彼が笑う
最初はただのお隣さん。
引っ越してきたその人は、とても不思議な人だった。
「初めまして。今日から隣の部屋に住む事になった、沖矢昴です」
ニコリと笑う彼は物腰が柔らかく、優しそうな雰囲気。
今時、菓子折りを持って隣人の家に挨拶へ来る人もいるんだ。
第一印象は、そんな感じ。
二度目に会ったのは、翌日の早朝。
アパートの庭で花に水やりをしていた時。
「おはようございます。水やり、手伝いましょうか?」
クスリと笑う彼は紳士的で、頼りになりそうな雰囲気。
世間が言う優男とは、こんな人の事を言うんだろうか。
うっかりときめいたのは、今もあの人に言えそうにない。
その次に会った時は、仕事が休みだったお昼頃。
買い出しから帰って来た時。
「ああ……実は自炊出来ないんです。この年にもなって、お恥ずかしいですが……」
アハハと笑う彼は子どものようで、イタズラに失敗したような雰囲気。
毎日コンビニ弁当やファーストフードを食べているのを見かねて、簡単に出来る料理を教える様になった。
印象的だったのは、住んでいたアパートが火事になった時。
「貴女が無事でよかった……」
フッと笑う彼は困ったような表情で、心の底から安堵している雰囲気。
突然、住む家を失い困っていれば、どこにそんな伝手があったのか。
無人になっている洋館に、新しい住居が見つかるまで一緒に住む事になった。
そう、新しい住居が見つかるまで、一緒に住む事になった。
はずだったのだが――
*
「……あ、の……沖矢、さん?」
自分でも笑えるほど声が震えた。
いや、この状況を考えてみれば、とても笑える状況ではない。
そんな事は皐も分かっていた。
もの凄く、目の前にいる人物に声をかけたくない衝動にかられる。
だが、声をかけなければ目の前にいる男は退いてくれないだろう。
「はい。どうしました?」
いやいや、「どうしました?」じゃないよ。
そう言おうと思うが、言えない。
少しでも動けば触れてしまう唇。
肩には沖矢の左腕が回り、左手は皐の左肩を掴んでいる。
皐の腰はキッチンのシンクに押し付けられ、彼女の両手はシンクのふちを握っていた。
沖矢との距離が、近い。
一体、何がどうしてこうなったのか。
今もって皐には分からない。
ただ夕飯の片付けをしながら、新居が見つかったと話していただけだった。
だから、この家を出て行くと言った。
皿洗いが終わって振り向けば、既に沖矢が背後におり、気がつけばこの状態。
彼は、何を考えている?
沈黙が怖い。
このまま見つめ合う事も怖い。
全てを見透かされているようで、心の奥底に隠している淡い気持ちに気づかれそうで。
「……皐」
聞いた事のない低い声。
感じる吐息。
そして、合わさる瞳と瞳。
「……っ」
初めて見た、彼の瞳。
翡翠のそれは、月夜に輝くエメラルド。
うれいを帯びるその瞳に射抜かれて、皐は完全に動けなくなった。
彼は一体、誰?
普段の「沖矢昴」とは、随分とかけ離れた存在がそこにいる。
皐の知らない、恐らく、知ってはいけない存在。
普段は「沖矢昴」に隠れ、闇の中からひっそりと覗いている。
ふとした時に、ほんの一瞬垣間見る。
それはさながら、闇夜に潜む獣。
皐自身も気づいていた。
だが、知らない振りをしていた。
そのもう一人の彼が今、ここにいる。
「もしここで俺がお前を止めたら、どうする?」
いつもと違う口調で問われ、皐は身体を震わせた。
それは決して寒さからのものではなく、熱く燃えるような感覚。
大きな右の掌が皐の頬を覆う。
綺麗でありながら、しかし男らしい親指が皐の唇をなぞった。
「答えろ。皐」
ゾクゾクと身体に痺れが走る。
自分の身体であるはずなのに、意思に反して動かない。
「……いつまでも、ここには……いられない、から」
か細くなった声。
甘い誘惑に負けそうだった。
目の前にいる男は、それを知っている。
皐が今、ギリギリのラインを保ち、つま先だけで立っている事を。
「そうか……」
ニヤリと笑う彼は楽しそうで、狙った獲物を追い詰めるような雰囲気。
「なら、俺はお前をどこまでも追いかける事になるな」
ゲーム開始早々、決着がつく状況に持ち込まれるとは、この事を言うのだろうか。
「俺から逃げ切れると思うなよ」
唇に重なる柔らかさを感じたのは、既に逃げ場はないと悟り、答えを決めた時。
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