私は高校時代から付き合っていた彼と結婚した。
そうして「荒北」の姓を名乗りはじめたのはもう6年も前のことだ。
男の子と、女の子。一人ずつ子どもがいる。
会う人会う人に「旦那さんにそっくり」と言われるその容姿は、世間一般で言うならばきっと残念な部類に入るのだけど、私はそれでも我が子は可愛く靖友に似ていて愛しかった。
私も靖友も、いわゆる大手と言われる会社に勤めている。下の子の育休を明けた私は仕事に復帰、もう一年が経った。初めは不安もあったが、こちらの不安をよそに子ども達はすぐ順応して楽しい保育園生活を送っているようだった。
端から見たら、私はいわゆる「幸せな家庭」を築いているように見えるだろう。
否定しない。確かに私は幸せだ。幸せなはずだ。
なのに、なんで私は今、半泣きで走ってるんだろう。
片思いの時はお付き合いすることが。
付き合ってからは結婚することが。
結婚してからは子どもを持つことが。
まるでそこがゴールで、ゴールすれば幸せだって、私はいつも勘違いして生きてきた。
会社からの帰り道、私は保育園への道を走る。
ゴールなんかじゃない。
それらはすべてスタートだった。
そして、スタートしてから気づくのだ。
終わりなんて見えない。
ゴールなんか、ないってことに。
***
「申し訳ありませんでした」
下げる頭の向こうから、ため息が降ってきた。
「まあ、次から気をつけて下さいよ」
「はい。申し訳ありませんでした」
私のせいじゃありません。
そんな言葉をぐっと飲み込んで私は謝罪の言葉を述べる。
上司のミスだった。だって私は3回確認した。本当にいいんですかと私は聞いた。しつこいと言われた。だからもう嫌になって、だったらもういいやと話を進めた。
結果、これだ。別の部署にまで迷惑をかけた。
でも私は確認したのよ、上司に。
だから、私のせいじゃありません。
……本当に?
私のせいじゃありません。
それは本当にそうなのか。
もっと食い下がることだって出来たのでは?
他の人も巻き込んで修正することも出来たのでは?
思えば方法は他にもたくさんあったはず。
叱責されて泣きたくなるような今の心境、その根源は、トラブルになるかもしれないとどこかでわかっていながらも、考えることを投げ出した自分への失望だ。
この事態は起こるべくして起こった。
おかしいとわかっていたのに、上司と戦うことを放棄した私のミス。だからこそ、今の私の心は恥ずかしさと後悔で満ちている。
謝罪を終えて、自分の部署に戻る最中、一緒に謝っていた後輩が話しかけてきた。
「荒北さん、時間、やばくないっすか?」
「あ…うん、でも」
「大丈夫です、オレ、やっときますから」
「……でも」
「気にしないでください。そんな時間かからないと思いますし。お子さん、迎えに行ってあげてください」
彼は優秀な後輩だ。
多分、問題なくやってくれる。
そして保育園へのお迎えは私しか出来ない。
「お先に失礼します」
職場に戻り、身支度を整えると、私は言った。
周りの人のお疲れ様ですを聞きながら、いたたまれない気持ちを胸に職場を後にする。
仕事の代わりはいくらでもいる。
お母さんの代わりはいないんだから。
そう言い聞かせるけれど、これは本来周りがかけてくれる、慰めの言葉。
私の立場が言っていい言葉じゃない。
ドロドロした気持ちを抱えたまま、会社を出て、駆け出した。
もう既に、保育園のお迎え時間には間に合わない時間だった。
***
延長料金を支払って、子ども二人を保育園から回収し、なんとか家に到着する。
帰ってくるだけで、なんでこんなに時間がかかるんだ。
石とか。
虫とか。
どうでもいいから。
大人の足で10分弱。
その程度の距離の保育園から家まで帰ってくるのに30分以上かかった。
子どもの手を洗わせてとりあえずリビングに放牧、テレビをつけて、録画しておいた子ども向けアニメを流しておく。お腹がすいた下の子は既にぐずりはじめていた。
副菜は冷蔵庫内の作り置きでいいとして、取りかからないといけないのはメインだ。
お味噌汁を温め直し、炊けたご飯を冷ますために子供用の茶碗によそう。
野菜室の中のニラはそろそろ救出しなければまずいことになる。
