海に行こう、と迅さんが言った。ヒュースがマーガリンをパンに塗る手を止め、「海?」と不思議そうに、何故か発言者の迅さんではなくこっちを見てくる。遊真が耳打ちで何か伝えているようだけど、眉が面白いくらいぎゅうぎゅうと寄っていく。3日前から泊まり込んでいる修くんは早々と朝ごはんを食べ終えて記録の確認なんかをしに行った。迅さんはスープもトーストも食べ終えている。わたしもスープの残りを飲むだけだった。
「いいですけど」
3月を間近に控えた土曜日、わたしは備える受験もランク戦もないので予定がなかった。昼に遊真達3人を連れてごはんでも食べに行こうか考えていたくらいだ。なので全く問題はなくオーケーの返答をする以外ないが、迅さんが他の人の前でこう言うのは初めてのことだ。今まで出掛けるところを遊真が見送ってくれたり、レイジさんにバレていたりはあったけど、明確に他人の耳に入るようなことはなかった。
「じゃあ名前が食べ終わったら行こう」と、迅さんは自分の食器を重ねて立ち上がった。ヒュースは相変わらず何か言いたげにわたしを見つめている。迅さんが台所に入るのを見送ってから、「……なんですか?」と一応確認する。
「海に行くのか」
「行くでしょうね」何を言ってるんだ。
「ふたりでか」
「……あなた、行きたいんですか?」
「違う」
つくづく扱いと会話に困る捕虜である。
遊真が「おまえは外野だろ」といつもの顔で言いはなった言葉にヒュースの意識は持っていかれた。口喧嘩になるより先に疲れて止めるだろう。助け船を出すつもりがあったかは知らないが、遊真に口パクで礼を言うとわざとらしく手を振られた。
スープを飲み干してわたしも食器を台所に運ぶ。迅さんがシンクに寄っ掛かって麦茶を飲んでいた。
「ヒュースはおまえのこと気にするよね」
「そうですか? どいてください」
迅さんの腰を肘で避けながら食器を置く。
「自覚ないなあ」とぼやく声を聞きながら、台所を出て自分の部屋へ向かった。
大規模侵攻から1ヶ月が過ぎた今も、その影響と言えるものは残っている。大怪我を負って一週間目覚めなかった修くんも、根を詰めすぎるほど詰めてランク戦に臨んでいる。遊真や迅さんが為したことは結局彼らを救ったのだ。レプリカ先生を取り戻すことを目標に加えて始動した玉狛第2の快進撃は目覚ましく、大規模侵攻以後捕虜としてうちにいるヒュースも次から加わるらしい。見慣れない角があるとはいえ同い年の人間なので、遊真と一緒になって私生活的な面で世話を焼いている。
犠牲はあったが、多くはない数だった。それでも失った当人にとっては、そんな風に切り捨てられる筋合いなどない。迅さんは犠牲が皆無の未来とならなかったことを、しばらく引きずっているようだった。いつもより少し暗い顔をして、妙に神出鬼没な彼を嵐山さんなんかも心配していた。本部に行くたび、迅はどうかと尋ねられた。
わたし自身は特別誰かと何かをやり取りした覚えがない。自分のことは少なからず薄情なんだと思っている。だから数や4年半前との比較を使って冷たい物言いをしないよう、なるべく黙っていた。クラスメイトの疑問や不安に、まずとっきーや奥寺くんが答えてくれたのもある。
悲観に暮れている暇はない。次の国が攻めてきて、それを追い払って、近い未来に大きな遠征も控えている。わたし達は留まっていられない。誰かが見えない手を叩いて急かしているようだ。このほんの数ヶ月で、彼の目は何年分の世界を見ただろう。
迅さんと乗り込んだ電車の中吊りには、「ボーダー大規模遠征」の文字が大きく出された週刊誌の広告があった。というか最近はニュースもワイドショーもそればっかりだ。異世界からの侵略者というキャッチーな話題をネタとして引きずるメディアは多く、嵐山隊も昨年の今頃よりそういう仕事が増えていた。
「ああいう広告ダサいですよね」
「まぁ煽り文句と不平不満をそれっぽく言ってるだけだから」
「好きじゃないです」
まぁまぁ、と迅さんはわたしの肩を叩いて、隅の席に座るよう促した。暖房のきいた電車にはちらほら人の姿がある。わたしと迅さんは他に乗客がいない四人席の半分を占領した。扉の向こう、たたんだマフラーを膝にかけて、ボーダーの雑誌を読み込むサラリーマンがわたしたちを横目に見る。睨んでみようか考えていると迅さんの顔に視界を覆われる。
「……近いですよ」
「隣席失礼してます」
「わたし向かいに座りますね」
「臭いみたいな扱いするなよ悪かったって」
カーディガンを引っ張られて大人しく居直る。
「おまえはもう少し厚着したほうがいいよ」
「……そうですか?」
「おれのと比べてみなよ。ぺらっぺら」
掴まされた迅さんのコートが厚いだけのように感じられて、つい「はぁ」と声が出る。
「お、やる気のない返事」
いいけどね、と笑う迅さんは楽しそうだった。
海について早々に靴を脱いだ迅さんのコートを強く掴むと、「もうしないって」とへらへらした答えが返ってくる。何も信用なるものか、と見つめていると少しずつ彼もばつが悪そうに肩を縮める。今日くらいはコートの裾がシワになるのを諦めてもらう。
冬の砂浜は人肌より少し冷たいくらいの妙な温度で、歩き始めはふかふかと足が飲み込まれていく。何度歩いても慣れないものだった。光を反射して瞬く波の縁が、不思議と遠いのだ。
海に対して特別な感慨はないが、この人と一緒に来る場所だという漠然としたイメージがある。何時間もかけて毎回歩いてるだけだったのに。いやたまに桜貝探して肩と腰痛めたりもしてたけど。迅さんが。
「しばらくは来れないな」
隣からの声に顔を向ける。迅さんは真っ直ぐ海を見ていた。コートを握り締める手に力が入る。
これから忙しくなるからさ、と、まるで一人言のような声音だった。いつか遊真や、出来ればヒュースも連れてきてあげたいと思っていたけど、迅さんがそう言うなら難しいのかもしれない。
横顔は酷く穏やかだ。
この2年、両手の指では足りない数ここに来たけれど、ついぞわたしと彼に海の匂いが染み付くことはなかった。
「水族館は次にしましょう」
トリガーはお互い持ってきていた。
次っていつなんだ、と、思ったって言わない。
わたし達はいつだってここに来れる、と、信じることが絶対に恋だった。例え迅さんがコンクリートとトリオンばかりの未来を見ていても。二人でどこかに行けるかもしれないことが、希望だった。言葉にするとバカみたいだ。
自分の思考の安っぽさと似合わなさに、つい笑っていたらしい。迅さんはわたしに視線を向けて「なんか面白い?」と尋ねた。答えあぐねて首を傾ける。
「変なこと言っていいですか?」
「どうぞどうぞ、笑ってやろう」
「仏になるまで一緒にいましょう」
呟いた声は海風に紛れて、自分の耳にすらちゃんと届かなかった。でも迅さんはわたしの顔を数秒見て、ゆっくりと笑った。困ったようにも呆れたようにも、満足したようにも見える。ちゃんと聞こえたか確認はしない。
この海は綺麗なばっかりで、何万回見たって陳腐だと思わない。
神様はいない。
信じる気持ちだけがある、と思いたかった。
何を失っても信じていられるものがあると、信じたかった。それが目の前の人ひとりだと願っていた。
それだけが恋だった。
19歳と16歳/2月 太陽の向こう、青
(13/13)
End