれる辺り、それなりに思われているのは分かっている、分かっているのに、私という女は言葉を欲している。彼に嫌われたくない、でも、聞きたい。すきという一言が。
ので、そろそろアクションを起こしてみようというわけです。
さきほどからテレビでは、パンケーキ特集をしており、今年入ったばかりだという可愛らしい新人グルメリポーターが、小さな口をいっぱいに広げてふわふわな白いホイップクリームを乗せた、厚みのあるパンケーキのかけらを頬張っている。これぞ至福! とばかりに口端にクリームをくっつけて……ああ、いいなあ。
「名前ちゃん、あんまり、ああいうの食べない子だと思ってた。意外」
「だ、だめですか?」
「全然だめじゃないよ。……うん、行こうか。しあわせを食べに」
「ほ、ほんと?」
「ん、ほら、年末からずっと忙しかったし、久しぶりにお外でデートもいいかなあって」
その言葉に沈みかけていた心が一気に浮上する。自然と頬が緩んで仕方がない。
「ありがと!」そう言って抱きしめると、
「どういたしまして」と抱きしめ返してくれた。
「次、乗り換えですよ」
「あれ、もう?」
「いつもは乗り換えなしであと3駅ですもんね」
「ねー。なんか新鮮。楽しい」
あ、この表情(かお)みたことないや。子供のように純粋に楽しんでいる笑顔。
いつも見る門倉さんの笑った顔は少し疲れていて、けだるげで、ほんの少し自信がない。なるほど、こんな顔もできるのか。
「な、なに?」
「……なんでも」
おっと、見すぎてしまった。
いつもの困ったような笑みにも嫌いじゃないけれど、欲を言えばもう少し、さっきの顔を見ていたかったなんて言えるはずもなく、初めて自分から目をそらした。
電車を降り、乗り換えのため、駅構内にある改札を一度抜けて別の線へ移る。その間に門倉さんが人込みに押し流されてしまいそうになり、手を繋いで電車を待っているのだが、非常に人が多い。
「一本遅らせる?」
「んー、でも次来るの30分後ですよ?」
乗ろうとしている電車はあと5分弱で着く。並んでいる列の中ほどを確保出来たが、前にも後ろにも横にも人がいて自分がどこにいるのか分からなくなる。
それに、さっきまで地よい風が吹いていたのに、今では四方八方の人の壁で体感温度が右肩上がり。前髪の先が額から出た汗を吸って張り付いている。門倉さんもグレーのポロシャツが肌に張り付いてところどころ色が濃くなっている。
「そーだなあ、次の待つより、今来る電車で行ったほうが時間的に早いんだよな」
「上手い具合に出る人の方が多ければ……」
「……そう、上手くいくかな」
遠くの方から目的の電車が近づいて目の前をゆっくりと通過する。
「……しっぱいした」
前の方はガラガラなのに、ちょうど真ん中のここから出る人は……。
「やっぱり次に――ちょ、押さないで」
あまりの人の多さに踵を返して列から出ようとしたのだが、時すでに遅し。強引な家族連れや学生たちが前へ前へと押し上げてきた。
「あぶない」
門倉さんが支えてくれたおかげで転ぶことはなかったが、満員を超えた電車のつり革のない微妙な場所まで来てしまった。流れに逆らうことも出来ず、くぐもったドアの開閉音を聞いた。
「大丈夫?」
「む、むり」
女性の中でも平均よりだいぶ下回っている私は今、浮いている。彼とはぐれることなかったのは不幸中の幸い。でも、これは……。
「ごめ、なさい。くるし、」
背をえぐる凶器はイケイケな女子のブランドバッグの固い部分。両サイドにはジューシーな体系の女性。不本意ながら彼の胸元に顔を埋めている事実もなかなかくる。付き合って半年とはいえ、あまり自分からスキンシップは取らないし――恋愛初心者なためどうするのが正解か分からない――、彼からの触れ合いもあまり。キスだって未だにしたことがない。今朝のハグは勢いであり、あの後すぐ私が逃げた。
――故に経験不足。故に今、混乱している。
「……次で降りよっか」
だから門倉さん。
「よしよし」
あの、かどくらさん?
