儚い君を抱き締めて


 泣いている。

 暗闇の中で、彼女が泣いている。


『ごめんなさい。ごめんなさい』


 謝るな。

 そんな言葉を紡ぐのさえ惜しくて、薄らいでゆく小さな身体を抱き締めた。


 泣いている。

 愛しい彼女が泣いている。

 儚い輝きに包まれて、その存在が消えてゆく。


 消えてゆく。

 彼女と過ごした幸せの日々と共に。

 塗り替えられていく記憶には、大きな邸で独り過ごす自分の姿。彼女の存在など最初からなかった、とでも言うように。沈黙に包まれた邸で独り、酒を飲んでいる。


 行くな、と強く願っても意味はない。

 柔らかな灯は、暖かな風と共に去ってゆく。

 これが、神風なのか――


 共にいると、約束した。

 繋ぎ止めると、その手を握った。


 春の暖かな日差しの中、静かに解けゆく淡い雪のように――フワリと弾けた最後の温もり。

 愛した彼女は、もう腕の中にいない。





 冷たい感覚と共に赤井は飛び起きた。息を荒くしながら周りを見渡せば、そこに捜し人の姿はない。


「……っ」


 背筋が冷える。

 考えたくもない現実に、赤井は着替えもせずに寝室を飛び出した。


 慌てて二階をくまなく捜した後、彼は勢いよく一階へと下りてゆく。ほのかに食欲をそそる匂いがダイニングからしたので、赤井は近くの扉からダイニングに入った。

 捜し人の姿は、キッチンにあった。


「赤井さん。おはようございます」


 振り返った彼女は、柔らかく笑いながら挨拶をしてくる。

 赤井は何も返さず笑いかける彼女に近づいて、その小さな身体を抱き締めた。




 夢とは違う、柔らかな感触。




 ほのかに香る、甘い匂い。




 穏やかな春のように暖かい体温。




 彼女は確かに、ここにいた。




「赤井、さん?」


 抱き締めた彼女に名を呼ばれても、赤井は返事をしなかった。

 彼女は少々、戸惑いを見せていたが、赤井の腕の中で静かにしている。


 赤井の動きがあったのは、煮込んでいた味噌汁が沸騰し、カタカタと音がなり始めてから。


「すまない。邪魔をしたな」


 名残惜しいと言わんばかりの表情をしながら、赤井は皐を抱き締めていた腕を緩める。


「いえ、問題はありませんが……朝食がもうすぐ出来上がるので、もう少しだけ、お待ちください」

「ああ。その間に着替えてくる」


 様子が違う事を察したものの、皐は深く聞かずに朝食作りを再開させ、赤井は着替えをしに行った。





 今日の赤井は絶対に変だ。

 着替えもせずに顔を出したかと思えば、いきなり抱き締められ、何度か問いかけても赤井からの返答はない。

 共に食事をした後は、それぞれの時間を過ごすのだが、今日は寝室で読書をしている皐を膝の上に乗せ、ずっと彼女の黒髪を触っている。恋人と言う関係になってから、それなりのスキンシップをするようにはなったが、こんな事は初めてだった。


「……赤井さん。具合が悪いんですか?」


 ポツリと呟くように皐が問いかけると、切なさを含んだ翡翠の瞳と重なり合う。


「……」


 何かを迷っているのか、彼からの返答はない。

 沈黙が続く中、赤井はゆっくりと口を開いた。


「たいした事ではないのだが……」


 肩に回った手に抱き寄せられて、皐は赤井の胸へと寄りかかる。


「少し、夢見が悪かったようでね。お前が傍にいないと、落ち着かない」


 弱腰な台詞に、皐は胸を締め付けられるような感覚を覚えた。

 彼女は読んでいた本を閉じ、赤井の方へと向き直る。


「秀一さん」


 そして、赤井の名を呼びながら彼の頬に小さなキスを贈った。


「……珍しいな」


 疲れたような笑顔を見せる赤井に、皐は小さく笑う。


「偶には、いいかと思いまして……嫌でしたか?」

「……そうだな」


 笑いかける皐の唇に、軽く唇を重ね合わせる赤井。不意打ちのそれに皐が頬を赤らめると、彼は小さく微笑んだ。


「こちらの方が良かった。と言ったら?」

「……今日だけ特別ですよ、と返しておきます」


 恥ずかしさを誤魔化すように、皐は赤井に口付けた。夜の時に比べれば、フワリと軽いキスではある。

 けれど、この手の事に奥手で不慣れな皐には、これ以上の行為を進めるのは難しいようで。真っ赤に染まった顔を隠すように赤井の胸元へ顔を押し付け、自身が出せる限りの力を持って彼を抱き締めた。

 閉ざされた視界の中、クツクツと小さな笑い声が降ってくる。それでも、皐を抱き締めている腕の力を弱めない所を考えると、まだまだ足りないようだ。

 いつもは不敵で頼もしい赤井も、休息が必要な日があるのだろうと考えた皐。しかし何かをしようにも、だんだんと眠くなってきているのか、中々いい案が浮かばない。


「眠いなら、寝るといい。今日は俺も付き合おう」


 そう言って皐を抱え上げると、赤井は彼女が読んでいた本を近くにある机に置き、二人でベッドに寝転んだ。

 眠そうにしている皐を抱き締めて、赤井は彼女の頭に顔を埋める。

 横になった事で眠気が強まった皐は、そんな行動をする赤井には何も言わず、ゆっくりと眠りの世界へと旅立った。

儚い君を抱き締めて
(傍にいてと強く願う)

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