夕陽が沈んで、外灯が瞬いた。
学校を出る前に見た校庭は燃えるように茜色に染まっていたのに、もう闇がすぐ側まで忍び寄ってきていた。
なんだか嫌な予感がして家へと向かっていた足をくるりと半転させた。
一歩また一歩と進むうちにゆっくりとしたそれは早足になりしまいには駆け出していた。

見上げた空には、薄い氷のような月が出ている。

連日ニュースを騒がせている例の事件のせいで、まだ夜のはじまりだっているのに道路に人通りはない。
走ってきたおかげで学校はもうすぐそこだ。
運動不足の身体に酸素を運ぶため呼吸の音が大きくなっていく。
私の頭は私の身体に"早く学校へ戻れ"という命令を下す。
疑問も抗議も無視して動いていた足が、急にがくんと引っ張られるようにして止まった。
一瞬影が通り過ぎたように見えた。

「そこに誰かいるの?」

湧き上がった恐怖心を誤魔化すように声を出した。
返事はない。後ろを振り返ってもただ通学路がそこにあるだけだ。
良かった、気のせいだったとまた走り出そうと前を向いて、片手がないことに気がついた。

「え?」

間抜けな自分の声だけが聞こえた。
頭上にある街灯がジジと瞬いて足元に落ちた腕だったものを照らしている。
足元に落ちているものは本当に私に生えていたものだろうか?
肩口から噴き出す血液が顔と髪を濡らした。
生暖かいそれは重力に沿って惜しみなく降り注ぎ地面に水溜りを作っていく。
痛みはなかった。現実を受け入れられない脳が停止しているので私はただぼんやりと地面を見ていた。
視界の端で影が動いたので顔をあげると、足に衝撃が走った。
私は片腕で受け身を取ることも出来ずに顔面からアスファルトへと衝突する。
びちゃっと汚らしい音がして目の前が真っ赤に染まった。

不自由な身体で必死に見上げて、自分の目で最後に見たものは青い髪と深紅の瞳とこちらに向かってくる矛の先だった。












「おーい、嬢ちゃん大丈夫か?」

はっとして、顔をあげると赤い瞳がこちらを覗き込んでいた。
そうだ、クー・フーリンさんのメディカルチェックをしていたんだった。
ただ視線を合わせただけなのに、身体中に張り巡らされている血管が熱を持っている。
この感覚を知っているような気がする。いや、今は仕事中だ。考え事はやめよう。

「すみません、続きいいですか?」
「ん?オレは構わねーけど、顔色悪いぞ。」

心配してくれたのだろう伸ばされた手を私は反射的に払い落とした。
自分の思わぬ反応にびっくりして一度外した視線を再びあげた。

「あ、ごめんなさ

振り払った手が逆に掴まれていてぐっと詰まる距離に顔が熱くなった。
キュウと瞳孔が絞られた瞳がこちらを射抜く。
不快な思いをさせてしまっただろうか?
クー・フーリンさんとこうして対面するのははじめてだが、何も酷いことをされたわけじゃない。
むしろ気さくで明け透けな物言いは好ましいとさえ思う。
なのに、全身から溢れ出す嫌悪を止める術を私は持たなかった。

「あの、手を……」

濃い赤色の目が私の脳みそを見透かそうとした。
嫌だ、と思う。
死にたくない、と思う。
もう二度とあんな死に方はごめんだ、と思う。
なにかを訴えようとして開いた口が音を発する前に彼が手を離した。

「ふうん、オレじゃねーな」

悪りぃ痛かったか?と言われて、薄く赤くなった手首を隠すようにさする。

「大丈夫です。こちらこそすみませんでした」

手が離れた途端酸素が身体を回り始めた。
緊張して呼吸が止まっていたみたいだ。
だけど、いくらなんでも、私、変だ。
深呼吸をしてなんでもなかったかのように与えられた仕事の続きに戻る。
彼と私の間で交わされる形式通りの質問と応答。
そこに問題がなければ、チェック。
1から10までチェック、10から15までチェック、15から30までチェック。

ペーパーが朱色で染まって私の仕事は終わった。

「以上です。ご協力ありがとうございました」
「ん、もう終わりか。お勤めご苦労ーさん、どうだ?飯でも行くか?」

確かにお昼を食べるのには丁度いい時間だ。でも

「報告までやってからにします。また誘ってください」

一度落ち着いたとは言え、一人になってすこし考えたかった。
脳裏にチラつくノイズまみれの警告について。

「んじゃまー、お暇しますか」

腰掛けていた回転椅子から立ち上がる彼をドアまで送る。
背の高い彼に視線を合わせようと顔をあげる。
ぐっと近ずけられたせいで金属製のピアスが耳を掠めた。

「霧絵、オレは優しくするぜ?」

耳元で聞こえた低い掠れた声に脳髄がジンと痺れた。
その言葉を理解する前に、彼は背中を向けたまま片手をあげて扉の向こう側へと消えた。

その言葉の意味も、胸の動悸も、見なかったことにして、
私は痛む頭のために思考を手放した。