先生の部屋でお手洗いを借りて手と顔を洗わせてもらった。それだけで随分と人間らしい気持ちになった。乾いた血液が冷たい水に巻き込まれて流れていった。鼻血がこびりついたままでみっともなく醜態を晒していた事に今更ながら羞恥心で頰が熱くなる。バシャバシャと大袈裟に冷たい水をもう一度かぶった。ポタポタと前髪から溢れる雫をポケットに入れていたハンカチで拭く。髪も灰まみれだったのか、濡れたところが黒く滲んだ。
 血の気の引いた顔色の悪い女が鏡に映っている。黒い髪黒い瞳。それなのに法制科と名乗った女性とは雲泥の差だ。栄養の足りてなさそうな髪を手櫛で梳いてみても大して効果はなかった。彼女が首を少し傾けながらあどけない表情で言った言葉が、水の張ったボウルの中に落ちて波紋状に広がる。
「故意ではなかったとは言え人を殺してしまったのですから、彼女はもう人間として死を迎える事は出来ませんね」
そんなのとっくの昔から、そうだったから今更言われたってどうしようもない。でも祖父に言われた事がはじめて役に立ちそうだった。「魔術師になるにはまず自分が人間だと思わない事だ」そうならば、人間じゃなくなったら魔術師なんだろう。良かった。私は向こうにいた時から魔術師だったんだ。
「水浴びそんなに楽しかった?」
お手洗いから戻ると開閉一番にそんな事を聞かれたので面食らう。
「違った?ほら笑ってるから」
にぃと両手の人差し指で自身の口の端を押さえた彼に倣って自分の唇に触れると、確かにそこは弧を描いていた。




 「死んだ男は学園関係者ではない。所持品からするに魔術師専門の殺し屋と言ったところか。雇い主は不明。回りくどい事にここ(時計塔)を狙った。狙いは俺だ。罠はドアに特定の魔術が流れた場合発動し、その場にいたもの殺傷するものだった」
「んん?!じゃあ、教授以外には発動しない筈だったんじゃないんですかーっ」
先生は部屋に戻ってきてから前置きもなしに言った。
「彼女の存在は想定外だったらしい。他の魔術師ならドアに気が付く事もなかったし、万が一触れても何も起こらなかっただろう。彼女は触れただけで、魔術式と周辺の物質を破壊した。そして、壊れた魔術式は逆に主人へと跳ね返っていき致命傷を負わせた。彼女の首へ刻まれたのは、奴の最後の足掻きだ」
アンティークの椅子に座っていたまだ少女と呼べる年代の娘が優雅に足を組んだ。
「ふうん。それじゃあ情け無くも生徒を身代わりにしてここにいるという訳だ?お義兄さまは?」
エルメロイ二世は視線だけ動かしてなぜコイツがここに居るんだ?と問いかけたが答えは誰からも返ってこなかった。
「……はあ」
正直法政科に仮など作りたくなかったが、仕方ない。どの道自分が持っているカードは少なく、諦めるほかないのだ。そして遅かれ早かれライネスにも話が行くとは思っていたが、早すぎはしないだろうか。まあ二十四時間監視されていても文句は言えない立場ではあるのだが。
 巫条霧絵は分かっているのかいないのか虚空を睨んでいる。時計塔では彼女を持て余しており呪詛科が匙を投げ出したあと現代魔術科にやって来た。何故癖のある生徒ばかり集まってくるんだここは。それだけでも胃が痛いと言うのに、彼女は俺の代わりに殺人を犯し俺を助けてしまった。そう、私の命の恩人になってしまったのだ。チッと思わず舌打ちが出る。これ以上無いってくらい負債を抱えているというのに、あまつさえこれを増やすと?そうなると彼女だって困るだろうに、ライネスは面白そうにこちらを見ている。全く何を考えているのかなんて一生知りたくない。
 恩など早々に返してしまうのが吉だ。時間が経てば何もしなくても勝手に大きくなる。そうなれば身動きが取れなくなるのは俺だ。
なにもかも諦めて座っている彼女の首に手を翳した。彼女は痛むのかびくりと身体を震わせあと眉間に皺を寄せた。
「師匠」
 グレイが不安そうな顔をしながら近づいてきた。それに頷いて返事を返す。心配した通り彼女の呪いは簡単には解けない。そしてゆっくりと時間をかけて彼女を殺す。そして私にはこの呪いを解く事が出来ない。良くて一緒に死ぬと言ったところか。一番手取り早い方法は彼女が自分で呪いを壊してしまう事だろう。今のままでは呪いに喰われてしまうだろうが、彼女が自分の力を使えるようになれば不可能ではない。自分の力を行使出来るようにするのが難しいところではあるのだが。何度目かわからないため息を吐く。
「ミス巫条残念ながら今の私ではこの呪いを解く事が出来ない。グレイ、暫く面倒を見てやってくれ」
「っ!はい」
明確な言葉は口にしなかったが、グレイは正確に意味を汲み取ってくれたようだった。ライネスがつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「はいはいはい、先生!もしかしてローレライちゃんも晴れてエルメロイ教室のトップ争いに参加という事でいいのでしょうか?!わおル・シアン君これは大ピンチだよ!つまりピンチはチャンス!」
珍しく静かにしていると思ったが、すぐにこれだ。騒ぎ出したフラットに負けじと声を張り上げる。
「スヴィン、こいつを今すぐ連れて帰ってくれ!」




「グレイと言います。巫条さん、師匠を助けてくれてありがとうございました」
 彼女が座っていたソファーの前に立ってお礼を言う。自分から話す事はまだ少し苦手だけれどどうしてもお礼が言いたかった。拙の大切な人を守ってくれたから。目深に被ったフードの隙間から様子を伺うと、彼女の顔色は先程より良くなっているようだった。なにも言わない彼女にそう言えば話せないのだったと思い出し慌てる。ええと、こんな時どうすればいいのだろう。
彼女はしばらく逡巡してから私の手を掬って手のひらを開かせる。細くて柔らかな指が皮の手袋の上を滑っていった。どうやら文字を書いているらしい。
「あ.り.が.と.う」
パッと顔を上げると彼女は目を伏せたまま小さく微笑んでいた。拙はなんだか胸が苦しくなってその小さな手をぎゅうと握りしめた。