高校生って、いつもきらきらしていて、いいなあ。すでにおさらばした環境を羨ましく思うのは仕方のないことだ。人間はないものねだりが上手な生き物である。
友達同士楽しげにおしゃべりをしている女子高校生たちをすれ違い様に少し目で追っただけなのに隣を歩くその人は「知り合いでもいんのか?」と目敏く見つけてくる。ツーブロックの髪型は切りたてだった何ヵ月か前よりも若干伸びてしまって、天辺の髪がふわふわと夏真っ盛りの空気に揺れた。黒髪に学ラン、ぺしゃんこのスクールバッグをリュックのように背負ってポケットに手を突っ込む彼は、わたしがさっき視線を向けていた集団と同じく実はまだ青春のど真ん中にいる高校生なんだということを改めて実感する。顔を合わせるときはいつも私服だからこの態度のでかい幼馴染みが男子高校生という事実なんてすっかり忘れてしまっていた。質問の答えとして首を横に振ったわたしに「あっそ」と呟いて一歩前をさっさと歩いていく洸太郎に、あと半年でお前も高校生じゃなくなっちゃうんだからちゃんと今のうちに堪能しろよ、とお節介すぎる念を送る。真っ黒な制服越しの背中がなぜか大きく見えた。
「で、どこがわからない?」
バイトの帰りに学校終わりの洸太郎を拾って(って言っても歩きだけど)自分の家から徒歩三十秒の彼の家にお邪魔した。呼び出された理由は受験勉強で、こればっかりはもう一度やれと言われても絶対にやりたくない。大学生は自由という名の行動原理に基づいて生きており、このぬるま湯を知ったあとで受験競争なんて言葉だけで逆上せそうな熱湯の中に戻ることは不可能だ。もちろん大学生だって勉強もテストもあるけれど、基本的には自分の好きなことを好きなように学ぶ場なのだからそこまで苦じゃない。
開かれた教科書に並ぶ古典文学の長文を前に洸太郎があんまりにも露骨に顔をしかめるものだから思わず噴き出すように笑ってしまった。恨みがましい顔を向けるこの幼馴染みは読書が好きなくせに昔から文系教科に弱いらしい。もとい、古文の、特に色恋沙汰がどうにも理解できないそうだ。ありきたりな流れや雰囲気だけでも掴めればと有名な古典物語のマンガを貸したことがあるけれど何ページかめくっただけであっという間にやめてしまったのを思い出す。曰く、ただのヤリチンの話に興味はない、だそうだ。ごもっともである。わたしだってロリコン野郎の性癖に興味があるわけじゃない。
「早く夏休みになんねえかな」
「その前にテストでしょ」
「つか、俺そろそろ18になる」
「はいはい。話しててもいいから手を止めない」
「今年の誕生日なにくれんの?」
誕生日プレゼントをねだるなんていい歳して子供か! と突っ込もうと彼の操るシャーペンの先を追いかけていた目線を上げた。生まれたときから知っていると言っても過言ではない洸太郎を相手にパーソナルスペースなんてあってないようなものだと思っていたのに、この距離は失敗だったかもしれない。不意に至近距離で絡む視線に心臓がちりちり焦げ付くような音がする。
この音の理由をわたしはずっと知っていた、知っていて見て見ぬ振りを続けてきた。去年の今頃「お前と同じ大学受けるわ」と突然告げられたときの目はどう表現していいかわからない色を孕んでいて、知らず知らずのうちに肩がふるりと揺れてしまったことをはっきりと覚えている。
洸太郎の背がわたしを超えたのはいつだったっけ。一緒に出掛ければ自然と重いものを持ってくれるようになったのは? なにも言わずに車道側を歩いてくれるようになったのは? わたしの後ろをついてきていた小さな男の子がいつの間にかわたしの半歩前を歩き、なおかつ歩幅まで合わせてくれるようになったのは? 突然言葉を忘れてしまったかのようだ。「決まってねえなら」と立て続けに薄い唇が言葉を象った。わたしを真っ直ぐに見据えたままの細い目がわずかにすがめられる。狭い部屋のエアコンはしっかりと機能を果たしているはずなのにわたしの背中には嫌な汗が流れていく。