「もう少しだから」
抱きしめながら頭を撫でるスキンシップはちょっと、いやかなり効きます……。いろいろな意味で胸が苦しくなったあと、意識が飛んでたらしく、いつの間にかホームのベンチに座って、門倉さんが買ってきてくれたペットボトルの水を飲んでいるわけだが、羞恥で彼に背を向けている。
閑散としたホームで、先ほど欲しがっていた涼しい風のおかげでだいぶ気持ち悪いのがどっかいった。めいいっぱい息できる素晴らしい。
「ちょっとは具合、よくなった?」
「……ええ、よくなりました。あの時、門倉さんの言う通り、一本別の電車に乗っていればっ!」
「あ、ごめん。撫でられたくなかった?」
「い、いえ、慣れてないだけです」
ふんわりと優しく温かな手が後頭部を包み込んで頭の形を確かめるように撫でてくる。「そっか」顔を見ていないから分からないけど、優しく笑っている気がする。何度か頭を撫でた後に、今度は落ちてきた髪の一束を掬いとって耳にかけられる。
耳が熱い。きっと赤くなっているのが見えているのだろう。硬い人差し指の腹が耳の後ろをなぞって擽ったい。そのまま、肩にかかった髪を優しく梳きつつ、後ろへ。
「名前ちゃん」
露出した首元に、構ってほしそうな人差し指にちょんちょんされ、やっと彼の方へと身体ごと向けた。その瞬間、ぎゅうっと抱きしめられる。反射的に逃げようとすると強引に引き寄せられ、更に身体が密着した。
「……きらわないで」
「え?」
「俺から、離れないで」
消え入りそうな声で縫いつくように抱きしめる腕。顔は見えないけどなんとなく泣きそうなのだろう、と不思議と冷静な自分がいた。ぎこちなく広い背中に手を回しできるだけ優しく撫でる。
すると抱きしめる強さを変えず、少し潤んだ目と合ってちょっと笑ってしまった。どうして喧嘩をしているわけでもないのにこんな顔をしているのか。
「なんで門倉さんがしんどそうなんですか」
「だって、いつも名前ちゃん逃げるもん。……きらわれてるかなって」
「私から告白したんですよ? **というかそれ私のセリフです。なーんか私ばっかり門倉さんのこと、その、すきみたいで」
子供みたいだ。身体ばかり成長して心はちっとも大人になってない。変なところ意地を張って、わざと意地悪なことを言って振り回すのだ。ああ、言ってから後悔してら。
「本当にそう思ってる?」
「思ってないです! 忙しいけど、どこか行きたいって言ったら今日みたいに出かけてくれるし、半ば強引に同棲に持ち込んだけど置いといてくれて……」
「だって、名前ちゃんとのデート楽しいし、まあ、付き合って半月もしないうちにアパート引き払って、家にきたときは驚いた」
「浮気防止です」
「こんなおじさんモテるわけないでしょうに」へらへらと笑う彼のやや弛んだ腹を無言でつつく。受付の子結構アピールしてましたよ、なんて言ってやらない。門倉さんが思うのも考えるのも私だけでいい。
「いい子、いい子。ね?」
何に対して私が不機嫌になるのか絶対この人分かってる。私が本気で怒らないように、そのあとに自己嫌悪しないように。見ていないようで見ている。聞いていないようで聞いている。必要以上の言葉を交わさずとも分かってくれる彼だからこそ、離れたくないと心の底から思うのだ。
門倉さんの言葉はまるで魔法の呪文のよう。自然と笑みが零れて気分が浮上してしまう。我ながらちょろい。
「気分はどう?」
「だいぶマシになりました」
「パンケーキたべたい?」
「いや、今は別のが食べたいです。でもそんなに入らないかも」
「じゃあ、パンケーキはまた今度にして、近くにある花見スポット行かない? コンビニでなんか買って食べ歩きしよ?」
「さんせい!!! あ、その前に人が見てます。恥ずかしいから離れてください……」
「あ、ごめぇん」
