気温の上昇は著しく、春というよりすっかり初夏と表す方がしっくり来るようになっていた。卓上のグラスには結露が纏い、溶けかけた氷が音をたてて約半回転踊る。眼鏡のフレームに軽く触れ、チラリと隣に座る彼女へと視線を送れば未だ彼女は物語の中だ。


無言な彼女との空間は苦ではなく、むしろ心地良いと感じるくらいだった。無理に口を開かなくとも、たまに触れ合う視線。それだけで僕の中の幸福水位は上昇し、たまに指が触れ合うと途端に息が苦しくなる。上手く息を吸えない、って嫌な事があった時に使う表現だとばかり思っていたけれど、幸せすぎる時にも使うんだなと彼女と過ごす時間を経て学んだ。ああ、僕には経験が足りないんだ。知識だけではとても対応しきれない。
けれど、それでも新しい知識を得る事は楽しい。下世話なゴシップ好きというよりかは、純粋な知識欲。幼い頃から本を読むことは好きだったし、最近は電子機器で蔵書に触れることもしばしば。電子機器のいい所は指先ひとつで様々な知識を引き出せる所だと思う。
だから時には雑学にだって触れることもあるわけであって。
……ひとつ言い訳をすると、以前までの僕なら恐らくこんなにも浮かれるような事態にはにはならなかっただろう。


「あのさ」
「なぁに?」


僕の渇いた唇から発せられた言葉は思ったよりも掠れていて。これじゃ格好がつかないな、とぎこち無い手つきでグラスからコクリ、と水分を喉に流した。なるべくスマートにこなしたいのに、ままならない。
泳ぎそうになる視線を彼女に固定したまま笑みで乗り切る。いわゆる処世術のひとつだ。言葉の続かない僕を不思議に思ったのか顔をあげた彼女と視線が交わり、こくり、と再び喉が鳴った。


「……ごめん、やっぱりなんでもない。読書続けて?」
「……」
「あ、それともお腹空いた?そろそろ何か作ろうか」
「日和くん」


誤魔化すように続けざまに発言する僕。そのまま背凭れにしていたベッドに手を付き、立ち上がろうとすれば、ふと彼女に呼び止められる。視線を下げると僕の影がかかった彼女の輪郭からはらり、と横髪が重力に従い肩へと滑り落ちたのが目に入った。
そして、それから。重なった唇から、仄かに発せられる彼女の熱がじんわりと全身へと伝達して行く。その不思議な感覚の正体は、きっと大きく高鳴るこの心音とも密接な関連性を含んでいるに違いない。
ぽかんと中途半端な体勢のまま彼女を見つめている僕と、再び本へと視線を戻しながらも口の両端を僅かに上げている彼女。
まつ毛のアーチの中で、切れ長の瞳が悪戯に僕を写す。


「今日キスの日なんだって」
「へ、へぇ」
「知っていたんでしょう日和くん」
「……なんの事かな名前ちゃん」


恒例じみたやり取りを交わせば、ふ、と気の抜けた吐息が自然と零れ、互いの表情が緩んだ。どうやら彼女の方が、僕より何枚もうわてのようだった。
幸せな時間。甘いひととき。うん。何気ないひとコマだとして、それでも僕には勿体ないくらいだ。
増幅された幸福水位が僕の体という器から溢れ出し、この小さなワンルームいっぱいにみたされていく、というところで、目が覚めた。
視線の先にはカーテンの隙間から零れた朝日が差し込んでいる。ああ、そうだった。


彼女は未だ彼の隣で、僕の隣には居ないのだ。


彼が為のビオトープ