「俺のドーテーもらってくんねえ?」
「……は?」
「だめかよ」
ダメとか、ダメじゃないとか、そんなに簡単に答えられる話じゃ、ない、でしょ。そう文句を言おうとも間抜けな声を出したきり喉が焼け付いてしまったようにカラカラだ。肝心なときにうまく立ち回れない自分に焦りばかりが肥大する。憮然としているけれど洸太郎が照れているのは勘違いじゃない。微かに赤みを増し熱をもったであろう頬、真一文字に結ばれた唇、それでもわたしを捕らえたまま離さない強く鋭い視線、それらがすべて、あんな軽口のように向けられた言葉が冗談じゃないことを物語っている。彼は本気で言っている。洸太郎の頬を染める薄い朱色が伝染してしまったようで、わたしの頬もどんどん知らない熱を加速させていく。皮膚を伝って侵食してくるその熱にあてられた心臓がわたし以外誰にも聞こえないところで暴れまわり、目の縁に溜まる水分が徐々に量を増す。思考と感情の入り組んだちぐはぐな言葉が空気に触れた。
「そう、いうのは、好きな子に言いなよ」
「は?」
「周りに置いていかれて、焦る気持ちはわからないでもないけど、手近なとこで済ませようとしないで」
「お前なあ、」
彼の眉間に深く刻まれたシワに心臓が強く握られたような痛みを訴える。わたしの腕を洸太郎の大きな手が掴んだ。痛いような痛くないような、力加減は微妙なところだけれど直接かかる圧力とは別に触れたところが洋服越しだというのにひりひりする。ひたすら溢れる寸前で堪えていた涙がぼろぼろと重力に従って落ちていった。
やっとの思いで絞り出した返事はなんて浅はかで的外れなのか、洸太郎がそんなことを思って言ったわけではないことは百も承知だったのに。乙女心は難しいというかなんというか、ヤれれば誰でもいいんじゃないの? だなんてひねくれすぎた一抹の不安と、急激に縮められてしまった間合いにひどく怖くなってしまったわたしの弱さが原因だ。始まらなければなにも変わらないというのに変わってしまうことを恐れるのは、それだけ洸太郎がどんな名称の関係にせよそばにいてくれることが当たり前になってしまっているからだった。始まりの向こう側に終わりを見出だして怖がるような自分を守るためだけの愚かしい部分が露呈する。ああ、なんて醜い。
ローテーブルの前に並んで座っていたわたしたちの距離は、膝が触れるか触れないかくらいの微々たるもので、洸太郎がわたしの体をちょっと引き寄せるだけで簡単にくっついてしまった。見慣れた部屋着のラフなTシャツ越しに胸板の厚さを感じてひどく驚く。ずっと近くにいたつもりだったのにそれは所詮つもりでしかなかったみたいだ。一人の男として成長した体のことも、こんなに人を安心させる体温を持っていることも、なにひとつとしてちゃんと知らなかった。
派手な音をたてる心臓と反比例するかのように脳みそは安堵で満たされ冷静さを取り戻していく。ごわごわに絡まっていた黒い塊がしゅわしゅわと音をたてて溶けながらわたしの体から抜け出していく。瞼を閉じた瞬間に押し出され、行き場をなくした水分がぽたりぽたりとこぼれて落ちた。頭の上で洸太郎の不機嫌な声がする。
「好きでもない奴にこんなこと言わねえから」
「…うん」
「言い方がマズかったのは謝る」
「うん」
「ちゃんと好きだっつーの」
うん、と単調に頷こうとしたわたしの体はたったそれだけの短い言葉もすべて言い切らせてもらえぬうちに洸太郎の腕によってさらに抱きしめられて、パズルピースがはまるかのようにぴったりとくっついた。眠る前の赤子をあやすような手付きで規則正しく背中を叩く音がしんと静まり返る空白に漂う。やけに大きく聞こえるエアコンの稼動音に混じって降ってくるため息のような熱い吐息が旋毛の辺りをくすぐった。