そういえば豚肉の消費期限は昨日の日付だったはずだ。
今日使わなきゃ。冷凍しとけば良かった。豚ニラ玉でいいか。そうだそうしよう。
そう思ったのに冷蔵庫を開けると卵がない。
結局、ただの豚ニラ炒めになってしまった。
子供の食いつき悪そうだな…そう思いながらリビングに戻ると床はオモチャの海と化していた。
「ねえ、ご飯だよ」
「……」
下の子をハイチェアに座らせて、食事の準備しながら上の子に声をかける。
まったく聞いてない。
イライラしてきた。
「ねえ」
「んー」
「片付けて」
「……」
語気が強くなっていく。
「ねえ!」
ああ、またこうだ。
「早くしてよ」
何故こうなるんだろう。
「聞いてるの!」
わかってるんだ。
「早く片づけなさい!」
この短い夜の時間が
「早くしてって言ってるでしょ!」
可愛い子ども達と過ごせる
「いい加減にしなさい!!!」
貴重な時間だってことは。
声を荒げるごとに苛立ちは募っていって、最後は完全な怒鳴り声。
怒られた我が子は泣きそうになりながらしかたなく片付けをはじめる。
それでもまだ私はイライラしていた。
「お母さんも、いっしょに、」
「なんでお母さんがやらなきゃいけないの。出来ないの見ればわかるでしょ」
下の子に食べさせながら私は言った。
自分の声に棘があるのはわかっている。
今、片づけなさい。
それは正論でありながら、私の勝手な押し付けでもある。今片付けなければならない明確な理由なんてない。だからこれはただの八つ当たり。
子どもと過ごす貴重な時間。
なのに私は怒ってばかりだ。
私だって働いている、疲れてる。
そんな事情は子どもには何も関係ないのに。
これが愛しい我が子と過ごす平日の夜だ。
今頃同僚達はまだ仕事をしてるだろう。
今日のトラブルのフォローは一緒に組んでる後輩が対応してくれているはずだ。
そう。後輩が。
先輩とは名ばかりで、二度の産休育休を経た私なんかよりも彼の方が実質的な勤務年数も実力も上だ。
年だけとって、何やってるんだ私は。
ミスくらい自分でリカバリーしたかった。
あーあ。まあ考えてもしかたないか…
「あっ」
考えてもしかたのないそんなことをぼんやりと考えていたら、下の子の持つ味噌汁入りのカップが小さな手から飛んでった。
しまった。
ぶちまけられるお味噌汁。
お気に入りの絵本にかかったのを見て怒った上の子が下の子の頭を叩く。叩かれた痛みと驚きで大きな泣き声が響き渡った。
「何してんの!」
私の怒声に2人がびくりと身体を震わせる。
「だから早く片づけなさいって言ったでしょ!」
「だって」と小さな口から震えた声が漏れたかと思うと、今度は上の子も泣き出した。
自分の口から、長いため息が漏れた。
なんでこうなるんだろう。
2人分の子どもの泣き声がうるさい。
後ろに流れるテレビもうるさい。
菓子パンをモチーフにしたアニメの歌は聞き飽きた。
床に広がるオモチャの海は、片付けられるどころかワカメと豆腐と茶色いスープのトッピングが施された。
洗濯物は外に干されたまま放置されている。
最後に掃除機かけたのは一昨日だ。
朝ご飯に使ったお皿はシンクに放置されたままだし、夕食づくりに使った包丁もまな板もそのままで、多分干からびたニラがこびりついている。
お風呂の準備もしなきゃいけない。
このままだと寝かしつける時間が遅くなるコースだ。
そういえばボディーソープが切れてたんだった。
帰りに買おうと思ってたのに、すっかり忘れてた…
まあ、そんな時間、なかったけど。
やることはたくさんある。
でも、何もする気が起きない。
やるべきことに溢れた部屋で、私は机に突っ伏した。
会社で残業してた方が数倍マシだ。
会社にいたい。
もう嫌だ。
こんなことを考えるなんて、私は母親失格なのかもしれない。
***
結局、私が動かないことには何も終わることはない。
どうにか気持ちを切り替える。
ひとつひとつやろう。
淡々と、淡々と。
仕事と同じだ。やることが多すぎる時は優先順位はあえて考えない。こういう時は、ただ目の前にある何かから、なんでもいいから、終わらせる。ここに私の感情は必要ない。
