久しぶりに一人で玉狛へと向かう道のりを歩く。ゆったりとした川の流れを横目に歩いていると、あの日から何も変わっていないように感じる。私の家族がまだいた頃と。ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず、とはよく言ったものだ。私のうたかたは一度消えてしまったのだ。

 こんな気分になると、走りたいと思う。ずっと遠くまで、誰もいない場所まで。けっして振り返らずに。

「あれ?烏丸くん?」
「霧絵さんじゃないですか、今迅さんいないですよ」
玉狛支部の玄関へ手を伸ばす前に、扉から烏丸くんが出て来た。
「俺もこれからバイト行くところなんですけどね。中入ります?」
何故彼がここにいるのかと考えていたせいで、変な間が出来てしまった。怪訝な顔をする彼に、慌てて謝る。
「あ、ああ、そう言えば転属したんだよね。すっかり忘れてた。通りで本部で見ないわけだ」
「それ結構前の話っすよ」
「ごめんごめん。他に誰かいる?」
「みんな訓練室にいると思うんで、居間にいるのは陽太郎と雷神丸くらいですね」
「そっか、じゃあ勝手に冷蔵庫入れとくね。これお土産。みんなで食べて」
急いでるのに引き止めてごめんねと告げると、別に構わないですよと烏丸くんは言った。何だか大人になったなあと感慨深い気持ちで後輩を見送ってから久しぶりに玉狛にお邪魔する。
 リビングを通る時に陽太郎がわけわからん格好で寝ていたので、ちょっとびっくりした。どうやったらあんな逆立ちみたいな寝方になるのだろう?鳥丸が出て行く時にぐずったまま寝てしまったのだろうか。
 起こすのも可哀想かと思って声をかけずに、冷蔵庫を開けて肉まんやら小籠包やらをしまう。最後に来た時より物が増えて生活感のあるキッチンに、時間の経過を感じた。用事はそれだけだったのでそのまま帰っても良かったのだが、またあの長い道のりを歩いてかるのかと思うと億劫で、珈琲をいれて一服する。陽太郎は器用になるなぁとぼんやりしていたらレイジさんが奥の部屋から出てきた。
「お邪魔してます」
「久しぶりだな」
レイジさんの視線は陽太郎に釘付けだ。突然現れた女より奇抜な体勢の幼児の方が興味をそそるのは仕方がない。むにゃむにゃと寝言を喋る陽太郎を抱き起こすとレイジさんはダイニングテーブルの向かいに座った。
「迅は今日は戻ってこないと思うぞ」
「鳥丸にも聞きましたけど、私迅に用はないですよ」
「そうか」
「駿と中華街行ってきたのでお土産持って来たんです」
本当は駿が迅に直接渡したかったみたいですけど。と心の中でだけ付け足す。そんな些細な弟の要望を叶えてあげないなんて私は姉失格だ。
「悪いな、みんな喜ぶ」
「いえ、いつも駿がお世話になってます」
「後輩達にはいい刺激になってる」
「そっか、なんかうれしいな」
駿が褒められると嬉しい。思わずにやけるとレイジさんが真面目な表情でこちらを向く。
「霧絵」
「?」
口数は多くないが物事ははっきりさせるレイジさんが、珍しく言い淀んで口を噤んだ。そんなに言いにくい事があるのだろうか。レイジさんが私に戦闘の相談なんてしないだろうから、も、もしかして恋愛相談とか?!と勝手に妄想して遊ぶ。
「飯食っていくか」
「やった!ぜひ」
 何を口にしようとしていたのかはわからなかったが、レイジさんのご飯が食べられるなら疑問なんてそっちのけでいい。その後起きてきた陽太郎と遊んで(雷神丸のお腹を触らせてくれた)夕ご飯の手伝いをする。私の手伝いなんか不要なほどのレイジさんの手際の良さが怖い。その料理スキルがあればどんな人だって射止められますよと脳内で語りかけていると、訓練室からこれまた転属していた栞と初々しい可愛い子たちが出てきた。
 後輩が出来るのは嬉しい反面、時間がどんどん進んで置いていかれるような気持ちになる。
「あ」
駿と戦ってた白髪の男の子がいた。そうか、この子が玉狛の後輩か。目が合ったので、思わず声を出してしまったが、彼は不思議そうにこちらを見ている。
「お姉さん、おれの事知ってる人?」
「ううん、戦ってるとこ見たことあるだけ」
「ふーん、はじめまして」
「はじめまして、緑川霧絵です」
「緑川?」
「そう、その緑川」
挨拶をすると玉狛に新しく入ったさん人は、三雲くんと千佳ちゃんと遊真くんというらしい。しかも。なんと千佳ちゃんは射撃ブースをぶち抜いた子らしい。本部で噂を聞いた時はもっと二宮さんと太刀川さんを足した感じの人かと思ってたのに、こんなに小さくて可憐な子だったなんて!
「緑川さんは、」
「霧絵でいいよ。名字だと紛らわしいし……それに私も慣れてないの名字で呼ばれるの」
「あの失礼な質問だったらすみません。霧絵さんは脱兎さんなんですか?」
「え、ああ、修くんもそれ知ってるんだね。そうそれは私」
 栞とレイジさんが固まっている。別にそんなに気にする事じゃないのにと私は思う。戦うよりも、走ることに気を取られてしまう私に付けられた、侮蔑が込められた名称。でも最近はランク戦をする必要がなくなったので、もう知っている人はあまりいないと思っていたのだが、誰から聞いたのだろうか。
「どこに行こうとしているんですか?」
「え?」
「霧絵さんの行きたいところはどこなんですか?」
そう言った修くんの顔は真剣だった。





 私はどこかに行きたかったんだろうか。デザートまでご馳走になってから玉狛を出る。
 ゆっくり歩いて帰ったので家に着いたらリビングの電気が消えていた。みんな寝ているのかと物音を立てないように歩く。まあ、狙ってこの時間に帰って来たのだけれど。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出して2階に上がる。駿の部屋の前で少し止まってから自分の部屋の扉を開ける。部屋からもれる明かりがなかったので、彼ももう寝ているらしい。
 こうやっていれば駿と顔を合わせないように過ごすのはそんなに難しくない。それでも早くここを出なければ、と思った。
 机の上で、買ってもらった陶器のカップがつやつやと光っていた。