洸太郎の心臓の音をここまではっきりと聞いたのは初めてだ。多分わたしの心臓と同じくらい早くてうるさい。耳を塞ぎたくなるような羞恥と多幸感をもって、二つの心臓は同じようなリズムを刻む。「わたしも、好きだよ」と、安心しきってふやけた思考でやっと素直な心の内をありきたりな言葉の並びで口にすれば「知ってる」と低い声が返ってきた。腕の力が強くなる。
「キス、していいか」
「……一回だけ、なら」
ぼそぼそと躊躇いと照れの含まれた声が降り注ぐのと同時に彼の腕の力が緩んだ。そこから緩慢な動きで抜け出して見上げた洸太郎の顔には緊張が貼り付けられている。勿体つけるように近付く気配に怖じ気づいて目を閉じる。わたしがもう少しこういうことに慣れていたら、あとちょっとだけでいいから洸太郎の真剣な目を見つめていたかった、なんて。
戸惑いがちに触れ合うやわさに目眩がする。離れていくと思っていた唇はわずかな隙間をあけたと思った次の瞬間にはまた押し付けられて、するりと舌が唇を割って入ってきた。驚いて咄嗟に開いてしまった瞼の先で絡まる洸太郎の熱っぽい双眸にぞくぞくと背中から腰にかけて電気のような甘い痺れが走る。待って、なんで。そんな目知らない。
逃げようとも混乱し、溶けかけた思考では力の抜けた身体をうまくコントロールできなくて、待ってとも言わせてもらえない。燃えてしまいそうなほど熱くなった唇の代わりに必死で洸太郎の腕を掴めば崩れ落ちそうな体がようやく名残惜しそうに離される。やっと吸い込んだまともな酸素が一気に脳みそへと回ってくらくらした。
「い、一回だけって、言ったのに…!」
「うるせ、一回だけで我慢できるわけねえだろ」
頬から耳まで真っ赤にして、そんなあからさまに欲情していますって表情でこっちを見ないで欲しい。けれど自分の顔も確実に同じことになっているという事実がどうしようもなく恥ずかしくって慌てて俯く。再度抱き締められて熱い吐息と「好きだ」という譫言のような掠れたくすぐったい言葉が頭の天辺から繰り返し降ってくる。轟音を鳴らし続ける2つの心臓が収まる気配は感じられなかった。
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「なにぼんやりしてんだよ」
夏の湿った空気にさらされた肩にちくりと痛みが走る。飛んでいた意識が手繰り寄せられ金色の髪が間接照明のオレンジ色に揺れた。電気をつけたままよりも、暗がりでするよりも、こっちの方が好きだと言うのだから意外とロマンチストなのだ、こんな見た目とは違って。背中に感じるシーツの感触とお腹をゆるゆるなぞるゴツい手がくすぐったくてふふ、と空気を含んだ笑い声が漏れた。
「『一回だけって、言ったのに』」
「……てめえ」
わたしを組み敷いている洸太郎の、さっきまでは余裕たっぷりだった口元がひきつりピクピク動くのを見ていたら思わずまた笑ってしまった。そんなわたしに機嫌を斜めに傾けた洸太郎が唇をわずかに尖らせる。不機嫌に包んでいてもそれが照れ隠しなのは分かりきっているし、むしろあの日のことをちゃんと覚えていてくれたことがうれしくて、洸太郎の方へと伸ばした手でありのままの黒色ではなくなった髪の毛をゆるやかにやさしく撫ぜる。指の間を通る感触はやっぱり思ったよりもやわらかい。
「『一回だけで我慢できるわけねえだろ』」
「!」
「もういい加減に集中しろ」
なぞった思い出を覆い尽くしてなお、上書きするように塞がれた下唇に洸太郎の歯がやわやわと甘く食い込む。反射的に薄ら開いた隙間から簡単に侵食を始めた自分のものじゃない舌に記憶を重ねてただでさえ疼く体が熱くなる。
ゆっくりと離れて、それでも鼻先がぶつかりそうな至近距離のまま見つめた洸太郎の目が細まる。恥ずかしげもなく「好きだよ」と伝えれば「うるせえ」だなんて言いながらひどくいとおしそうにキスをしてくれることをわたしは知っていた。願わくば、その唇がやさしくなぞるのはこれからもわたしだけでありますように。わたしも案外ロマンチストだなとふわふわしたこそばゆさを感じて目を閉じる。
その日はこの夏はじめての熱帯夜だった。
まだその牙を知らない