「大丈夫、ですか?」
 知らない声がして目を開けるとフードを被った美少女がこちらを見下ろしていた。ああ、近くで見ると本当に美しい。触れてみたいと思ったけれど、身体中が鈍く痛むので力を入れた瞬間に崩れ落ちた。すえた臭いと血の味がここと過去をあやふやなものへと変えていく。助けて助けて助けて。もう他の私はいないのに。
 逃げた闇の中で肉塊となったモノがこちらを見ている。肉と肉が重なり合ったところがモゾモゾと不快な動きをしている。やがてそれが口だとわかるとそれは何度も同じ言葉を繰り返しているようだった。
「オマエダケガイキノビルノハユルサナイ」
 これは私の言葉だ。再び胃の中身が逆流したものの、中身を出し切った内臓からはもうなにも出ず、えずく苦しさに涙が出るだけだった。
「師匠、」
 背中に温かいものを感じて、歪む視界の中に戻ってきた。気がつかなかったけれど、広くはないこの廊下に先生と他にも人が居た。
「ミス巫条、ここで何をしていた?」
先生の視線は冷たくて、多分怒っているのだと思った。隣には友禅のすごく立派な着物を着た女性が立っていたけれど、この人の視線はよく知ったものだったので安心した。色も似ているし、お父さんとお母さんみたい。
「    」
隠すつもりがなかったので(実際隠せるものでもないし)ここで見たものを説明しようとしたのに、声どころか掠れた空気の音さえも出なかった。喉を押さえて何度か試してみたけれど、息が苦しくなるだけで効果はなかった。先生は顔を顰めてから諦めたように後ろに目線を向けた。
「お前たちはなんでここにいるんだ」
金髪の男の子たちがパッと出てきてびっくりした。あの華やかな色に気がつかないでいたなんて。
「僕はル・シアン君が急に走り出したので、ついてきました!」
「その呼び方やめろって言ってるだろ!」
ビシッと敬礼を決めた男の子にもう一人が摑みかかる。背中に回された手に力がこもった。
「そしたら女の子が倒れてるし!ドアは跡形も無くなってたし!ついでに死体も見つけたので、先生を呼びました!ね!ル・シアン君!」
「……爆発音と一緒に巫条さんの匂いがしたので何かあったのだと思って駆けつけました」
匂いなんてしないはずなのになあと思って、そう言えば焦げた臭いがついてたんだったと思い出した。
「あっれー?先生、これ霧絵さんがやったみたいだよ?」
男の子が先生の背後にあるドアを覗き込む格好で大きな声を上げる。くるりと振り返った彼は今度はこちらを覗き込むようにしたのでびくりと肩が跳ねた。
「ねえ、」
彼の瞳を見ないようにしていたのに、視線は強引に合わされた。さっき見たばかりでもその万華鏡みたいな輝きにクラクラする。
「なんで殺しちゃったの?」
ぞっとするほど感情のない声に、なんでそんな事聞くのだろうと思った。もう死んじゃったのに。
「お前ふざけるのも大概にしろよ!」
 引き剥がされた彼はもう私に興味がなくなったのか、床に続く魔力の痕跡を眺めていた。確かに私が死んじゃった方が良かったもんなあと思った。でも人間らしくちゃんと死にたかったから。代わりに死んじゃった私のためにも。魔術なんて関係ない人間の肉体が停止する死を。
「いえ、その子の言っている事が正しいようですよ。大凡あなたを狙ったものでしょう?」
その人がにっこりと笑うと先生はそっぽを向いた。案外子供っぽいことをするんだ。
「でも随分見くびられた罠ですね。ふふ、生徒に殺されるなんて思っても見なかったんじゃないですか?自分が使い捨ての駒だとも知らずに……」
「……」
「流石に黙って殺される方ではなかったようですけど。それにしても古風な呪いですね」
「……」
先生がなにも言わないので、女の人の声だけが滔々と響く。
「可哀想に、殺人の重みも死者の思いも身代わりに受けてしまったのね」
 白くて傷ひとつない指がつ、と私の荒れたくちびるの線を撫ぜた。ちっとも可哀想とは思ってなさそうな声色だった。昔雛祭りで見たお人形さんみたいに綺麗で、全然両親には似てなかったなと思い直した。その指が離れた時先程とは別の恐怖に背筋が粟立った。
「師匠」
張り詰めた空気の中でもう一度少女が声を上げた。ずっとずっと寄り添っていてくれた人。
「ミス巫条はこちらで預かる」
先生が授業が始まると合図する時みたいに言った。
「それがよろしいでしょう。あちらの方は法政科で処理致しますわ」
睫毛に縁取られた漆黒の瞳がちらりと部屋の中を物色した。先生は言いたくなさそうに続ける。
「その前に少し中を調べたいんだが、」
「まあ、探偵ごっこですか?それなら是非私もご一緒したいです」
花が綻ぶように明るい声を出した彼女にげんなりした様子で先生は受け答えをした。

「グレイ」
先生が短く声を上げると、私の背中から温かいものが離れて、フードの少女は立ち上がった。彼女は先生について行くのだろう。真っ直ぐに前を見据える彼女の凜とした横顔を盗み見た。
「お前達は巫条を私の部屋に連れってくれ。くれぐれも結界を壊すなよ!そして部屋の中のものは塵一つ触るな!」
打って変わって先生がお説教のような指示を与える。
「はい!それは僕達に言ってますか?!それとも霧絵ちゃんですか?!」
「両方だ!ミス巫条は次に私の結界を壊したら授業を出禁にするからな」
「先生って結構心狭いですね!」
「お前は失礼だぞ!」
すかさず始まったいつものやりとりに笑いが込み上がったけれど、私の喉からはなんの音も出なかった。
「こういうって何て言うんだっけ?ローレライ??」
「それは歌で船乗りを惹きつけて、船を沈没させるんだ。人魚まで思い出してるんだから捻るな!どう考えても声が出ないのは人魚姫だろ」
間髪を入れずに続く応酬について行くのに必死で、差し出されたふたつの手を反射的に掴んでしまった。
二人に手を引かれ私は歩き出した。