「名前さん、髪切ったんだね」

 続けざまに「しつれ、」まで言った虎杖悠仁の口を釘崎野薔薇が慌てて塞いだ。髪を切ったイコール失恋とはなんと古めかしくて安直な。般若の形相で「お前にデリカシーってもんはないのか!」と小声で詰るその言葉は全てわたしにも聞こえているので実際のところ野薔薇も似たり寄ったりだ。まあ、野薔薇のそういう女の子を煮詰めたみたいな部分も嫌いじゃないのでへらへらと笑って流す。
 別に失恋でもなんでもないし、ただの気分転換だからそんなに気を遣わなくてもいいんだけど、野薔薇に叱られてしゅんとしてしまった悠仁に「大丈夫だよ」と声をかける。伏黒恵は我関せずを決め込んで真夏のジメジメとした雨が打ち付ける窓の外をぼんやりと眺めていた。
 何はともあれ、任務に向かう前の車内よりは少しだけ明るい空気になんとなく安堵する。こんな仕事をしている以上無理な願いであることは百も承知で、この子らの傷ができるだけ多くないことを願わずにはいられなかった。左脇腹の皮膚の突っ張った部分がむず痒くて気持ち悪い。
 悠仁は再び「ごめんなさい」と覇気のない声で言った。だから別にいいのに。

「気にしなくていいって。ほら、もうすぐ高専着くよ」

 わたしの恋は、とうの昔に死んでいる。
 だから今さら失うものなどなにもないのだ。


 「……きれいなさかな」

 いつの日か、熱帯魚屋で見た真っ黒な魚を未だに忘れられずにいる。闘魚なんて仰々しい別名を冠したベタという聞き慣れない名前、半月のように広がり美しく揺蕩う深く黒い鰭。電球を模した手のひらに乗るほどの狭い水槽でひっそりと泳いでいた。
 飼い易く初心者にもおススメです! と大きな文字が踊るポップの下の方、遠慮がちに並んだ『気性が荒いため複数飼いはできません』という一文に、だから闘魚なのかと一人納得して、一瞬だけあの人を思い出した自分を殴り殺したくなる。黒く、美しく、強く。ただそれだけの要素で連想するなんて、あんまりにも毒されている。さらに初心者にも易しいからと尤もらしい理由をつけて、飼おうかどうか天秤を揺らしていた自分の浅はかさに吐きそうだった。あの人のようだから手元に置きたいなんて、ばかみたいだ。自分で引くほど気持ちが悪い。

「そういえばずいぶんバッサリ髪切ったね。あ、もしかして失恋した?」

 そう、五条悟という人はこういう人だ。野薔薇に怒られてしょんぼりと肩を落とした悠仁はおそらく二度と同じことを繰り返さないだろうけれど、この人は注意されようが嫌われようが歯牙にもかけず何度でも同じことをする。息をするように叩きまくる軽口や嘘方便はもはや挨拶と同じで、期待しても変わるものではない。変容を求める方が野暮というものだ。

「いいえ。久しく新たな恋していませんので失恋することもありません」
「ふーん。名前ってつまんないよね」
「それは光栄ですね」

 口をへの字に曲げて「褒めてないよ」とついにそっぽを向いてしまった。バックミラー越しの横顔はぱったりとわたしへの興味を失う。毎度の話なのでもう心底堪えることはなくとも、やっぱり好きな人に嫌われるのは少しこわい。あえて嫌われようとしていたとしても怖いものは怖い。任務送迎時の、意味も中身も他愛もない会話すらもなくなるときがいつかきっと来る。恐怖はじりじりと身を焼くけれど、仕方のないことだった。むしろそうでなければいけない。ハンドルを強く握る。顔には出さない。ウインカーの音が厭に響いていた。
 本来なら、わたしはこの人の視界に入ることすら許されない。許されるべきではない。

「闇より出でて闇より黒く、」

 目的地にて、帳を下ろすのは補助監督の役目だ。つぷ、と空から湧き出す黒い物体が生き物のような動きで重力に従い降りてきて、廃校になった小学校を包む。五条さんが「アイス買っておいてね」とだけ言ってその中へ入っていくのを見送った。例えば彼の背中へお気を付けてくださいと声をかければ、誰に向かって言ってんの? と鼻で笑われることだろう。姿が見えなくなってから言ったってなんの意味もないのだけれど、儀式のように願わずにはいられない。
 どこか見えないところで偉そうに祈られている神様よりも、五条さんの方がよっぽど願いを叶えてくれそうだなあ。どうか、いつものようにご無事でありますように。ご所望のアイスを買うためにアクセルを踏み込んだ。


「ありがとうございましたぁ」

 間延びした店員の声に軽い会釈をして店を出る。トランクに入れてある保冷バッグ(伊地知さんからの頂き物)に保冷剤代わりのブロックアイスを突っ込み、要望通りのアイスを並べて封をした。未だに五条さんの好みを把握しきれていないので念のために用意したのは六種類、これでお気に召さないならなら素直に謝るしかない。余ったら一年ズにあげよう。
 五条さんが入って行った辺りに車を停める。居ないし、着信もないし、まだ中だろう。コンビニの往復十五分じゃさすがに終わらないか。ハンドルに身体を預け、フロントガラスに切り取られた曇天の住宅街を見つめる。あの日も、こんな天気だった。痛むはずのない脇腹の傷がずきずきと悲鳴を上げている気がして憂鬱色のため息がどんよりとこぼれ落ちる。

