春告人






父の転勤でやって来た小樽と言う地は、桜の頃になってもちらちらと雪の舞う日があるような寒い北国でした。
桜どころか庭の梅も綻ぶそぶりすら見せず。
白一色の長い冬はいつまで続くのでしょうか。

春にはたくさんの楽しみがあると言うのに。

暖かい日差し、色とりどりの花、それから窓辺で鳴く鶯。
帝都であれば春真っ盛りだというのに、ここ小樽では窓越しのなごり雪をただ眺める日々。

だけれど窓を開ける日も増えたのだからきっとそのうち、庭の梅も可愛らしい花を咲かせてくれることでしょう。
梅が開いたら彼の方をお呼びして、二人で春を楽しみたい。

鯉登音之進様。

初めてお会いした時、その凛々しいお姿に一目で恋に落ちてしまいました。
親の決めた方へ嫁ぐ身としては秘めた恋を打ち明けるつもりはほんの少しもなく、お会いしても素知らぬふりを続けていました。
けれど不意に訪れた静寂の中、想いを寄せる鯉登様に妻になって欲しいと乞われたのです。
あまりに突然のことで、それが夢か現か分からない程でした。
鯉登様から音之進様とお呼びするようになり、そして許嫁となるまで時はかからず。
あまりの話の早さに目を回していたら、笑いながら仰いました。

「これから共に歩むのだ。すぐに慣れる。」

私の秘めた想いがどれほど幼いものであったのか、その時に初めて知ることとなりました。
ただ目先のことしか見えていない私に反して、その先、二人の生涯さえも音之進様は見据えていらっしゃったのです。

「桜の時分には、恥ずかしがらず隣を歩いてくれるか?」

花見をしようと誘われたからこそ、春を心待ちにしておりました。
桜ではなく、梅であっても花見。
ふっくらと可愛らしい花を二人で眺めて、暖かな日差しを楽しみたい。穏やかで幸せな日々を喜び、分かち合いたい。

愛しい方のことを想えば、一日などあっという間。
日が沈めば春の声は息を潜め、冷たい北風がガタガタと窓を揺らします。
冷え切った指先を火鉢で温めていると、風に紛れてコツコツと窓を叩く音。
障子を開ければ、今しがた想いを寄せていた愛しい方。

「まぁ音之進様。一体どうなさったの?すぐに玄関を開けますわ。」

「否、構わん。宵の口とは言えいきなりであれば不躾だろう。そんな男に娘はやれんと親父殿に叱られてしまう。」

宵の口であればこそ、過ごせる時間も長いというのに。
それに父は音之進様をたいそう気に入っているのだから、突然の訪問であっても怒るどころか喜び迎え入れ、特別な洋酒を取り出すでしょう。

嗚呼、やっぱりいけないわ。

父に知られてしまったら、私が音之進様とお話しできなくなってしまう。

「戸惑わせてすまない。少し顔が見たくなったのだ。それと……春を告げに来た。」

目の前に差し出されたそれがなにかを理解する前に、ふわりと甘い香りが鼻腔を擽る。

小ぶりな枝に、早咲きの匂い梅。

我が家の梅の木は固く蕾を閉ざしていると言うのに。

「この枝だけ開いていたのだ。お前に見せたくてな、失敬した。」

「まぁ……将校様が花盗人だなんて。」

「軍人だろうがただの男。好いた女が喜ぶのなら、花盗人くらいいくらでもなってやる。」

罪にはならんと仰るけれど、それでも私のために手折ってくださったのであれば、これほどに嬉しいことはありません。
この寒空の下、わざわざ届けてくださったのであれば喜びもひとしお。

「ありがとうございます。」

音之進様が届けてくださった春の香りに包まれて眠るだなんて、これほどまでに幸せで贅沢なひと時は他にはないでしょう。

「あの約束は覚えているか?」

「ええもちろん。私、春が待ち遠しくて。」

窓枠に手をつき、ほんの少し身を乗り出せばピンと冷えた空気。
今更になって音之進様がお風邪を召さないか心配になった時、ひやりとした大きな手が頬に触れ。

「祝言が待ち遠しい。」

本当は一瞬の出来事だったのでしょう。
端正なお顔がゆっくりと近づき、ふわり、触れた唇。

「桜の時分には、恥ずかしがらず隣を歩いてくれるのだろう?」

風邪を引いてはいけないからと乗り出した身体を部屋に戻され、すぐに窓が閉められました。

今起こったこと、それから約束の真意を考えるより先に動いた身体。

気づけば窓を開け、今にも去ろうとする愛しい方の外套を掴み、引き止めていました。

私が引き止めると思わなかったのか、音之進様はほんの少し驚いたような表情。

だけれどそれもすぐに変わり。

「名前、早く嫁に来い。お前が妻になる日が、春の訪れだ。」

今まで見たことのないようなお優しい笑顔。

嗚呼、貴方こそが春告人。
恋のつぼみを膨らませ、愛の花を咲かせてくださる。

早咲きの梅が開き、甘い香りが漂う季節。
きっと私はこの日のことを思い出すのでしょう。

愛しい貴方が春を告げに来てくださったことを。