他人の感情が突き刺さる。
言葉の善意も全て悪意に包まれて。
毒に侵されてから現れる優しさの棘は一度刺さるとなかなか抜けない。





人間が大勢居る所は好きじゃねえ。
その感情が自分に向けれれてようが、そうじゃなかろうが不愉快な刺激には変わりない。
がやがやとしたラウンジの端で椅子にもたれながらぼんやりとする。
手に持った缶のジュースがぬるくなって不味くなるほどには時間が経っていた。
そろそろ人が増えてくる、そうなる前に帰るなり隊室に行くなりした方がいい。
売られた喧嘩を無視できるほど大人にはなっていないのは分かっている。

「ウゼー」

チクチクと後頭部に刺さる悪意。
せめて戦った相手ならば理解出来るのに、どうせ顔を見ても知らない奴だ。
くだらねえ。
一二発殴って黙らせよう。

「痛っ」

勢いをつけて立ち上がる時に何かにぶつかった。

「アァ?」
「影浦くん急に立ち上がったら危ないよ!折角だーれだってやろうと思ったのに!」
「くだんねー」

こいつ気をとられている間に、先程の視線の野郎どもを見失った。
別にそっちが失せてくれるならそれに越したことはない。
それより、この女の感情は意識しないと刺さらない事の方が気になる。
そんなことあり得るわけないのに、他人とは違うのが気持ち悪い。

「チッ」
「ねえ、話聞いてた?」
「聞いてねぇ」
「だからね、ウチでご飯食べるのと影浦くんのお家でご飯食べるのどっちがいい?」

二択の意味がわからん。
無視して立ち去ろうとすると腕を掴まれた。

「ここ影浦くんのせいで赤くなってるでしょ?」
「…」
「いまならなんと、一緒にご飯食べてくれるだけで許しちゃうよ〜」
「頭ワルっ」

こいつと居るときっとロクな事にならない。
知り合いに見つかる前に早く帰りたかった。

「……いまちょっと凹んでて話聞いてくれたらうれしい」

上着の裾を掴んでいる手を見る。
俺より小さくて白くて滑らかな手だ。
下を向きながら喋るので表情は見えない。

「寿司か焼き鳥」

思わず絆された自分こそクソだと思う。
でも泣かれるくらいなら笑っている方がマシなんだという事にした。









「あ、ごめん机の上出しっ放しだ!」

でかい本が開かれたままになっている。
ピントのずれた様な写真が印刷されていた。
ページをめくると汚れた瓶、兎の頭、カーテン、野菜、花、様々なものが切り取られている。

「いいでしょ、この人の絵も好きなんだけど写真もいいよね」

芸術とかそういうのは興味がない。
けど、なんていうかこういうのは悪くないと思う。

「今度一緒に美術館行こうよ。ロスコとか好きだと思うよ」
「行かねえ」

本棚には俺が一生手に取る事のない様な本が並んでいる。
それだけならよかったのに。
自分が集めている漫画が揃っているのを見てしまった。
女でも読むのか、と思うような漫画もある。

遠い所にいて、関係ないと突き放してくれ。

「私はお酒を飲みますが、影浦くんは未成年ですのでコーラをどうぞ」

買ってきた食べ物を机に並べて乾杯をする。
ボーダーから中心街の方へ買い物に出てからまた警戒区域ギリギリのこいつの部屋に戻ってきた。
わざわざこんな所に住む奴の気が知れねえ。

「なんかね、いままで仲間だって思ってたのに、いやこっちが勝手に思ってただけだけどさ。それでもこう、同じ所に立ってたと思ってたのに、急に線引きされたって感じで、なんか、ショックだった。でも、実際に足手まといが増えたら嫌だよね。でもさ、やれる事があるのにやらないのもって思うの。やるべきことはそっちじゃないのかも知れないけど。でもだってさ、私もわかんないんだもん」

2本目のビールの缶を両手でぐしゃっと潰しながら、相槌なんて関係なしにひとりで喋っている。
俺は鼓膜を震わせる隣の霧絵の声を聴きながら、焼き鳥の串を持て余している。
クソ能力が作動しないなんてないし、感情が刺さらないのは俺に向けた感情じゃないからなのか。
肩にのし掛かる重みに、触れられてから気がつく。
人間の頭は温かくて重い。
シャンプーか何かの人工的な香りと本人の人間の匂いがする。

「クソ女」

覚えてろよ。と体温の上がった身体で小さく吠えた。

そのままの体勢が気持ちが悪いので、ベッドに放り投げた。
こちらにも開いたままの本があったが見なかった事にした。

寝息に合わせて上下する胸、スーツから伸びる二本の足。
全部ぐちゃぐちゃになってしまえばいいと、腹の底からイライラする。
大人なのかそうでもないのか、わからないこいつは一体なんなんだ。

トリオン体だったら首を切り落としてやるのに。
仕方がないので、彼女の下敷きになっている冊子を引っ張りだして文字を目で追った。

"眠つたまま本を開いているひとの夢の真裏で、世界の洪水とかぎりなく静かに釣り合う、形象のひとちぎり。
ページを跨ぐのでむろん永つづきはしないが、消えつくすときまでは震えている。

健気さに乱されて、水の引留めに逆らいながら冬の花がみずから反り、寝台をわずかに、傾けてみせている。"


すべすべした紙に印刷された文字は冬みたいに静かだ。
文字の連なりに意味を見いだすことは出来ない。
そんな高尚な所に俺は居ない。

でも、白いシーツの波の中で、開いた本を枕にして眠る霧絵は、
言葉と感情の洪水で溺れる俺をすくいあげる、たったひとりの人間だと思った。

俺の体重で軋んだベッドは、少しくらい傾いただろうか。


(引用:雷滴 平出隆 眠ったまま本を)