朝の冷えた空気を胸いっぱいに吸い込んだ。仄かに甘い香りが鼻腔に広がって、淡くも柔らかい陽射しが春が来たと告げている。地面に落ちる影でさえ浮き足立って、ロンドンの春は喜びに満ち溢れている。
 それなのに私はしっかりと着込んだコートの前を合わせて重い溜息をつく。長い冬が終わったのはうれしい、けれどそれで私が生まれ変わったりはしない。ずしりとのし掛かってくる鞄を抱えなおしてその場から動き出そうとしない足を叱咤した。急いで曲がった曲がり角に、名も知らぬ白い花が揺れていた。

 がやがやとした大きな通りを抜け時計塔の敷地に一歩踏み込むと、人影は喧騒と共にすっと消えた。この結界の内側が私のたったひとつの居場所である魔術師のため学校である。始まりにして最高の学府、時計塔。
 古い歴史のあるこの建物が好きだ。ロンドンは中心都市なのに中世の街並みが近代的な設備と共生しあっている。ここはたくさんの死が染み付いているから寂しくない。
私はどんな強い光も届かないあの深淵の暗闇に戻るのだけは嫌なのだ。嫌われても疎まれても、彼らの目に映らなくても。そうやって決意を新たにしてみてもやっぱり私が持っているのはその闇だけなのだ。ぶるりと震えた身体を抱き締めるようにして石畳の道を進んだ。

 ついに呪詛科の教室に拒絶された私は(派閥争い自体に興味を持たず研究を優先する中立派にまで見捨てられるなんて流石に笑えない)現代魔術の授業だけに出ている。大きなホール状の教室なのに扉は前方にしかない。ひっそりと気配を消しながら入り、後ろの方の席に荷物を下ろす。一番端っこまで行くと逆に目立つので、みんなと一緒にいると錯覚するような席が私の定位置だ。
 先生が教壇の上を歩きながら前回の復習から講義をはじめる。その黒い髪が歩くたび揺れるのを目で追う。大きな窓に木立の影が淡墨のように広がっていて、その木々の間を小鳥がツィーと羽ばたいていった。今日の先生は寝癖のついた先生だ。手帳に小さく丸をつける。先生の真っ直ぐな黒髪は大抵綺麗に梳いてあるのに、たまに寝癖がつきっ放しになっている日がある。特別な意味を持たないまま私は先生の髪に寝癖がついていた日には手帳にしるしをつけることにしている。もちろんどちらの日も先生の魔力は地についた安心する色をしているのだが。
 窓から差し込んでいた光が雲によって遮られる。ロンドンでも春は曇りが多い。日本の体の中から何かが湧き上がってくるような気持ちの悪さはないが、太陽と雨の恵みが命を与える様子はよく似ていた。だから春は嫌いだ。薄暗くなった室内で、誰かに見つかってこの授業にも出られなくなる時が諦めるべき時なのだとそう思った。





 ちゃんと自分を戒めたはずだったのに、その日はあっさりやってきた。繊細で美しい色の魔力を持っている子と獣のように強かな色をした魔力の子をじっと見つめてしまったのだ。二人が美しいなんて、いつもの事だったのに。キラキラしているものは眩しすぎるから見ないようにしていたのに。
そのせいで一対の瞳と目が合ってしまった。慌てて直ぐに逸らしたのだけれど、彼はそれに気がついたら看過するタイプじゃない。それでわざわざ辺境地(私の席)までやってきたのだ。その時先生がこちらを見ていたのはその温かな魔力の感触で知っていた。
「!!!!!!」
 声を掛けられてもじっと下を向いていたのに、痺れを切らした彼が私の頭を両手で掴んでぐっと上げた。それとはまた別の方向から声が聞こえたのでもう一人の彼もこちらに来ていたのかもしれない。
正面から見た彼の瞳の中には、輝く魔力の光がぱちぱちと爆ぜていた。昔家に居る時に見た、暗い井戸の中に落ちた星の光のように瞬くので、私は欲しくて欲しくて、それで手を伸ばしてしまった。その時もそれで失敗したと言うのにだ。
 私のおぞましい色の魔力が纏わり付いた指で、彼の組み立てた緻密でいまにも崩れそうな魔術式に触れる。天まで積み上げた塔は崩す時が一番愉しいのだ。うっとりとした気分で私は眼を瞑る。
「全員伏せろっ!!!!」
 先生が叱る時みたいな大声を出して、私は自分のした事をやっと理解する。器を失った魔力が目の前で膨張する。私の意識はそれよりも、いつも後ろから眺めていた灰色のフード女の子がこちらにそのきれいな瞳を向けていた事に気取られた。翠玉のように透き通った宝石みたいな虹彩。



