一日一日が過ぎて行く時の切なさは一体なにに対しての感傷なんだろう。春の陽気は透明で悲しむことなんて何もない。呪いなんて新たにかけなくても呪われていたんだから。ぱらぱらと小雨が降って桜の花弁をうつ。日本にあるものと種類は違うのだけれど、ここでも春に桜が咲く。桜流しが私に春を忘れることを許さない。
 先生から授業に出るようにとの指示があったので教室に入ると一番前の席に座っていた手招きをされた。フラットさんの隣にはスヴィンさんが座っていて同じ列の端っこに彼女がいた。出来ればグレイさんの隣に座りたかったけれどそうもいくまい。朝の挨拶のかわりに頷いて返事を返した。たくさん席が余っているようなのでひとつ空席を空けて座ると背後を振り返る。じっと注がれる視線を感じたのだが、誰とも目があうことはなかった。まばらに広がる人の頭を視線でつないでからため息をついて前を向いた。カシャンと音がして眼鏡を掛けた男の子が落としたペンを拾った。
「どうかした?」
 隣でこちらを見るフラットさんになんでも無いと首を振りながらいつの間に隣に移動したんだろうと驚く。さっきまで左右は空席だったのにフラットさんとスヴィンさんに挟まれていた。ガラスが貼り直された教室の窓から光がさしていて濃いブロンドの髪が透けるように光っている。息が苦しい。首を掻き毟りたい衝動に駆られて手を伸ばすと、教室に入ってきた先生にじろりと睨まれたので手を膝の上に戻した。そしてまた誰かに見られている。私は手を強く握りしめた。
「どの文明、どの文化においても普遍的に人がモノを視ること及びモノを視ていることには力があるとされている。この力が人並み以上外れて強い目について人々は魔眼呼んだ」
 先生の低い声が鼓膜を震わせる。魔眼の歴史を通って魔眼の概要へと移る。魔術師に付属した器官でありながら、それ自体が独立した魔術回路で血筋に関係なく適応できる特殊な魔術刻印に近いもの。人工的な魔眼では魅惑や暗示までが限度である。先生が魔眼殺しの話をしたところで授業終了の鐘が鳴った。ガタガタと音を立てて生徒たちが教室を出ていく。視線はもうない。先生とグレイさんもどこかへ言ってしまったようだ。私物を纏めて立つと、二人がこっちを見ていた。
「霧絵ちゃんもご飯食べに行くでしょ?ル・シアンくんが見つけたパブ結構美味しいんだよ!さっすがル・シアンくん!」
どうしたらいいのかわからなくて足元を見ていると二つの影が重なった。
「誰かと約束してるのか」
スヴィンさんの質問に首を横に振る。それをどう解釈したのか、ああと言葉を繋ぐ。
「金の事は心配しなくていい、こいつの奢りだ」
「えー?いいよ!!」
それじゃあ決まりだねと手を引かれるようにして教室をでた。
 ロンドン市街は大勢の人で賑わっていて、下を向いて歩くと行き交う人にぶつかってしまいそうになる。跳ねるように歩くフラットさんの髪を小走りで追いかける。人が多すぎて怖い。こんなにたくさんの人が死なずに生きているなんて未だに慣れない。だってそんなのおかしいじゃない。
 角を曲がると天麩羅の匂いがした。ガラス張りのお店の中は暗くてよく見えない。フラットさんは慣れた動作で店内に入っていった。繁盛しているお店らしく中にもたくさんの人がいた。がやがやとする店内を見回すと奥の小さいテーブルが空いていた。フラットくんのシャツを引っ張って指をさすと彼は頷いてから注文してくるから霧絵さんは座ってて、と言ってスヴィンくんを引っ張ってカウンターの方へ行ってしまった。
 人波から離れると眩暈は治った。照明が暗いせいか他人の顔が見えないのが良かった。背の高い椅子は革張りで触るとひんやりとしていた。足元の石畳は擦り減って滑らかだ。目の前を幾人もの靴が過ぎ去っていく。ここもやがて、静かになるのだ。生者はもとより、神も死者もみんな呑み込まれて眠るのだろう。
「旧き都来て見れば浅茅が原とぞ荒れにける 月の光は隈なくて秋風のみぞ身には沁む」
 ふと思い出した歌を口ずさんでみて、あまり繋がりのないことがただおかしかった。