例えば好きな人がいるとする。でも相手は自分にこれっぽっちも……雀の涙程度にも興味がないとしたら、どうしたら良いのだろうか。それでも思い続けていていいのだろうか。
……不毛な恋、というものになるのだろうか。
彼を、尾形さんを好きになったのは確か夕張での出来事だった。剥製所で軍から襲撃された際、逃げ惑う私を尾形さんが誘導してくれたのだ。多少乱雑ではあったが軍に気づかれることなく逃げられたのは他でもない、尾形さんのお陰だ。
それからというもの私の視線は常に彼を追っていて、時折目が合うと頬に熱が籠る。杉元さんはあんな蝙蝠野郎は止めた方が良い。と忠告してくれるのだが、それでも諦められないのだから質が悪い。一度想ってしまったら止められない。私はこの気持ちの諦め方は一つしか知らないのだ。
天高くある陽が照り付けしっとりとした汗が首筋を伝う。頬を掠める風は気持ちのいい温もりで後れ毛が揺れる。この時期の着物は絽か紗に限るのだが、釧路は夏でも札幌に較べ空気が冷たく紗だと少し肌寒く感じてしまいそうだ。
今日の天気は晴天で雲一つない。鮮やかな空が広がっている。
大雪山を下山している時、アシリパさんにアイヌに伝わる伝説を聞いた。それは黒百合にまつわるお話で、私に重なる部分があるものだった。
黒百合を気づかれないように想い人の近くに置いて、想い人が手に取るといつの日か結ばれる。というもので、私は高山植物である黒百合を釧路手前の山で手に入れ、あとは渡すだけなのだが、どうやって気付かれないように渡せばいいんだろうか。
きっとあの伝説はコタンでやるなら簡単だろう。狭いコタンなら想い人の行動範囲も知っているはずだから。
でも私の想い人は、何を考えてるのかわからない人だ。周りに自分の考えを悟らせない人、あの瞳に何を映して何を感じているのか、この果てなく続く湿原を一緒に眺めても、私とは違う景色を見ているんだろう。
私は袖に隠した黒百合を着物の上から触れた。
杉元さんとアシリパさんが狩りをしている中、残った白石さんと尾形さんと私はだだっ広い草原で待っていた時のことだ。待ちきれなくなった白石さんが立ち上がり、薄を掻き分けてどこかに向かって歩いていった。
「ちょっ、白石さん?!」
「名前ちゃーん!尾形ちゃんの相手は任せた!!」
「あ?」
私の隣に座る尾形さんは、白石さんの言葉が気に食わなかったようで、怒気を含めたものを発したが、白石さんはそれすら意に返してないようで、我関せずと言った具合にどんどん薄に姿を隠していく。
もしやこれはいい機会なのでは?と閃き、私は袖に隠してあった黒百合に手を伸ばした。尾形さんが見てない隙に傍に置いておくだけだ。
でもそれが一番の難関だ。私が少しでも動けば、尾形さんは横目で私の行動を見ているし、歩兵銃を抱えたまま動きもしない。
どうしたらいいんだろう。
左袖に入っている黒百合があるかを確かめては溜息を吐く、最早作業のようなものを繰り返していると、遂に尾形さんに話しかけられた。
「動作が五月蝿い」
「……すみません」
申し訳なさに俯き両肩を落とした。恥ずかしさといたたまれなさで顔が上げられないのは、私が意気地無しだからなのだろうか。
今、私たちの周りには誰もいなく、薄が風に靡いている。これは最大の機会なんじゃないだろうか、と思うのに行動に移せない。
……違う、側に置こうって思うから行動に移せないんだ。尾形さんが私のことを一挙手一投足見張っているのなら、もう関係ない。私は意を決して左袖に入っている黒百合を尾形さんに差し出した。
「これ、受け取ってください!!」
「……お前、そんなに俺の事嫌いだったのか」
「え?何でですか?」
まさかの一言に首を傾げると、尾形さんは私が差し出した黒百合を手に取り、つまらなそうな顔をしてそれを眺めている。
「あの……」
「お前生まれも育ちもこっちか」
「えぇ……両親共に開拓民ですので」
なんでそんなことを聞かれたのだろう。と疑問符が頭の中に浮かぶ。そんな私の心情を察したのか、はたまた偶然なのかは分からないが、ぽつり、と単語を漏らした。
「呪い、か……」
「え?」
「黒百合の意味だ。とある話に準えて“呪い”」
アシリパさんに聞いていた話と全然違う……!
私は直ぐに尾形さんの手に持っている黒百合に手を伸ばしたが、私が黒百合を掴むより先に尾形さんが私の手が届かない位置に黒百合を持っている手を上げた。
それでも取り返そうと、はしたないとは分かっているが尾形さんに覆い被さる形で、必死に黒百合に手を伸ばすが、体の均衡が保てなくなり耐えられずそのまま尾形さん共々倒れてしまった。
「……お前な」
「ごめんなさい!でもそういった意味合いで渡したのじゃないのです!」
「あ?」
尾形さんに覆いかぶさったまま、黒百合を手に入れた経緯を説明した。アイヌの言い伝えのことやそれをアシリパさんに聞いたこと。そして何よりも大事なのが私の気持ちだ。
「好き、なんです……!」
そう伝えるやいなや、私に押し倒されている尾形さんは厭らしく笑い、私に手を伸ばし肩を掴み、ぐっと力を入れ転がるようにして、今度は私の上に覆いかぶさった。
形勢逆転。まさにそんな言葉が似合うのではないだろうか。
私の視界には尾形さんと青空しかなく、横を向くと釧路湿原に生える背の高い薄が私たちの姿を何者からも隠す。
まるでこの世界から私たちだけを隔離しているような、そんな感覚に陥る。
「へー。お前がおれをなァ?」
「だから呪いとか、そんなんじゃなくて!寧ろ逆というか……」
必死に弁明していると、遠くの方でアシリパさんたちが私たちの名前を叫んでいた。
釧路湿原に広がる薄が私たちの姿を隠している。私のことを見下す尾形さんの瞳の黒さはいつもと同じなのに、さっきまでと違う温度があるように感じるのは気の所為なのだろうか。
もし、その温度が薄に隠れているから見えるものなら、どうか薄よ。今暫く私たちの姿を隠しておいてください。そんな風に考えてしまう。
世界から隔離されたこの空間で私の手は尾形さんの頬の傷に触れていた。彼は私の手を拒みはしなかった。