やるべきことが半分くらい残った状態で、寝かしつけに突入した。
真っ暗にしたリビング横の寝室で、なかなか寝ない我が子と共に私は布団に横たわる。
暗くしてから、もう1時間が経過しようとしていた。
無駄にしか思えないこの時間。
寝てくれれば、色々出来るのに。
早くしてよ。早く寝てよ。
でもそうやって私がイライラすればするほど、子どもは寝ない。
早く寝なさいと言ったところでハイ寝ますと目を閉じるわけではないのが子どもというものだ。知ってるけれど、イライラするのは止められない。
ようやく2人の動きが緩慢になり、もうそろそろ寝そうだ、よし、このまま行け、そう思った、その時だった。
カチリ。
玄関の方向から聞こえたその微かな音に、子ども達の目が開いた。
ガチャリと続く扉の音に子ども達が起き上がる。
絶望が押し寄せた。
なんで。
なんで今。
あと少しだったのに。
あと数分遅ければ。
ねえ。
私の、この、1時間の、苦労は。
部屋のドアが開く音。そして。
「ッてぇ!ンだよ汚ねェな!」
おおかた床に落っこちていたブロックでも踏んだのだろう靖友のその一言。
それは、私を爆発させるのに充分だった。
リビングのドアをあけて私は叫んだ。
「なんで今帰ってくるのよ!!!」
汚くて悪かったね!!
でも、これでも、これでも、私は、頑張って、
「アァ!?」
靖友が私を見て、不機嫌そうに表情を歪ませた。
「…家着いたかと思ったら、コレかよ」
低い声で呟くように言って、靖友はリビングから出て行った。
少しして、シャワーの水音が聞こえてくる。
いつもは帰ってすぐに食べる夜ご飯、それは机の上に放置されたまま。
私は暗い部屋で立ち尽くしていた。
靖友が言ってることは、もっともだった。
仕事で疲れて帰ってきた途端、なんで今帰ってきたと言われたらそりゃ不機嫌にもなるだろう。
……もう嫌だ。
何がって、自分がだ。
子ども達はまた騒ぎ始めた。
駄目だ。
私は駄目だ。
社会人としても、
母親としても、
妻としても。
***
寝かしつけを終えた私が暗いリビングに戻ると、部屋の片隅にぼんやりと光が見えた。
靖友はソファに座ってタブレットをいじっている。
食事は終えた様子で、机の上はまっさらになっていた。よく見れば、床に転がっていたおもちゃも消えている。
片付けさせてしまった。
……いっそ何もかも放置されていた方が怒りのぶつけようもあるものだ。
ありがとうではなく、そんな考えが頭をよぎる。
自分で思う。なんて、酷い嫁なんだろう。
愛想尽かされるのも時間の問題かもしれない。
「なァ」
暗闇に浮かぶタブレットの明かりが靖友を照らす。
その視線が私に向けられていた。
「働き続けるって決めたのオメーだよなァ」
呆れたような靖友の声。
……時間の問題ではなかったみたいだ。もう、今だ。
靖友の視線と、鋭い言葉が私に刺さる。
「毎日毎日、イライラしすぎィ」
「2人目作るっつーのもヨ、こゆこと覚悟してたんじゃねェの」
「時短使ってんだから、家のコトやんのも当然だよなァ」
「チビがうるせえのも、色々できねえのも、当たり前のコトだよなァ」
「育児なんて、世の中の母親みんなやってンだ」
「働く母親もごまんといんだろ」
「自分で選んだ現実なんじゃねえの」
「仕事のストレス家に持ち込んでんじゃねェ」
「子どもにゃ関係ねぇだろが」
ナイフのように突き刺さる。
反論のしようもなかった。
わかってる。
全部わかってる。
それは、私が、ずっと思ってーーー
心底呆れたような長い長いため息が聞こえた。
「…って、自分で自分追い詰めてンだろ」
………え。
「気負いすぎなんだってのォ」
呆れたような顔をしながら、靖友が手招きする。
言ってる意味を、処理するのに時間がかかっていた。
あれ、おかしいな。
私は、駄目で、酷い嫁で、酷い母で、それで今、怒られて。
そういう話じゃ、なかったの?
「コッチ来い」
言われるがまま、靖友の隣に座ると彼は私の頬に両手を添えた。
『自分で自分を追い詰めてンだろ』
『気負いすきなんだってのォ』
言ってる意味がわかってきて、うっかり涙が出そうになっていた。
だって、私は、こんなに、駄目で、なのに、
ゴッ!
