呪術師が特殊なのは特段珍しいことではなかった。
しかし、名字名前の存在は、生い立ちや性格が複雑で難解だと言われる彼らの中でも、一際稀有な存在であることは呪術師界隈でも有名な話しだった。

なぜなら、彼女は、呪霊を引き寄せる特異な存在だったからだ。

呪術師の家系にうまれ、高専で学び呪術師と認められたというのに、彼女の主な任務といえば呪いを祓うことではなく呪霊たちをおびき寄せる危険な囮になることだった。
なぜ呪霊を強く引き寄せるのか、それは名前の術式が為せるものなのかどうかは未だにはっきりと分かっていない。
しかし名前の存在に呪霊たちが競うように集まってくるのは、最早覆しがたい事実だった。
所謂囮と言う名の撒き餌。
誰も口には出さずとも、呪術師たちの彼女を見る目はほぼその認識で一致していただろう。

そしてそんな身勝手な暗黙の了解は、確実に彼女の人生を狂わせた。
必然か偶然か、幸か不幸か、その稀有な能力を幼い頃に見出されて以来、名前に拒否権なんてものは存在しない。
そして名前もまた、自分が利用されていると気づきながらも甘んじて危険な囮になることを受け入れていた。
それは、呪いを祓うことこそ何よりも優先すべきだと幼少時から教えられていたからかもしれない。
そして更に悲劇だったのは、名前と親しい周りの者たちまでもが彼女を犠牲にすることに対して明確な反対を示さなかったことだ。
一部の囮賛成派は、その特殊な能力を使わない選択肢などありえないと身勝手にも名前に詰め寄った。
何て浅ましく理不尽な要求なのか。

しかし、ただ一人、名前の高専の先輩でもあり恋人の五条悟だけは、彼女を囮にすることを決して良しとはしなかった。


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*



「もしキミが死んでいたら、僕はアイツらを殺してたよ」


今にも事切れてしまいそうなか細い呼吸を繰り返す名前を見下ろしながら、五条は淡々と言葉を紡いだ。
まるで世界から隔離されているかのように静かな彼の部屋は、蛍光灯の光源がやけに眩しくその存在を主張している。

華奢な体をぐったりとソファの背に預け、辛うじて視線だけを合わせてくる名前の顔面はまるで死人のようにひどく青白い。
五条は、見渡す限り体の表面上に目立った外傷はないことを確認して隠された眼を僅かだが眇める。
やはり、今の衰弱具合は精神的なダメージを受けたことによるものだろう。

迂闊だった。
己が不在時に、彼女を利用しようとする輩がいることは分かっていたのに。

五条は、思わず舌打ちしそうになるのを無理矢理口を噤むことで抑え込む。
ぐつぐつと腹の底で煮え滾るような負の感情を自覚しながらも、それでも平静を装うように肩を竦めたのは完全なパフォーマンスでしかない。

五条が名前を囮にすることを嫌がる理由、それはあまりにも彼女の負担が大き過ぎるからだ。
呪霊を引き寄せる体質故に、戦わずとも一度に莫大な負の感情を受け止めなければならない過酷さは、特級呪術師でもない名前には到底荷が重すぎた。
しかし彼女は、一歩違えば己の精神を崩壊させ死に至るほどの任務だったとしても要請があれば絶対に受け入れる。
だからこそ、五条にはひどく面倒で腹立たしいのだ。

横たわる名前の薄い唇を見つめながら、五条は今すぐ彼女を唆した奴らすべてを抹殺したくてしかたなかった。
彼女を傷つける奴らすべてが五条にとっては敵だ。
しかし、決してそれを彼が口に出すことはない。
そんな屈折した己に心の中で呆れながらも、五条はまたいつものようにくつくつと喉を震わせてみせた。


「もし名前が僕の前からいなくなったら、きっとおかしくなって全人類を呪っちゃうだろうね」


名前の眉が、一瞬、困ったように下がったのを五条は見逃さなかった。

彼はきっと、その言葉が何よりも名前を苦しめるのだと誰よりも理解している。
だからこそ、この脅迫にも似た台詞を吐かずにはいられなかったのだ。

彼女をこの世界に縛りつけるためなら、五条はきっとどんな手段でも厭わないだろう。
それは彼女をこの世で一番必要とする彼にとって、至ってシンプルな好意のあらわれでもあり何よりも優先すべき行動だからだ。
彼を知る者たちからすればキャラが違い過ぎると笑われてしまうだろうが、五条は名前に対してはどこまでも一途でありどこまでも誠実であろうとした。
たとえそれが、彼女にとっての望みではなくとも。

名前はまるで、先ほどの五条の言葉を反芻するように、震える口元をきゅっと真横に結んでみせる。
目元は真っ赤に染まり、潤んだ瞳は今にも水滴がこぼれ落ちそうでひどく痛々しかった。


「…それでは、絶対に死ねません、ね…」
「でしょ?僕にダッサい呪霊みたいな真似事をさせないでよ」


努めて明るい声で促しながら、やはり断らない彼女に五条はひりつくような痛みが体中をかけ巡るような錯覚をおこす。

そう、彼は分かっていた。
呆れるほどにお人好しの彼女ならば、絶対に人の願いを無下にはできないと。

いつだって自分を犠牲にし続けた彼女にとって、求められることは抗うことのできない無意識に染み付いた呪いなのだろう。
たとえ、その期待のせいで耐え難いほどの苦痛に苛まれるとしてとも、きっと名前なら自らの手で命を絶たないと五条は熟知していた。
本当は、彼女が何を望んでいるのか分かっているくせに。
名前を愛するが故に、決してその選択肢だけは選ばせようとはしないのだ。


「僕のために、生きてよ」


五条の言葉に、一瞬、泣く寸前のようにくしゃくしゃに顔を歪めた名前が、今度は笑おうとぎこちなく頬を持ち上げる。
また当然のように人の願いに応えようとするいじらしさに、五条は思わず名前を自身の胸に閉じ込めていた。

もう、見ていられなかった。

たとえ欺瞞だとしても、最強のお前らしくないと嘲笑われようとも、五条にとってこの醜くも小綺麗な世界での唯一の執着が名前だったから。

彼女には誰よりも幸せであって欲しい。
彼女の願いなら何でも叶えてやりたい。
そう切に願いながらも、しかし実際は怨嗟が蠢く地獄に彼女を縛りつけている。
五条は分かっていた。
本当は、彼女が死に場所を求めていることを。
だからこそ、名前の凪いだ海のような瞳の煌めきに捕まるたびに、五条はあまりにもダブルスタンダードな自分を嗤いたくなった。

けれど、どうしても彼女をこの世界に留めて置きたかった。
それだけが彼の願いだったから。


「勝手にさよならするなんて、絶対に許さないよ」


何人たりとも自分から彼女を奪わせない。

目隠しした瞳の奥にチカチカと点滅する赤い残像を嘲笑うように、五条はまた小さく喉を震わせては天を仰ぐ。
どろりと腹の底に溜まっていく願いの澱は、いつか己を窒息させる致命傷になるのかもしれない。


呪詛にも似た誓いをきみに