 わたしは元呪術師だ。万年二級だとしても常に人手の足りない呪術師界では仕事はなくならない。けれど、戦うことを辞めてしまった。この傷を負ったとき、わたしが呪術師として生きる道もなくなったし、同時にわたしの恋心も息絶えた。本当は補助監督としてこの世界で働くこと自体が拷問のようなものなんだけど、推薦したのが五条さんだと聞いたから甘んじて受けた。あの人が下した罰ならば喜んで一生受けねばならない。
 実力不足で大きな傷の残るような怪我をした。出血多量で死にかけた。挙句、五条さんが信用を置いていた彼の部下を死なせてしまった。そんなわたしが、生きていても意味はない。なぜ、わたしが死ななかったんだろう。なぜ、わたしは誰かを犠牲にしてまで生きているんだろう。わたしのせいで、誰かが死んでしまうのはもう御免だ。
 二度と五条さんのあんな顔を見たくはない。「わたしのせいです」と言ったわたしに五条さんは「そっか」とだけ返した。サングラス越しでもわかる、無を体現した視線が突き刺さる。忘れられない灰色の記憶がじわじわと首を絞め、呼吸が苦しい。
 ハンドルを握る手に力が入る。突然助手席のドアが開いた。心音が跳ねる。

「は〜〜疲れた。全然大したことなかったし、僕が出る意味なかったんじゃない?」
「……お疲れさまでした。アイス、後部座席に置いてありますよ」
「うーん、気分じゃなくなっちゃった」

 それは、それは。すぐに溶けてしまう心配はないだろうけど早々に帰って冷凍庫にぶち込まなければ。五条さんが食べずに丸々この数が残るのなら二年生にも配れるかもしれない。
 行きとは異なり何故か助手席に座った五条さんが大きな身体で大きく伸びをして不満そうに文句をこぼす。いつものように、後ろに座ってくれればいいのに。早く帰ろう。エンジンをかけ、ギアシフトをドライブへ入れようとしたわたしの手にごつい手が覆い被さり、動きを制限される。こんなにも暑い日に似つかない冷たい手だった。

「名前さあ、僕に抱かれる気ない?」

 唐突に縮められたその距離、わずか三十センチ。その黒い布の下、きっと真っ直ぐわたしを見ている。緊張の糸を切らせば弱い生き物は途端に吐いてしまいそうな圧。呆けた声も出せず、視線は逸らせない。
 五条さんの目は、どんな色だったっけ。初めてかち合った瞬間に強烈に惹き込まれ、恋に落ちたはずのその目の色すら色褪せてしまって思い出せない。
 いくらその人を見つめていても意図はまったく読めないままだ。わたしが五条さんから離れたがっていることを理解して、嫌われようとしているのが分かっていて、怖がっていること知っていて、その上で鋭利な言葉で抉ってくる。しかし嫌がらせなのだとしたら、贖いにはちょうど良いのかもしれない。

「それが、五条さんからの下命なのであれば喜んで」
「ほんっっっとーに面白くないよな、お前。まだ罰がどうとか思ってんの?」

 最強にはエスパーまで付いているんだろうか? 見透かされたような言葉に喉がひりつく。はいと答えても地獄だし、いいえと答えても地獄だ。

「わたしが、」

 わたしが死ねばよかったんです。そしたら、どんなによかったことか。そう伝えたいはずなのに喉元が焼けるようにびりびりと痛み、言葉に詰まる。五条さんがわたしの名前を口にするたびにどんどん追い詰められている気がして背筋に汗が伝う。ばたばたと、天気予報通り降り始めた大粒の雨が車体を打ち付ける音がひどくうるさい。粘度の高く苦い唾を嚥下した。

「ここまで出かかってる本音を教えてよ」

 ひみつにしてあげるからさ、なんて言いながらわたしの喉にその人差し指が突き付けられる。さしずめよく研がれたナイフのようだ。少しでも動けば殺されてしまいそうな殺気に、ふと、ここで殺されてしまえば楽になるだろうかと思ったら、なんだか、とても、安心した。

「わたしが、死んで、呪いになったら、五条さんが殺してください」
「は? やだよ。そんな弱っちいの一年でも祓えるでしょ」
「ごもっともです。失礼しました」

 あの人は、恨まなかったんだろうか。弱く足手纏いのわたしを庇って亡くなってしまったあの人は、わたしに生きろと言ったあの人は。

「死んだように生きてんなよ」

 あまりにも酷だ。ちゃんと生きろと、死んだも同然のわたしに向かってわたしのせいで死んでしまった人と同じことを言う。
 喉元に突きつけられた指がするりとわたしの首筋を前から後ろへ横断し、うなじから後頭部へと回って、厚い手のひらがわたしを捕まえる。戦う人の固い皮膚は先ほどよりも少しだけあたたかい。拘束しなくとも、逃げるわけがないのに。目を閉じる。まぶたの裏でいつかの魚がたわやかに黒い鰭を翻して揺らめいた。


Synapse