いるわけが、ない。それでもあの背中をふとした瞬間に探してしまうのは、もはや癖みたいなものだった。自分から終止符を打ったというのに、結局のところ、わたしは今でも荒北靖友という人が好きで好きで仕方がないのである。少女漫画やドラマのような都合の良いことは起こらないと分かっていながらも、それでもまだ、この気持ちを諦めきれずにいる。どこかで会えるんじゃないかと、同じ気持ちを荒北もまだ持っているんじゃないかと期待する浅はかな自分がいる。
妄想みたいなありえないイフを考えるたびに切なくなって漏れ出たため息がお祭りの騒めきに溶けていった。自分勝手で、本当にばかだなあ。例え会えたとして、今さらどんな顔をすればいいんだ。
『遠距離は、むりだ。ごめん』
『そっかァ』
『ごめん。ごめんね、荒北』
謝ることしかできなかったわたしを、続けたいと言ってくれた荒北の気持ちを受け取れずに別れるしか選択肢として示せなかったわたしを、責めることもなく、怒ることもなく、繰り返し大丈夫だと言って何度も頭を撫ぜてくれた。
県外の大学に進むと教えてくれたあの日の荒北は、どんな顔をしていたんだっけ。自分のことでいっぱいいっぱいだったわたしは必死に涙を堪えたこと以外はなにも思い出せない。
「名前、置いてくよ〜」
「ごめんごめん、今行く」
友人が手招きする方へ急ぐ。少し早歩きをするだけで、歩きにくい下駄からはカランコロンと大きな音がした。すでに鼻緒が擦れて指の間が痛くなっているのを誤魔化すように繕って、へらへら笑う。友人が浴衣で来るっていうから浮かないように自分も着て来ただけで、誰に見せるわけでもないのに、失敗したなあ。見せたい人はどうせここには居ない。
「あ、あれ、新開くんじゃない?」
高校時代、新開のファンだった友人が目敏く見つけた先にはたしかに新開がいた。さらに福富くんと東堂もいる。あまりにもできすぎたそのメンツに心臓がばくばくと動き出す。ちょっと声かけてくる、と行ってしまった友人を追いかける気にもなれず彼らの周囲を見渡して、その姿がないことを確認する。自転車部のメンツがいるところに必ずいるわけではないし、ていうかあいつは今、静岡なんだから、いなくて当然だった。
そして安堵と同時に失望も味わった。いないのか、荒北は、いないんだ。会いたいのか、会いたくないのか自分でもよくわからない。会ったところでなにを話せばいいのか、あいつの引越しの日にさよならをしてから一度だって連絡を取っていないわたしにはわからない。だから、いなくてよかったんだ。そう言い聞かせる。心臓はまだどきどきしていた。
目を瞑って、深呼吸をする。戻ってくる様子のない友人の様子をうかがいながらいちご飴に口をつけた。
何年か前は一緒にお祭りに来たなあ。りんご飴のりんごが酸っぱくて苦手だと言ったらこれならいけるんじゃナァイ? といちご飴を買ってくれた。それから出店で見つけるたびにいちご飴を買ってしまう習慣がついた。
地元のお祭りだからもちろんいろんな人に会って、たくさん冷やかされて、それでもはぐれたら危ねーだろ、と繋いだ手を離さないでいてくれた。
ああ、これダメなやつ。思い出しちゃダメなやつだ。
うれしかったことを、しあわせだったことを、少しでも思い出せば連鎖的に次から次へといつかの記憶が流れ込んでくる。荒北が隣にいてくれたあの時の思い出に溺れてしまいそうになる。赤くて甘くて思い出の塊を舐めるたびに喉が渇いて仕方がない。美しくきらびやかで鮮明な映像が脳裏で再生されるたびにじわりじわりと首を絞めていく。
会いたくないわけがない。会いたくないなんて嘘だ。会いたいし、話したいし、願わくば、願わくば。
そんなこと、あるわけないとわかっているのに求めてしまうのはただ一人、その人のことだけ。
薄らと滲んだ視界の先で友人が手を振っていた。なにかを言っているけれど雑踏に掻き消されて聞こえない。屋台や提灯の淡い色の灯りがぼんやりと漂って、なんだか線香花火のようだった。
新開や東堂、福富くんまで同じようにこっちを見て手を振ってくれていて、たしかに荒北を通して仲良くはなったけど、あれほど友好的に手を振ってくれるような仲だっただろうか。不思議ではあれど、話し相手がいるに越したことはない、その方が多少は気も紛れるだろうし。
頬をかすめた真夏の夜風は生ぬるい。浴衣を泳ぐ金魚が揺れた。
「アイツら全っ然変わんねーなァ」
右耳が拾った声は独特なテンポの、けれど馴染みのある音だった。
記憶の中のその人よりもわずかばかり日に焼けた横顔がにやりと笑う。
「名前チャン、間抜けな顔してるヨォ」
わたしの名前を呼ぶ声が真っ直ぐに鼓膜を揺らして、一気に速度を上げた心臓の音が身体中に響いて、さっきまで感じていたはずの足の痛みは綺麗さっぱりなくなってしまって。
ああ、みんなが手を振っていたのは荒北に向けてだったのか、わたしに向けられたものだなんて勘違いも甚だしくてちょっと恥ずかしい。いや、ちがう、ちがう。そうじゃなくて、なんで、こんなところに、荒北が。
荒北がいる。わたしを呼ぶ。
「名前。行かねーの?」
差し出された手をとっても良いのだろうか。これは、どういう意味なんだろうか。どうしたらいいのか分かららないし、困ったな、なにも言葉が出てこない。
期待してしまっても、いいのだろうか。
不安と戸惑いがぐちゃぐちゃになってしまっていろんなことを考え迷ったけれど、結局わたしはわたしに甘くて最後は考えることを放棄して手を伸ばした。久々に繋がった皮膚の感触がいやに生々しくて、少し低い体温に涙がこみ上げそうになる。鼻の奥がつんと痛い。荒北はほんの一瞬だけ目を見開いたけれど、そのあとは満足そうに笑ってくれた。ゆっくり、人混みを縫うように進んで行く。
「足、痛いんだろ」
「え」
「前来たときもそうだったし」
「まじ?」
「マジ」
東堂の「イチャついてないで早く来い!」といういらついた声すら気にならない。さっきまでは痛みが増すような気がして不快なだけだった下駄が地面を打つカランコロンという音が心地よく聞こえる。荒北が隣にいるだけで、驚くほど世界が変わる。なんだこれ、気持ち悪い。気持ち悪いほど笑ってしまいそうになる。泣きそうなのに、あんまりにもうれしくて、信じられないほどしあわせで、へへへ、と笑い声が漏れた。
「名前さァ、」
その続きの言葉に頷いて繋いだ手に力を込める。荒北の頬や耳が赤いことを散々いじられるまであと数メートル。
真夏の金魚は夜空を飛んだ