凍てつく寒さで身を縮こませていた冬が終わり、春の陽射しで雪が溶けて、真っ白だった地面が今は緑が広がり、色とりどりの花を咲かせている。
北海道の春は野に咲く花が、白かった大地の面影などなかったかのように一斉に咲くのだ。
桜だって気が付けば花を咲かせている。
気温はすっかり暖かくなり、頬を撫でる風すらも暖かく心地いい。
「ふぁー…あ」
「起きたか」
カーテンから射し込む陽射しの刺激に名前の意識が浮上した。欠伸する為に開けた口を反射的に手で塞いで、気持ちよく欠伸をし終えると、聞き慣れた低い声がすぐ側からしたが、そんな声を無視して、肩に掛け布団をかけ直す。掛け布団の一部に尾形が腰を掛けている為、微動だにしなかったが、名前はそれでも良いと目を閉じた。
春眠暁を覚えず、だ。
「寝るな。起きろ」
「んんー…嫌、です…」
なんでこんな春の陽気の中、惰眠を貪ってはいけないのだ。こんな天気のいい日には惰眠を貪るべきだ。と心の中で言い訳して、本格的に意識を手放そうと身体の力を抜く。すると、大きな手が名前の頬を軽く叩き、起こそうと邪魔をする。
「何するんですか…」
「朝だぞ」
だからなんだと言うのだ。
名前は、自身の頬を軽く叩く尾形の手を掴み、それをベッドのシーツに縫い付けた。そこでふと気がついた。尾形が自分の寝ているベッドに腰をかけていることに。
名前を見下ろすように座っている尾形を恨めしく見ると、彼は緩く縫い付けられている手を動かし、もう一度名前の頬を手の甲で軽く叩く。
「おら、花見に行くんだろ」
「んー…あと五分だけですから」
「だめだ。さっさと起きろ」
確かに今日は花見をする予定だったのだが、気持ち的に今は眠気の方が勝る。
その理由は昨晩の百之助さんの所為なのに。なんて名前が心の中で愚痴を零している中、尾形は頬を軽く叩いていた手で、今度は名前の髪を梳いた。
「行きたいって言ったのはお前だろうが」
溜息混じりの正論に耳が痛くなる。言い返そうと思えば、言い返せるのだが、それを言うと尾形だって更に言い返し、結局口で負けるのは目に見えている。
百之助さんのばーか。
心の中で愚痴を零し、名前は尾形にされるがまま惰眠を続けようと瞼を閉じた。
こんな春の陽気の中、寝ないなんておかしい。
そんな屁理屈を立派な大義名分のように掲げ、ゆっくり吐息を吐き出した。
「私は、もう少し寝たいです…春眠暁を覚えずです」
「よく回る口だな。もう起きてんだろ」
確かに名前の意識は既に覚醒している。頭の方はまだぼんやりとはしているが、このまま起きても問題はない程度だ。だが名前は自分の髪を梳く尾形の手の優しさに甘え、もう一度意識を手放そうとしている。それに気が付かないほど、尾形は鈍感でもなければ、名前の事を知らない訳でもない。
「寝るんじゃねぇぞ」
そう言いつつも、尾形の手は名前の眠気を誘うように、優しく頭を撫でている。
眠たくなるのわかっててやってるな。
名前とて尾形のことがわからないわけではない。起きろと言いつつも、寝かし付けるような撫で方をする、そんな天邪鬼な性格のことだってよく知っている。
指通りのいい髪は、尾形の固い皮膚で覆われている指の間を撫でるように滑り抜けては、また尾形の指が名前の髪を梳く。そして時折、尾形の大きな手が名前の頭を撫でる。
「んんー、百之助さんがキスしてくれたらいいですよ」
「あ?」
「私今、毒りんご食べた白雪姫です」
物語の王子様のように、眠っている私を起こして。と名前は遠回しに言って目を閉じた。
残された尾形は一瞬表情をなくしたが、直ぐに名前の意図に気が付き、揶揄うように口元を上げた。
すっかりキスしてくれると信じている名前は、尾形のそんな表情の変化に気付くわけがない。尾形は名前の顔の横に手を置き、もう片方の手で名前の桜色に染まるの頬に触れ、顔を近付ける。
尾形の垂れた一房の前髪が、名前の顔にかかり、人の近づいた気配を感じた名前は、唇が触れるのを今か今かと待つ。
「痛っ!」
「馬鹿め」
期待した唇への温もりの代わりに、鼻に噛まれた痛みが走る。すぐさま名前は両手で鼻を覆い隠し、眉間に皺を寄せて尾形の顔を見た。
その顔は怪訝な表情を浮かべてる。
「キスしてェならお前がしろ」
垂れた前髪を名前に触れていた手でかき上げながら、尾形は上体を起こした。挑発的な笑みに名前は悔しさを顔全面に出し、やっと上体を起こして寝起きの髪を自分の手で軽く整えた。
「なんか違うのに…」
「したかったんだろ?」
「…はい……」
触れるだけのキスを名前がし、尾形はそれを甘んじて受け入れた。