「ったあ!!!」
「1人で勝手に溜めて爆発させてんじゃネェ!ボケナスが!」
鈍い音と共に頭突きが降ってきた。
「ちょ!なに!!」
「オメーがバカだっつってんだボケ!」
さっきまでこぼれそうだった涙は引っ込んで、新たに痛みに涙が滲む。
「死んだよーな顔しやがって、オメー鏡見てんのか」
「見てりゃわかんだ、昔からすぐ溜めんだオメーはヨ」
「ダイジョブダイジョブ言ってっから爆発すンだろ」
「小出しにしろよ。吐き出せよバァカ」
「全部完璧になんて無理なんだっての」
「ツレェもんはツレェし、疲れるもんは疲れんだ。当たり前だろ」
「まァ、オレもまかせちまってたトコあっから言えねートコもあるけどォ」
「来月にゃ繁忙期過ぎっから、オレも早く帰ってくるし」
そこまで言って、ガシガシと頭を掻きながら、靖友は目を逸らした。
「……いつも頑張ってンのは、知ってンヨ」
知っている。私は知ってる。
これは靖友の最上級のねぎらいだってこと。
思わず目の奥が熱くなる。
その私を見て、靖友が鼻で笑った。
「で、何があった訳ェ?今日は一段と酷いじゃナァイ」
それから、靖友は私の話を聞いてくれた。
「仕事でミスった」
「あー、次から気をつけないとネェ」
「あとね、今日、お味噌汁吹っ飛ばされた」
「ハ!そりゃ災難だったな」
「片付けも全然してくれなくて」
「アレ腹立つよナァ」
「あとね、さっきも全然寝なくてすごいイライラした」
「保育園のお昼寝が効いてんじゃナァイ」
「それー、絶対それある、体力回復してるよね絶対、あとね…」
しばらく話をしていると、ふと、ソファに置きっぱなしのタブレットが明るいままなのに気がついた。
なんとなく、覗いてみる。
インターネットの検索画面、検索窓の中の文字。
『 母親 息抜き 』
その下には、
・頑張り過ぎない!ママの息抜き方法…
・子育て中のストレス発散…
・母親の息抜きの大切さ…
なんて、検索結果が並んでる。
私の視線に気付いたのか、靖友の手がタブレットを払った。ゴン、と床に落っこちる。
「……え、ねえ、靖友、」
「るっせ!」
「いったぁ!」
もう一度、ゴチンと頭突きが降ってきた。
***
朝、うっすら明るくなった部屋で目を覚ます。
立ち上がってふと見ると、靖友と子どもが3人でまったく同じ格好で寝ていた。
カーテンを少しあけて明るくして、スマホのカメラを彼らに向ける。
カシャリと小さなシャッター音。愛おしい彼らの姿がその画面に焼き付いた。
「ふふ」
伸びをして、朝ご飯を作りにキッチンに向かう。
私は馬鹿だな。
幸せは、いつだってこんなところに落ちていたのに。
朝起きて、ご飯を作って身支度をして、洗濯をして、それ干して、子どもを起こして食べさせて、身支度させて、家を出る。
満員電車に揺られて会社に到着、仕事して、お昼食べて、また仕事して、早く帰るのに少し心苦しくなりながらまた電車に乗る。
お迎えに行って、洗濯物取り込んで畳んでご飯食べさせてお風呂に入れて明日の保育園の準備して。寝かしつけして自分も寝てる。
そしてまた朝。
場合によっては目覚めと共に、汚いリビングの床と散乱したキッチンのシンク。そんなことも、少なくない。
そんな日の繰り返し。
ゴールのない終わりなき毎日に、解放してと泣き叫びたくなる時もある。
だけど、私はひとりじゃない。
「とっとと着替えろ!遅れっカラァ!」
「コラ待てチビ!ケツ出して逃げンな!履け!」
いつも通りの戦場の朝。
だけど、今日はなんだか余裕だ。
子どもが私を見上げて聞いてきた。
「……おかあさん、なんで笑ってるのー?」
わかってくれる人がいる。
たったひとり、最愛の味方がそこにいる。
ただそれだけで、私の世界は幸せに回るのだ。
味方がそこにいるだけで