彼が笑う


 最初はただのお隣さん。

 引っ越してきたその人は、とても不思議な人だった。



「初めまして。今日から隣の部屋に住む事になった、沖矢昴です」



 ニコリと笑う彼は物腰が柔らかく、優しそうな雰囲気。


 今時、菓子折りを持って隣人の家に挨拶へ来る人もいるんだ。

 第一印象は、そんな感じ。



 二度目に会ったのは、翌日の早朝。

 アパートの庭で花に水やりをしていた時。



「おはようございます。水やり、手伝いましょうか?」



 クスリと笑う彼は紳士的で、頼りになりそうな雰囲気。


 世間が言う優男とは、こんな人の事を言うんだろうか。

 うっかりときめいたのは、今もあの人に言えそうにない。



 その次に会った時は、仕事が休みだったお昼頃。

 買い出しから帰って来た時。



「ああ……実は自炊出来ないんです。この年にもなって、お恥ずかしいですが……」



 アハハと笑う彼は子どものようで、イタズラに失敗したような雰囲気。


 毎日コンビニ弁当やファーストフードを食べているのを見かねて、簡単に出来る料理を教える様になった。



 印象的だったのは、住んでいたアパートが火事になった時。



「貴女が無事でよかった……」



 フッと笑う彼は困ったような表情で、心の底から安堵している雰囲気。


 突然、住む家を失い困っていれば、どこにそんな伝手があったのか。

 無人になっている洋館に、新しい住居が見つかるまで一緒に住む事になった。



 そう、新しい住居が見つかるまで、一緒に住む事になった。

 はずだったのだが――







「……あ、の……沖矢、さん?」



 自分でも笑えるほど声が震えた。


 いや、この状況を考えてみれば、とても笑える状況ではない。

 そんな事は皐も分かっていた。


 もの凄く、目の前にいる人物に声をかけたくない衝動にかられる。

 だが、声をかけなければ目の前にいる男は退いてくれないだろう。



「はい。どうしました?」



 いやいや、「どうしました?」じゃないよ。


 そう言おうと思うが、言えない。


 少しでも動けば触れてしまう唇。

 肩には沖矢の左腕が回り、左手は皐の左肩を掴んでいる。

 皐の腰はキッチンのシンクに押し付けられ、彼女の両手はシンクのふちを握っていた。



 沖矢との距離が、近い。



 一体、何がどうしてこうなったのか。

 今もって皐には分からない。


 ただ夕飯の片付けをしながら、新居が見つかったと話していただけだった。

 だから、この家を出て行くと言った。


 皿洗いが終わって振り向けば、既に沖矢が背後におり、気がつけばこの状態。



 彼は、何を考えている?



 沈黙が怖い。

 このまま見つめ合う事も怖い。

 全てを見透かされているようで、心の奥底に隠している淡い気持ちに気づかれそうで。



「……皐」



 聞いた事のない低い声。

 感じる吐息。

 そして、合わさる瞳と瞳。



「……っ」



 初めて見た、彼の瞳。

 翡翠のそれは、月夜に輝くエメラルド。

 うれいを帯びるその瞳に射抜かれて、皐は完全に動けなくなった。



 彼は一体、誰?



 普段の「沖矢昴」とは、随分とかけ離れた存在がそこにいる。

 皐の知らない、恐らく、知ってはいけない存在。


 普段は「沖矢昴」に隠れ、闇の中からひっそりと覗いている。

 ふとした時に、ほんの一瞬垣間見る。

 それはさながら、闇夜に潜む獣。


 皐自身も気づいていた。

 だが、知らない振りをしていた。

 そのもう一人の彼が今、ここにいる。



「もしここで俺がお前を止めたら、どうする?」



 いつもと違う口調で問われ、皐は身体を震わせた。

 それは決して寒さからのものではなく、熱く燃えるような感覚。


 大きな右の掌が皐の頬を覆う。

 綺麗でありながら、しかし男らしい親指が皐の唇をなぞった。



「答えろ。皐」



 ゾクゾクと身体に痺れが走る。

 自分の身体であるはずなのに、意思に反して動かない。



「……いつまでも、ここには……いられない、から」



 か細くなった声。

 甘い誘惑に負けそうだった。


 目の前にいる男は、それを知っている。

 皐が今、ギリギリのラインを保ち、つま先だけで立っている事を。



「そうか……」



 ニヤリと笑う彼は楽しそうで、狙った獲物を追い詰めるような雰囲気。



「なら、俺はお前をどこまでも追いかける事になるな」



 ゲーム開始早々、決着がつく状況に持ち込まれるとは、この事を言うのだろうか。



「俺から逃げ切れると思うなよ」



 唇に重なる柔らかさを感じたのは、既に逃げ場はないと悟り、答えを決めた時。


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