「やってしまった」
 爆発が起きた教室にひとり佇む。私の座っていたあたりの机と椅子は炭となり、窓は風通しのよい出入り口になってしまった。私の頭が吹っ飛ばなかったのは残念だが、授業は中止になってこの教室は現在関係者以外立ち入り禁止となっている。魔力が爆発する寸前に新しい術式を組み込んだ彼とその結界を広げた彼は何か事前の打ち合わせでもしてたのだろうか。そう聞きたくなるような連携プレーだった。おかげで人的被害はゼロだった。その功績は事件を補って余りあると思ったのだが、先生に重要戦犯として私より先に連行されてしまった。ううん、人の世は世知辛い。もちろん私もお咎めなしとはならず、事情聴取と言う名のお説教の順番待ちだ。せめて掃除をと思っていたのだが、先生に何一つ触るなとのお達しがあったので黒焦げの教室で大人しく待っている。このまま何も出来ずに除籍されたら青子さんすっごい怒るだろうな。想像したら物凄く怖かったので、焦げ臭い教室で精一杯姿勢を正した。

カチ

 時計の針が約束の時間を指したので教室を出る。廊下を進むと木漏れ日の美しい中庭が見えた。ゆっくり大きく深呼吸をしていままで息を詰めていたのを知る。教室を出たのに焼けた臭いがして思わず自身の服を嗅ぐ。う〜、ついた臭いはしばらく取れそうにない。ふと廊下に、呪いみたいな汚れた色が点々とこぼれているのに気がついた。目で追っていくと、その汚れはドアの前でぴったりと途切れていた。
(中に続いているのかな)
 目的地であるそのドアを控えめにノックしたが返事はない。もう一度強めにノックをしたが結果は同じだった。場所を間違えているか、時間を間違えたか、先生が席を外しているのか。ドアノブに手をかけると物理的な鍵はかかってないようだった。
「?」
 私の悪い点は我慢が出来ない所。青子さんに教えてもらった知識があるのに、超えてはいけない線を超えないようにする事が出来ない。善悪も恐怖も理解する事ができるのに、手を出すのをやめられない。

カチカチ

 時計の針が約束の時間を五分過ぎた事を示す。私は目を瞑って深い深い井戸の底に湧く黒くて冷たいに足をつける感覚を思い出す。その静寂は怖くて愛おしくて妬ましくて、安寧を私にもたらす。ちゃんと魔術回路が開いて魔力が身体を巡るのがわかった。大丈夫、ゆっくり慎重にやれば壊さない。熱くなった目蓋を開けば、瞳がドアの裏側に描かれた魔術式を可視化する。
 誰か中に居る。鍵の掛かった魔術式の上に何か載っているのが見えた。パズルの様なそれに指を這わせくるりと円を描いた。新しく発現した術式に足元の水がどろりと濁った。
(これでは私を殺せない。だって圧倒的に死が足りない)
 つぷりと人差し指と中指を足元の術式に差し込む。術式は出鱈目に暴れ出して、本日2回目の爆発が身体を一番手短な壁まで吹っ飛ばした。背中を強く打ち付けたショックで息が吸えない。むせ返る呼吸を抑えつつ起き上がると、目の前に流れてくる赤が見えた。扉があっただろう境界線を越えて、流れを辿るとむき出しの赫。それは内臓と血液。かろうじて原型を保っている頭部がこちらを向いていた。赤黒いものを垂れ流しながら密やかな声で呪いを紡ぐ。
 命と引き換えにした呪いはすぐさま身体に馴染んだ。内臓がひっくり返されるような衝撃に、朝に詰め込んだサンドイッチを消化途中のまま床にぶちまけた。鼻から熱いものが垂れている。

 冷たいと思っていた死がその一瞬だけ燃える様に熱いのを初めて知った。それを知った私の身体は、歓喜に震えていた。