もう戻ってこない日々を夢に見ることは、希望なのか絶望なのか。

はっきりとは思い出せないけれど気がついたことがある。
冬の夜に決定的な何かがあってその後の記憶は自分のものかどうかわからないということに。

あの夜に途切れた物語は千切れたまま記憶の海を揺蕩う。
私の肉体がこの世から消えても私はすぐには無くならない。
場所や人に記憶が残るから。

私は残像を生きている。






三日前、廊下で倒れていたのを藤丸君が助けてくれたらしい。
人通りの少ないエリアで、たまたま彼が通りかかったから良かったけれどそうじゃなければどうなっていたかわからなかった、とロマニ先生は言っていた。
仕事中そこを通ったような気がするものの、記憶が曖昧だ。
はっきりしているのは、カルデアの医務室で目を覚ました時に、自分が眠っていたという事だけだ。
ロマニ先生に簡単な診察と問診をして貰ったけれど、異常は特になかった。
質問される内容で私の過去と現在を疑われているのがわかったけれど、自分でも自分の事が分からない。
まともな返答が出来ない私にロマニ先生は優しく言った。

「霧絵ちゃんの事を信じるよ。うん、僕は君の事が信じていたいんだ」

優しくされる方が辛くて思わず、ロマニ先生は馬鹿ですと口にした。
ロマニ先生は藤丸君たちのお人好しが移ったのかな?なんて笑っていた。

どうかこの優しい人たちを裏切る事がありませんように。
頭が痛くなるくらい、祈った。












廊下を歩いていると話し声が聞こえたので、ふと声のする方を振り返った。
綺麗な女の人と話しているのはエミヤくんだ。
私の知っている彼とは見た目も声も話し方も違うのに、頭が認識するよりも先に身体が反応してしまう。
離れたところから見ているだけで、ドキドキして胸があったかくなる。

やっぱり好きだな、と思って、思ったことに勝手に恥ずかしくなって急いでその場から離れた。
勢いでそのまま目的地であった部屋に入るとすぐに朗々とした声が低く響いた。

「おやおや、可愛いお嬢さん。ようこそ”獰猛な虎が温和な鹿を爪で引き裂く”夢へ」
「シェイクスピアさん!びっくりさせないで下さい」

入ってすぐ手を取られたので、驚いて大きな声が出てしまった。

「ふむ、吾輩に会わない間に面白い事があったようですな」

この人はこちらが壁を作るより先に、距離を詰めるのが上手い。
今日も抵抗する前に顎を掬われ瞳の奥を覗き込まれる。

「な、んにもないですよ。面白い事なんて」

整った顔に見つめられると、会話の内容に関係なく顔に血が集まってしまう。

「さすが既婚者。ラブシーンもお手の物だな」
「あ、アンデルセンさん!助けてください」

白衣を引き摺りながら自室から出てきた彼は目の下にすごい隈を作っていた。

「ふん、劇作家殿曰く”楽しんでやる苦労は、苦痛を癒すもの”らしいぞ」

それを聞いたシェイクスピアさんは盛大に笑って手を離してくれた。
雑談を交えながら彼らのメディカルチェックを済ませる。

「そういやマスターが心配してましたぞ」

美しいカップにはいった紅茶に口をつけながらシェイクスピアさんが思い出したように言った。
おそらく三日前の事だろう。
藤丸くんにはあれから会えていない。

「小陸軍省殿に見つからなくて良かったな。どこを切断されていたか分からんからな」

聞きなれない言葉に返答が出来ない。

「ああ、ナイチンゲール殿ですな。彼女は病んでいる部分を見つけたら治るまで治療しますから」
「ええと、それはダメな事なんですか?」
「患部が完治させるために、殺されたいか?」
「いえ……」

ふと、立香ちゃんが手足に銃弾を受けた時に、危うく切断されそうになった。と言っていたのを思い出した。
今の話に関係あるのかは分からないけれど。

紅茶が飲み終わったところでお暇することにした。
報告書は自室でまとめることにしよう。


帰り際ドアが閉まる直前にシェイクスピアさんが呟いた。

「吾輩は”不幸を治す薬は希望より外にない”と思いますがね。」


振り返っても、無機質な扉は何も言わない。