目をつぶって大きく深呼吸をする。大きく吸い込んだ空気は先生の生活の匂いがした。あれから二日間かけて先生が調べてくれた結果によると皮膚に浮き出ている刻印が心臓に辿り着いたらおしまいだそうだ。刻印は私の命を吸って成長し、そのかわり私の身体は衰弱していく。刻印の成長を止めるには私の命を止めるしかなく、かと言って私がエネルギーに満ち溢れればそれだけ刻印も成長するという全て私の中で完結する簡単な作りになっている。だからこそ手出しのしようがない。解除しよう侵入したものも食べちゃうので、その分私の死期は早まる。放って置くのが一番な呪いだ。
 刻印自体は蔦のような植物と文字が組み合わさった紋様で、紫紺色じゃなければかわいいとさえ思う。そう言ったら先生曰く「なかなかに趣味が悪い」らしい。でも罪人には入墨を入れるものだし、道理に叶っていると思うのだが。
 先生の研究室は静かだ。生徒の声はおろか前の廊下を歩く足音すら聞こえない。あの日以来自分の寮には帰っていない。特に愛着があったわけではないが、下着くらいは取りに帰りたい。三日間一枚のぱんつを洗って着るのはちょっと無理がある。先生がそういった事に気が回らないのは想定内だが、あんなに一生懸命に調べてる途中に進言するのは躊躇われた。グレイさんも忙しいのか、研究室には現れない。仕方がないので、いまはぱんつが乾くのを待っている。
 窓から部屋の中に映り込む格子模様の影が形を変える。洗濯物は乾かないし、暇だ。先生にじっとしてろ勝手に物を触るなと再三言われているので、魔術の鍛錬でもするかと立ち上がった。変な日本語がプリントされているTシャツ一枚で足元がすうすうするけど仕方がない。そう言えば昨日の先生は面白かったな。「何故こんな初歩的な事を知らないんだ!いっぺん指導者をここへ連れてこい!」聞き取れたのはそこまでで、そのあとは早口の英語で何かまくし立てていた。なにを言っているかわからなかったので、余計に面白かったのだ。先生のアドバイスを思い出しながら一つ一つの魔術回路を開いていく。それに伴い昔の記憶が思い起こされそうだったので、頭の中にある巻物を適当に開いた。平家物語巻第五。うん、この話は結構好き。
「四の七十。物怪。都を福原へ遷されて後平家の人々も夢見も悪しう常は心騒ぎ飲みして変化の者共多かりけり ある夜入道の臥せ給ひたりける所に一間憚るほどの物の面出で来て覗き奉る」
闇の中で声帯を震わせないで語る。頭の中で平家琵琶ががろんと音を立てた。ちりちりと呪いが焼けるように痛む。刻印は視界に入らずともそこに存在する。ぐちゃぐちゃの肉塊になってしまった人が私にくれた者。私の代わりに死んでいった私もそうなってしまったんだろうか?
「入道相国ちつとも騒がずはつたと睨まれておはしければただ消えに消え失せぬ」
酸素が足りなくて踠いていると、よくよく見れば私が自分で自分の首を絞めていた。声が出たならば随分と楽しそうに笑い声を上げただろう。それが出来ないのでまた私は吐いた。身体から溢れ出た魔力が部屋を覆っていた結界を破壊する。
「岡の御所と申すは新しう造られたりければ然るべき大木なんども無かりけるにある夜大木の倒るる音して人ならば二三千人が声して虚空にどつと笑ふ音しけり いかさまにも天狗の所為といふ沙汰にて昼五十人夜百人の番衆を揃へ 蟇目の番 と名付けて蟇目を射させられけるに天狗のある方へ向いて射たると思しき時は音もせずまた無い方へ向いて射たる時はどつと笑ひなんどしけり」

「巫条さんっ?!し、師匠を呼んできます」
 どれくらいそうしていたのだろうか。結界が壊されたのに先生が気が付かない訳がないのでほんの数分だろう。部屋の惨状を目の当たりにしたグレイさんは顔を見せたと思うとすぐさま飛び出していった。
 酷い臭いにTシャツを摘むと真っ赤に染まっていた。なんて言って誤魔化そう。最初からこの色でしたよ、かな。


 新しく面倒を見る事になった生徒は、名前を霧絵巫条と言う。極東の山奥にある小さな村の出身だ。その小さな村では素質を持った子が生まれると、太夫(村では神職とされる)にするべく魔術師の家へ引き渡される。村には代々一族が住み山に囲まれたその土地は現代も人の出入りはない。根源へ到る道だけが求められている。そういう村だそうだ。
 念の為彼女の部屋へ向かうと扉に鍵はかかっていなかった。しかし警戒したような事はなにもなく、狭い室内があるだけだった。狙われたのが彼女ではないのだからなにもなくて当然なのだが、逆に荒らされていないことが自然に感じた。
 フランス式の女中部屋は一揃えの家具を詰め込むだけで精一杯のはずなのに、どういった訳が伽藍としていた。彼女は本当にここで生活していたのだろうか?美しい漆塗りの椀がひとつ、陶器の鍋がひとつ、木製のレードルとスプーンがひとつずつ。それに箸が一膳。本の類はなし。あとは薄っぺらいタオルが干してあるのが見える。それだけ。プラスチックのミネラルウォーターの空のボトルだけが生活感と呼べそうなものだった。彼女を元の生活に戻すべきか否か。判断を先送りにして時計塔へと戻ると、駆けてくるグレイに出会った。そのただならぬ気配に彼女の後をついて行くと、見るも無残な状態になった部屋に行きついた。
「鉄格子にでもいれておくんだったな」
 見た所生死に別状のない彼女の世話はひとまずグレイに任せて、痛む頭のためにシガレットに火をつけた。