悔しさを全面に出していた名前だったが、キスし終わったあとは、幸せそうに口元を緩ませ、身支度を整える為にベッドから抜け出した。
「ご飯食べました?」
「まだ食べてない」
「ちょっと待っててくださいね」
名前は軽い朝食作りに取り掛かり、二人で向かい合って朝食を口に、出かける身支度を整えた。
外は快晴で、青空が広がり雲一つない。いつもの散歩コースにある桜並木を目指して二人は歩き出した。
冬は寒くて繋げなかった手も、暖かい春になった今は指を絡めて繋ぐことが出来る。名前が繋ぐ手に力を込めると、尾形が痛いくらいに握り返す。名前にとってそれが好きだと感じている事を、尾形はもう知っている。
「痛てて」
「顔笑ってるぞ」
「気の所為ですよ」
尾形の見間違いでもなんでもなく、名前の口元は緩く上げられている。機嫌良さそうに笑う名前を見て、尾形の口元も軽く上がった。
名前の歩く歩幅に合わせて、散歩コースである土手を歩くと、道の脇にツクシが生えている事に気がついた名前が、ツクシに指をさして尾形の意識を向けさせた。
「百之助さん!ツクシですよ!」
「珍しくもねェだろ。別に」
「ツクシ見ると春って感じしません?」
お前それ、フキノトウの時にも言ってただろ。
そう言いかけたが、ぐっと言葉を飲み込み、歩く先の景色を見る。土手の下には川が流れており、ほんの数枚程度だが、散った桜の花びらが流れている。
「ツクシって味あるんですかね?」
「知らん」
「フキノトウは大きくなると苦いから苦手なんですよねー」
なんてことのない取り留めのない会話をしながら、指を絡めて手を繋ぎ、桜がある場所までゆっくりと歩くこと15分。所謂桜の隠れた名所と呼ぶに相応しい場所があり、隠れているだけに人も疎らにしかいない。
「ちょっと腰かけましょうか」
桜の木に腰をかけ、真下から木を見上げると、清々しい程の快晴の青空に薄く色付く花が映え、綺麗な光景だった。
頬を撫でる風が暖かく、名前は大きく息を吸い込み、ゆっくりとそれを吐き出した。尾形は横目でそれを見て、視線を桜の花に移す。
もっとはしゃぐかと思ったが、そうでもないらしい。
尾形は隣に座る名前の横顔を、気付かれないように横目で観察する。その事に気が付いていない名前は、空ばかり見ては幸せそうに口元を緩めている。
そして不意に、思いついたように声を上げた。
「お弁当!持ってきたら良かったですね」
「花より団子かよ」
「だってお天気いいんですもん」
色気より食い気とは名前の為にあるような言葉だな。と揶揄うと名前は頬を染め少しばかり眉尻をつり上げて尾形を睨む。怒っているつもりなんだろうが、尾形からしてみれば、全く怖くもなく寧ろ子犬が頑張って吠えているような、そんな可愛さを感じる。
「もう!なんなんですか、全く!」
「名前」
風に揺れて落ちた薄い色をした桜の花びらが、名前の髪にとまってしまった。尾形隣に座る名前の頭に腕を伸ばして、それを取ると、名前はさっきまでの眉尻をつり上げていた表情から一転し、眉を下げて笑いながらお礼を言った。
遠くの方では、子供の笑い声がし、背中には川のせせらぎが聞こえる。川の水面には散って落ちた花びらが流れている。風で草木が揺れ、名前の髪も揺らめいている。
尾形は伸ばした手をそのまま、桜色に染まる名前の頬に壊れ物に触るように、優しく触れた。
「名前」
普段呼ばれる名前よりも甘く、低く囁かれた自身の名前に、誘われるように名前はゆっくりと目を閉じた。風が髪を攫い、桜の花が揺れる音が名前の耳に鮮明に聞こえた。
ゆっくりと近付く尾形の気配に、名前の心臓が早鐘のように忙しなく音を立てる。
遠くに聞こえる子供たちの笑い声も、背後に流れる川のせせらぎも、今この瞬間だけはお互いの耳に入らない。
「んん?」
「む」
確かに唇が重なった。柔らかい感覚と自分のものではない温もりを感じる。が、それと同時に植物のような繊維質のようなものも、唇に感じる。
春の悪戯なのか、それとも運が良かったのかはわからないが、丁度よく触れ合う瞬間に花びらが巻き込まれてしまったのだ。
そんな奇跡が起こるのか。と名前は驚きつつも、次第に肩を上下に揺らしながら笑いだした。それを目の前で見てる尾形は面白くないような表情をしているのだが、名前は笑ってばかりでその事に気が付いていない。
「あはははっ!」
「喧しい」
「ふふっ…、もう一回してください」
名前は目を閉じてキスを促し、尾形はそれに誘われるようにまた顔を近づけた。
ここで、名前の口の中に舌でも入れてやろうか。
尾形の脳裏に過ぎった悪戯心も柔らかい陽気に溶け、二人の間を邪魔するものは何もなく、ただ柔らかい春の陽射しが、桜色に染まる木々の隙間から射し込むだけだった。