朝日が差し込んで部屋が明るくなる。ロンドンの春は日が長い。いつまでもぼんやりと明るくてとても不思議だ。森の入り口はあちらこちらにあるのに、あの濃い生気を纏った山がない。それだけでなんだか息がしやすかった。いつでも山の方が強くて圧倒されていた日々とは大違いだ。あの庵に窓なんてものはついてなかったけれど、それだからこそ山と一体だった。あんなに怖くて嫌だったのに少しでも懐かしみを感じている自分が可笑しかった。
 先生はまだ起きる時間ではないからと、グレイさんが朝早くやって来た。掃除をする彼女を見ているだけなのは申し訳ないので、邪魔にならないようにお手伝いをする。彼女の魂と入れ物の複雑に絡み合っているのを見つめていたら、大きな櫛を持ってやって来た。
「ええと、その後ろを向いてくれませんか?」
言われた通りにくるりと半回転すると、優しく櫛が当てられた。そんなことされたことも無いのに口から「お母さん」とこぼれてしまいそうで、その衝動を我慢するのが大変だった。上から下にブラシが何度もおりていく。毛繕いってこんな感じなのかも知れない。優しくて温かくて安心する。どう考えても初めての感覚なのに奇妙な懐かしさを感じた。
 もう少しで寝そう、と思っていたら複数の足音と共に扉が大きな音を立てて開いた。
「先生!キスで呪いが解けると思いませんか!?」
 グレイさんの手は空中で停止し、私は微睡みの泉から急に引っ張り上げられてぼんやりと扉を見返した。扉の向こうから差す光に金色の髪が透ける。ブロンドの髪は朝日に翳すと銀色に見えるんだと知った。
「お前ッ、待てって言ってるだろ!?」
ぐいっと襟首を掴んだ少年も一緒になって部屋に入ってくる。挨拶をしようにも声が出ないしどうしようと思っていると肩にぎゅうとグレイさんの手が載せられた。どうやら私の背中に隠れているらしい。
「鱗とか出てきた?」
ペロリと袖をまくられたけれど、特にいつもと変わらない自分の腕が見えたので首を横に振った。
「〜〜ッ!人魚姫は人間の足と声を交換しただけだろ、あれは呪いじゃなくて取引だ」
言われてみれば確かにそうだ。結末がどうあれ彼女は納得して取引を行ったのだ。ハンス・クリスチャン・アンデルセンと言う人はなんて律儀な人なんだ。人魚姫がウィリアム・シェイクスピアさえ読んでいれば愛する彼の胸の肉一ポンドを担保にする事もできただろうに。
「あれ?じゃあ、霧絵ちゃん先生と結婚しないと泡になるの?」
「だからそもそも彼女の呪いと童話は無関係だって」
「そうなの?じゃあ、僕先生をちょっと刺してくるよ!」
「お前は一回ちゃんと話を聞け!!」
その戯れあいは、やっと現れた先生がお叱り(物理)をくわえて終幕となった。。私は口を動かさずに言った。
「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」

 彼女の身長は世界の女性の平均身長といったところで、別に子供みたいに小さいわけでは無いのに今にも崩れそうなほど脆く見える。グレイたんだって華奢な女の子ではあるのだがなにかが根本的に違う。二人とも静かで暗くてほんのちょっぴり甘い香りがする。グレイたんの香りは嗅いだだけで興奮して我を忘れちゃったりするけど、彼女の匂いは頭の隅の方がスッと冷えるのだ。それで警告する。取り返しがつかなくなる前に離れるんだと。それなのにいつまでも嗅いでいたいと思う。目を背けたいほど嫌なのに目に焼き付いたそれを何度も目蓋の裏で確認するようなそんな気持ちだ。
 先生の講義を思い出す。「そもそも生物とは本来死んでいるものであり、その状態に抵抗し、無数の奇跡の上に成り立って存在しているものである。そして生物が常に死に向かっているように世界もまた崩壊へと向かっている」世界が美しいのはそれが存在することが奇跡だから。死に惹かれるのは、皆原初に還りたいから。グレイたんが美しいのは彼女が生きているから。霧絵に惹かれるのは彼女が———。ガコンとなにかが床に落ちた音がした。それを目で確認しようとしたら彼女の真っ黒な目がこちらを覗いているのに気がついた。



 問題児たちを前にしてため息を吐くのは何度目だろうか。欲しかったものは何も手に入らず、望んでいなかったものたちで身動きが取れない。黒髮の少女年齢相応の体躯とそれに見合わない深い瞳を持っている。呪いに喰われても平然としているのは無知故なのか、全てを知った上で諦めているのか。
 イゼルマで会った魔法使いであれば、と過ぎった思考を振り払う。己の才能の無さをいくら嘆いたとて他人の力は手に入らない。
 それでも、理想を語る資格があるのなら。自身が生かされた様に彼女らを生かす側になりたい。そう願わずにはいられない。