「巫条さんはもう戦わないの?」

声は優しく私の耳を震わせた。
なのに、一瞬呼吸が止まって胸がどきりとした。

何もかも見透かされているのかと思ったのだ。


     ◇


本部職員の執務室やエンジニアチームの部屋に資料を届けたあとの帰り道、東くんが二宮くんと加古ちゃんと話しているところに通りかかった。何だか立て込んでいるように見えたので挨拶だけして通り過ぎようとしたら、東くんからあの台詞を言われた訳だ。

東くんとはボーダーに入隊した時期と年齢が近かった事で、ちょこちょこ話をしていた。
当時から東くんはその知識の深さや判断力を惜しみなく発揮し、ボーダーを引っ張っていく存在だった。
決して目立とうとするタイプでは無かったのだけれど、彼はいつもみんなの視線の先にいた。
それでも強さをひけらかす事なく誰にでも優しくしてくれた。
話をする程度の私にまで、昏睡してしまった時に気に掛けてくれていたくらいだ。
無事に目覚めてからも、気遣ってくれているのを感じる。

だから余計に、優しいけれど挑戦的な台詞に
水を浴びせられたような気持ちになってしまったのだ。

「ずっと昔、私の中には何かがあった。でもそれは消えてしまった。それはどこかに消え去った。そこかに失われてしまった。私には泣くことができない。思いを寄せることもできない。それはもう二度と再び戻ってこないものなのだ。


…なんちゃって」


しん、と重たくなってしまった空気を変えようとなるべく巫山戯て見えるように明るく付け足す。
急に語り出した先輩(入隊順と戸籍上の年齢だけで言えば)に後輩二人もドン引きである。
東くんが急に変なことを言うから失敗した。そう、全部東くんのせい何だから!

「鬼怒田さんにも戦闘禁止されてないだろ?それに霧絵はジュディーじゃないよ」

東くんが空気を無視して話を続けた。

こちらに笑いかける彼とは裏腹に私は
昔みたいに名前で呼ばれた事と、頭に乗せられた温かい大きな手の感触のせいで、
今まで見たくないからと言って胸の奥にぎゅうぎゅうと押し込んでいたものが溢れそうになった。

絶対戦略だ。わかってて感情を揺さぶってきてるんだ。東くんの意地悪。
あと、普通に引用先がバレていて恥ずかしい。格好つけるんじゃなかった。
うまく笑えたかはわからないが、涙が溢れるのだけは阻止した。
後輩の前ではちゃん先輩としていたいから。

「東くんのばか。こんな風にするなんてずるい」

「はは、悪いな。俺性格悪いんだ」

「もう、でもちょっと考えてみる」

「霧絵ちゃんて戦闘員だったの?」

加古ちゃんが驚いたようにこっちを見ている。
そう言えば私が一方的に知ってるだけで、加古ちゃんは当時の私の事は知らないんだった。

「実はそうなんだけど、当時からそんなに強くはなかったよ」
「そうなの。ずっと本部の職員なのかと思っていたわ」
「あー、加古ちゃんたちが入ってからちょっと色々あって」
「ふうん、秘密にしておくなんていい度胸じゃないの。今度飲みに行くわよ」
「わー、お手柔らかにお願いします…!」

加古ちゃんにはあとでシフトを連絡すると伝えてその場を後にする。
東くんはずっとにこにこしてたけど、二宮くんはずっと引いてたなあ…。
何かで挽回出来ると良いんだけど、二宮くん完璧っぽいしな。
今後のシュミレートをしながら、仕事に戻るため自分の席のパソコンにログインした。


     ◇


「東さんって霧絵ちゃんと付き合ってるの?」

彼女の後ろ姿が見えなくなった頃、加古が脈絡もなく言い出した。
東さんに対してあまりにも不躾な質問をするので眉があがってしまう。

「どうしてそう思う?」

対して東さんはポーカーフェイスのままだ。ランク戦の解説をしている時のような雰囲気さえある。

「私たちの前であんなにかましてくれればそう思うわ。でも、太刀川くんに食べられちゃうより東さんに幸せにしてもらった方が私も安心。でも諏訪くんも頑張ってるから応援したくなっちゃうのよねー」

「あいつは人気者だなあ」

東さんは何故か嬉しそうに言う。

「霧絵ちゃんっていつもにこにこしてるのに、時々壊れちゃいそうな雰囲気がして守りたくなる感じなのよね。二宮くんもそう思うでしょ?」

「…」

急にこちらに話が振られたので、思わず眉を顰めた。
彼女とは業務上の会話しかしたことがないので全く言っている意味がわからない。

「はあ、二宮くんって恋愛下手そうね」

「余計なお世話だ」

ちっと舌打ちをする。
こいつに関わると碌でもない結果が待っている。

「それでは東さんお先に失礼します」

これ以上絡まれる前に、と作戦室へ足早に戻った。




「二宮さん早かったですねー」
「犬飼か」

隊室に戻ると犬飼と辻だけでまだ氷見はまだきていなかった。

「巫条霧絵って知っているか」

「霧絵さん?どうかしたんですか??」

「いや、そこですれ違っただけだ」

「うーん、霧絵さんはガードゆるいんですけど、肝心のところが堅いって言うかにぶいって言うか…。たまに見ててイライラするんですよねー。いつも偽善者面してヘラヘラ笑ってるし。あ、カゲが霧絵さんの名前出すとブチ切れるので面白いですよ」

「…ほどほどにしておけよ」

「はーい。辻ちゃんも霧絵さん好きでしょ?」

「いえ、特には」

顔を真っ赤にしているが声は素っ気ない。
辻は女性が苦手なのは知っているが話題に出すだけでもこれでは困るなと思っているところで、氷見が部屋に入ってきた。

「次のランク戦についての作戦会議をはじめる」

引き締まった空気の中氷見が相手の直近のデータを読み上げていく。
その様子を見ながら、なんとなく先ほどのラウンジでのやり取りを思い出した。

彼女は、泣きそうな顔でくしゃっと笑っていた。