完全に2人きりの世界に入っていた。いつの間にか、次の電車を待つ学生や家族連れがこっちを見てひそひそと内緒話。わざとらしく互いに咳払いと同時にばっと身体を離し、身なりを整えて足早にその場を後にした。
コンビニで鮭のおにぎりと、ハムサンドを買って、駅からそう離れていない場所にある有名な桜並木をゆったりとした速度で歩む。ここはテレビで何度か見たことがある。いつか行きたいなあとは思っていたが、私という人間は思うだけで何だかんだ後回しにしてしまう悪い癖を持っている。半年前の私なら休日に家から出るなんて考えなかった。
――門倉さんと一緒だと何処かへ出かけたくなる。
例えば、洒落た喫茶店でコーヒーを飲みながら他愛のない話でもいいし、映画を観に行くのもいい。こうやってただ手を繋いで散歩だけでも満足。
「綺麗ですね」
「ほんとだ。いい色」
上は桜の雨。下は桜の絨毯。そして隣には愛しい彼。
なんて贅沢。なんて至福。今一度繋いだ手を握り直せば「ん? どうしたの」と身体を寄せてくる彼に「すき」といつものように好意を口にする。もう、見返りなんてなくていい。そう思えるほど心は満ち足りていた。
「ねえ告白してくれた時、さ。俺の言葉覚えてる?」
ぽつりと言葉が零れ落ちていく。胸に痛みが満ちていく。古傷にナイフを当てられたように冷たい何かが身体の中を通っていく。落ちそうになる声のトーンを無理やりあげて、
「ええ、“もし、少しでも俺のこと嫌になったら離れていいから。若い子の処へ行っていいから”って。浮気していいとも言ってましたね」
「う、ごめん、ほんと」
近くにある誰も座っていないベンチに2人で腰かけると「名前ちゃん怒ってる?」と距離を詰めてくる門倉さん。まるで親の顔色を窺う子供のよう。安心させるように繋いだ手に空いた手を重ねる。きゅっと皺ができるほど寄せられた眉が離れた。
「そりゃあ、傷つきはしましたけど、門倉さんがどうしてあんな風に遠ざけるようなことを言ったのか何となくわかりますから」
上司と部下。その前にかなり年が離れている。世間体や立場もあるだろう。後先考えない行動はもちろん、軽い考えでは付き合うことが出来ない。彼も、私も。
「そう言った手前、好きって言えなかった?」
「そう、自分の言葉に縛られてた。それに君の好意はずっと前から知ってて、でも臆病で、狡い俺は知らない振りをしてた」
添えた手の上に更に彼の手が添えられる。……温かい。
「うれしかった。君から好きだって言われたとき。思春期の頃に戻ったみたいに心が躍った。きっと俺は、君が俺のことをすきになる前から、君のことを――」
ぐっと近くなる顔の距離、吸い込まれる瞳の奥、青い炎がちりちりと燃えていた。それに目を奪われている間に唇に柔らかな感触。ちゅっと小さな音を立てた後に。
「すきだった。でも今は、すきじゃ足りない。ごめんな、愛してる」
愛を告げる口で私の酸素を奪っていく。愛している。その言葉がすとん、と既に満たされた心のコップに勢いよく落ちていった。
これ以上ない喜びを溶かしてしまう熱を、不器用なりに受け止めるだけで精一杯。考える余裕なんて最初からなくて、頭の中は彼でいっぱい。私ばかり乱されているかと思えば門倉さんも熱っぽい吐息が多い。
「ん」
「お」
厚みもぬくもりも違う唇が離れてはくっついてを繰り返していると、薄い隔たりを感じた。ゆっくり顔を離すと、門倉さんの唇に淡い桃色の花びら。握っていた手を解いてそれを取る。
「そういえば、ここ、外でしたね……」
急に理性が戻ってきてしまった。それと同時に羞恥で身体の芯から燃えるように熱くて俯くが「俺を見て」顎を掬われ顔を上げるとまたキスされた。
「……誰にも邪魔されないところへ帰ろっか」
理性を無理やり剥がす強い言葉にどくりと心臓が甘く疼く。さっきより青い炎が大きく揺らいでいた。