朝晩の空気が冷たくなって、透きとおるようになった。
夏の間は生気が湿度と混ざりあって空気の密度を濃くしていたけれど、
秋になって乾いた風が木々の間をさらりと通り過ぎていく。

 朝起きるのは得意ではないけれど、電車の中で座りたいのでちょっと早い電車で学校に行く。
窓際の席に座って外をぼうっと眺めているうちに、クラスメイトが次々と教室に入ってくる。
交わされる挨拶のざわめきを後頭部で感じながら、まだ青い木立が揺れるのを見ていた。

 ガタン、と音がして隣の席に烏丸くんが座った。おはようと声をかけて鞄から手帳を取り出す。
ごほんと軽く咳払いをして用意してた台詞を声に出す。

「いつも応援しています。サイン下さい」

烏丸くんは無表情にびっくりした後(多分驚いていた)手帳の空いている適当なページに文字を書いてくれる。
返してもらった手帳を見るといつもの烏丸くんの字でテストに書くみたいに名前が書いている。

「なんかサインって言うか、普通に署名だね。烏丸くんって硬派が売りなの?」

応援ありがとう。と烏丸くんが言った。なんだかお互いぎこちなくてサイン会の練習みたいになっている。
烏丸くんって格好いいのになんか変なんだよね。
返してもらった手帳の代わりに生徒手帳を差し出される。

「え?私も書けって??いらなくない???」

予想してなかった出来事に戸惑うが、生徒手帳を受け取って後ろの方のメモのページに自分の名前を書く。
罫線がなかったので、ちょっと斜めになってしまった。
自分の名前も字もそんなに好きじゃないけど、ボールペンで書いてしまったので仕方なくそのまま返す。

「いつも見てます」
「ありがとう…?」

先程とは逆のやり取りをする。全く意味はわからない。まあいいけど。
ちらりと教壇の上にある時計を見るとまだHRが始まるまでには時間がある。

「そう言えば昨日のバイト中に、烏丸くんに会いにすごい美人が来てたよ。お嬢様学校の制服着ててこれくらいのロングヘアーの」

昨日の記憶を辿りながらジェスチャー付きで伝える。ただのファンって感じではなさそうだったけど。ひとりで来てたし。
烏丸くんは少し考えてからぽつりと言った。

「それ、多分同じ支部の人だと思う」
「え?事務所が同じってこと??やっぱりあの可愛さはモデルさんなんだ、今度来たらサイン貰おうかな」

別にサインを集めたいわけじゃないんだけど、せっかく有名人が近くにいるのにもったいないと思ってしまう。
自慢する友達もいないんだけど。

「あ、それより今日からおでんも始まるし、おにぎり100円セールもあるよ!頑張ろうね」

ぐっと拳に力を入れたところで、担任が入ってきた。
大人しく前を向く。学校は嫌いじゃないけど、好きでもない。
あーあ、早くバイト行きたいなあ。楽しいことがあるわけじゃないけど。

頬杖をついて点呼を待った。











 隣の席に座っている巫条霧絵はボーダーについての理解が間違っている。
間違っている、というか忘れてしまっている。
去年彼女は年上だった。今年は同級生になっている。
一年間の知識が脳のどこかに沈んでしまって、ついでにボーダーとか近界民の知識も記憶の引き出しから溢れてしまったらしい。らしいと言うのはそう言う噂はあるけれど、彼女が特になにも言わないから正しい事はわからない。
面白いので訂正していないが、俺の事をモデル?芸能人?だと思っている。
遅刻や早退が多いのを仕事があると言ったらそう解釈されてしまったのだ。

 今日は登校してすぐにサインをせがまれた。
彼女のスケジュール帳は女の子らしいデザインで普段シンプルなものばっかり持っている彼女らしくないなと思ったが、百均で買ったんだけど結構かわいいでしょう?との事だった。
その辺の事はあまりわからないので、頷くだけにしておいた。

彼女の持ち物に自分の名前が書いてあるのがなんとなくこそばゆいような、嬉しいような気持ちになったので、自分も書いてもらうことにした。
彼女を見ているのは事実だ。なんとなく目が離せなくて、気がつくと目で追っている。
玉狛支部の女性たちとも違うし、クラスメイト女子たちとも雰囲気がなんか違う。

大抵ひとりでいるし、それでいて浮いていない。
元々こっちの人間じゃないからか、親しい人はいないようだ。
隣の席になったので時々喋るけど、年上とか記憶がないと言う事を特別視している雰囲気はない。
無理してる風もないし、ありていに言えばよくわからない。
元からつかみどころのない性格だったように思う。

彼女は一年間をどこかに落としてしまった。
けれどそれを探す風でもなく最初からこうだったかのように過ごしている。
俺は、彼女とクラスメイトとして過ごす。
そしてアルバイトの同僚として過ごす。
しかしボーダーで過ごした日々は彼女の中からは消えてしまった。

一年前に、仄かに胸の奥で煌めいた光を持て余している。