あの日も彼の瞳は強く光っていてその中に移る私はすでに恋をしているように見えた。
私はその事実を自分の中で持て余していたのでただぼんやりと歩いていた。
隣にいたあなたは何かを見つけて駆け出してしまって、私はどんどん小さくなるその背中を見つめる事しかできなかった。
それは苦しくなるくらい空が青くて暑い眩しい午後だった。




十月のみかづき





「ただいまー……」

 玄関の前で深呼吸を繰り返して、この家に帰ってくる躊躇いを誤魔化した。帰宅を告げる声は思った以上に響かず、ひとりごとみたいだった。
 母はまだ仕事から帰ってきていないらしく、駿の靴だけが脱ぎ散らかされているのが目に入った。最近はテレビを使ってゲームをすることが多いからきっとそこにいるはずだ。なるべく足音を立てて帰宅を知らせるように廊下を歩いた。
 案の定駿はテレビの前に座っていた。居間の扉を開く音に反応して「おかえり〜」とこちらを振り返らずに言った。
よし、ここまではシミュレーション通りだ。
 一度駿を通り過ぎ、鞄を椅子の上に置いて冷凍庫を開ける。ガラッと音がして駿がこちらをちらっと見た。

「アイス?オレも!」
「母さんには内緒ね」

持ってきたアイスを渡しながらソファーに腰掛けた。弟は器用にアイスを咥えながら再びコントローラーを握った。

「土曜日空いてる?」

なるべくテレビから視線を動かさないようにして聞く。なんでもないことを口にしたといった感じに聞こえるように。

「え〜、たぶん?なんで」

 ちなみに彼が防衛任務に入っていないことは既に本部で確認済みである。それでも断られる可能性は十分にあるので心臓が痛いくらいになっていた。彼はゲームが忙しいらしくめんどくさそうに返事をする。それが私に対する嫌悪感なのではないかと勘繰って落ち込む。

「えっと、急に中華街行きたいな〜って思って!暇なら一緒に行こうよ〜!お昼奢ってあげるし!」

 ああ、我ながら必死すぎて引く……。そもそもA級の彼に奢るも何もないよね、私B級なんだから。
アイスを食べ終わってしまって手持ち無沙汰なまま持っていた棒をじっと見た。

「行く」
「だよね、お土産買ってくるねって、え?」

これは断れる流れかと思っていたので、返答を理解するのに時間がかかってしまった。

「いや別に一緒に行くのはいいんだけどさ、普通は友達と行くんじゃないの?……迅さんとか仲良いじゃん」
「え?迅?なんで迅?」

 お前友達いないの?と弟に言われる姉の気持ちを3行で答えよ。セリフの前半部分が衝撃的過ぎて突然出た迅の名前に上手く反応出来なかった。
迅なんかお願いしたって三門市から出る事なんかなさそうだけどな。彼は彼の正義に従ってしか動かないし。
いつも飄々とした迅が遠い所を見つめる真剣な横顔を思い出して、そうか駿は迅と一緒にいる方がいいんだなと思い当たった。

 私たちの平和が壊されたあの日、私と彼の二人の世界も壊れた。甘く優しかった時間は、私の両親の死とともに消えて私の淡い恋心も硬い箱の中に押し込められた。
 大好きだった年下の男の子は弟になったのだ。せめて彼を守れる人間で居たいと思ったのに、彼はあの日私たちを救ったヒーローに憧れた。
 彼のヒーローになるために剣を握ったのに、迅を追いかけて走る駿はあっという間に私を追い越しどんどん遠ざかっていく。駿にとって必要なかったとしても私はこの足が使い物にならなくなるまでついていきたい。
 そう思っているのに、そばにいたいのに。(たまに消えてしまいたくなる)

 ソファーにだらりと身体を預けて目を瞑る。最後に見えたのは、雨の降るゲームの世界で美しい龍が空へ登っていくところだった。




 画面の中の敵を返り討ちにしたところで、ちらりとソファーの隣を盗み見る。呼吸に合わせて小さく上下する胸に髪が散らばっている。静かになったなと思ったらどうやら姉ちゃんは寝てるらしい。
 なんて言うんだっけこういうの、と喉元まで出ている言葉を探す。隣にいることを許されているという優越感と反対に空気みたいな扱いに苛立ちが募る。
 無防備な姉の存在に(そうだ無防備だ)ざらざらとした感情が身体の中を舐めるように広がっていくのが気持ち悪い。こんな風に対処できない気持ちを持て余すなんてオレらしくないと思う。霧絵が姉ちゃんなったからって、オレの気持ちが変わったわけじゃないはずなんだけど。
 もともと霧絵は口うるさいし姉みたいなもんだった。年下扱いされるのはうっとおしい事もあったけど、嫌だと思った事はない。いつでも一緒に遊んでくれたし、何より優しかった。そもそもオレ達だけじゃなくて、山の中じゃみんな兄弟みたいなもんだし。

近界民が現れて迅さんに出会うまでは。

 あの日の事は忘れられない。近界民に襲われて逃げることも出来ない俺を抱きしめた傷だらけの細い腕も、汗の匂いと血の匂いが混じった霧絵香りも。
 霧絵は、血の繋がった家族を亡くしてオレの姉さんになった。
 その日を最後に霧絵が泣くのを見たことがない。からかうと割とすぐ泣いたくせにもう泣かない。少なくてもオレの前では泣かなくなった。
 あの日襲われてもう死んじゃうのかなと思った時、映画みたいなタイミングで迅さんが現れてオレたちを助けてくれた。姉さんの腕ごしに見た迅さんの後ろ姿はすごく格好よかった。その時は名前も知らなかったヒーロが「もう大丈夫だ」と声をかけてくれた時にこぼれた涙がオレが見た霧絵の最後の涙だ。
 そして喰いしばるように嗚咽を漏らした姿が、俺の最後に見た姉さんの泣き顔だった。
 あんな風に我慢して泣かなくていいように(その当時はわかってなかったけど)これ以上姉さんが何も失わないようにと思ってボーダーに入った。迅さんみたいに格好良くなりたかったから。
 でも逆に姉さんを遠く感じることが多くなった。姉さんはボーダーに居る時は人を遠ざけるようになった。最初はオレと兄弟だと言うのが嫌なのかと思ったけど違うらしい。オレは成長期なので姉さんにすぐ追いつくはずだったのに、向こうも成長期なので身長も力の差もひらいたままだ。それにどうしたって年齢の差は埋まらないし、年を重ねる度一年の重さが長くなっていく気がした。それで、同じ家に帰るのに変にギクシャクして、二人の間の会話が減った。
 幸いボーダーで戦う事は楽しいし強くなるのも面白い。隣にいたはずの霧絵が離れていって、間にたくさんの人が増えた。友達も先輩も大好きな人が増えて嬉しいはずなのにたまにその事に戸惑う。たくさんの人たちの中で、姉さんは家族で迅さんは特別だ。ああ、……迅さんが特別なのはきっと姉さんも。
 でも、それがどうしたというのだろう。もやもやと考え事に気を取られていたら、いつの間にか敵にやられていた。

「あ〜あ、つまんね」

 もとから何かを深く考えたりするのは好きじゃないし、ましてやこの胸に渦巻く感情がなんなのか見当もつかない。手に持っていたコントローラーを投げ出す。言葉にできない想いなんて置いておくスペースなんてない。
苛立ちを誤魔化すように咥えていたアイスの棒を噛みちぎった。