おかしな夏だった。
最高気温は次々と更新されて、ぬるりとした空気が肌に纏わりついて離れない。
いつ気が狂ってもおかしくないような、そんな日が続いていた。
雑居ビルの間にある路地には蜃気楼が揺らめいている。
人々は屋内に避難していて、音が消えた街は水槽のようだった。

目が眩むほどの太陽を一瞥し、私は足早にアスファルトが照り返す道を後にした。








えんえんと続くなだらかな丘。
目立った建造物が見当たらなくて、現在が何世紀なのかわからなくなりそうだ。

「はあ。こーんな長閑な田園風景、見にきたわけじゃないんだけどなあ。」

任務さえ有ればどこにでも、神様のいない国へだって、行くのだけれど。
ついついため息が漏れてしまう。
もちろんただのバカンスならば問題はない。
とゆーか、夏休みだったら大歓迎なのに。

任務のために青い空が広がる夏のイギリスにきているのであった、まる。
 
 イギリスのデヴォン州に属する孤島に、吸血鬼が暮らしているらしい。
そんな眉唾な密告書が聖堂協会にもたらされ、巡り巡って下っ端の自分のところまで仕事が降りてきた。
ガサガサとした羊皮紙の書面を鞄から取り出して眺める。
くすんだ茶色にブルーブラックのインクで書かれたそれは古い詩を文字って書かれている。


親愛なる同志へ

憂は、去れ!ーああ、されど、死すべき人間ならば、
生ある限り、憂は去らず。
避け難きものとあらば、来たれ、血の憂よ、
他の憂を追いて、汝人ならざる者に胸を領される!
それはデヴォンの孤島に身を隠しけり。
Ulick Norman Owen


文面も勿論のこと、署名も巫山戯ているとしか思えない。
しかし、いくら信憑性が薄くともこんな極東在住の自分にお鉢が回ってくるあたり、皆々様は相当お忙しいらしい。
これは嫌味ではない。
こんな自分に代行者としての仕事が振られるのであれば、神に感謝しなければならない。
いくら熱心に祈りを捧げる私だとして、それだけで代行者の任につけるとは思っていない。
そして自分の価値は自分が一番わかっている。

私は無能だ。
それもあらゆる点で、しかも完璧に。
この言葉を残したカフカだってびっくりの役に立たなさである。

生まれてから今まで愚鈍な私はその愚鈍さ故に生き残ってしまった。
もう少し正常な判断が出来るような知能が知識が感情があればー
生きていくのは難しかっただろう。
神は人間を不完全にお造りになられた。それは生きるためだと、私は思う。

いつだって瞼を閉じれば思い出せる。
目の前の大きな肉塊を必死になって切ろうとして、手の中の真っ赤に熟れた包丁を握り直した。
私はそこでようやく気がついたのだ。
自身の全身が血で真っ赤に染まっている事に。
その時私は目から真紅の涙を流しながら、唇は弧を描いていた。
表情(それ)がどんな感情から発せられたものなのか、いまだに分からないけれど。


その時、何度個か分からない駅に停車した列車のドアが開いて、
私以外の乗客が乗り込んできた。







「教授早くしないと、列車に乗り遅れますよ〜!!」

前を走るフラットがこちらを振り返って叫ぶ。
シット。貼りついたシャツにきっちりと着込んだスーツが煩わしい。
思わず出た舌打ちに、一歩下がって走る弟子がこちらを見上げる。
「急ぐぞ、グレイ。」
彼女はいつものようにすっぽりとフードを被っているが、表情は涼しげだ。
眩しげに目を細めた後、真っ直ぐと前を見据えた。
青い木々の合間から太陽の光が降り注ぐ。東洋では木漏れ日、と言うらしい。
そう、曇天のロンドンに短い夏が来た。

ガタン。

飛び乗るようにしてすべりこんだ車内は、がらんとしていた。
一応買った切符の座席を探し当てたが、この調子だとほぼ貸し切り状態で目的地まで行けるだろう。
これならば多少(問題児たちが)うるさくしても問題ないだろう。

ジャケットの上着を脱いで、座席に深く腰掛ける。
思わずついたため息が午後のゆっくりとした煌めきに吸い込まれて行く。
今後一切彼女には貸しを作るまい、と何度目になるか分からない決意を固めた。

「何もなければ休暇を楽しんでもらうだけです。ね、問題ないでしょう、探偵さん?」

艶やかな黒髮が簾のようにかかっていて横顔からは感情が読み取れない。
しかしその漆黒の瞳に悦びが含まれている事は確認するまでもない。

彼女はこちらに向き直って首をほんの少し傾けた。
少女のような動作がその童顔をより際立たせる。
浅葱色の着物の袖から出した指先で眼鏡の、いや魔眼殺しの蔓をそっと抑える。

「勿論、あの愛らしいお弟子さんも連れて行って貰って構いません。それこそ必要ならば何人でも。
引く受けてくださいますでしょう?」

まつげに縁取られた瞳と視線が交わる。じりじりと何かが焼ける音がした。
様々なものを天秤にかけてみたが、自分の命より重いものは、ない。
唸り声のような返事をして彼女を部屋から追い払った。






「何が何もなければだ!あるから行かねばならんのだろう?!クソッ。」
「し、師匠…。」
「どうしたんだ我が兄上は。いつもに増して随分と楽しそうな事になっているな、グレイ?」
「ええと、拙が来た時にはもうこんな感じで…。」

悪態をついていた男はぐるぐると部屋を歩き回っていた足を止め、可憐な姿に似つかわしくない主たる風格で腰掛ける少女に話しかけた。

「明日から出かける。いつ戻るかは分からん。が数日で戻ってこられるだろう。グレイ、デヴォン行きの列車のチケットを取ってくれ。」
「は、はい。師匠の分だけでいいんでしょうか。」
「いや、2…5人分頼む。」
「おやおや、ワーカーホリックの君がまさかのバカンスかな?」
「仕事だ。わかってて聞くな。それと」
「わかっているとも、留守は任せてくれ。グレイ、とびっきりの土産を頼むぞ。」

ライネスはグレイに含みのある笑顔を向けて部屋を出て行った。
これは相応の見返りを要求されるな、と痛むこめかみをさすった。
しかし借りは返さなければならない。相手が相手ならば、早急に過不足なく。

「急で悪いが、…ついてきてくれるか?」

今回の予定を簡単に話すと、グレイは準備のために慌ただしく動き出す。
一人で解決できる力もないが、巻き込んだ生徒たちを守りきる力もない。
自身の能力の限界が恨めしい。必然と頼む声に苦渋が滲む。

部屋を出る前にグレイがこちらに背を向けたまま立ち止まった。

「拙は、いえ拙たちは師匠の力に慣れることを誇らしく思います。」


ガタン。


列車は目的地まで乗客を運ぶ。
そこまで夏が来ていた。