三門市に近々大規模な近界民の侵攻があるらしい。
本部から緊急の通達があった。
と言っても、一般の職員に対して開示される情報はそれほど多くはないのだろうけど。
指示のあった緊急時のマニュアルやシステムの再確認をしていただけで一日が終わってしまった。
仕事を明日に回して後悔だけはしたくなかったので、作業していたら夜が明けてしまった。
午前休を取って本部を出る頃には、太陽が昇る前の薄い月が見えた。
ただでさえ寒いのに夜明け前は張りつめるように空気が冷たい。
寝不足でジンジンと熱を持っていた頭が冷やされて落ち着いていく。
はあ、と吐き出した息は、冬の色をしていた。
いつだって備えているはずなのに、人間はすぐに慣れて緊急事態だって日常になってしまう。
ずっと気を張ってはいられないので、仕方ないのかも知れないけれど。
それでも、も少し気を引き締めて行かないとダメだなあと反省していると警戒区域を出てすぐの自分のアパートについた。
アパートの階段を上がると人影が見えたので、びくりとして立ち止まる。
三階には確か私しか住んでなかったはずだ、と思い肩に下げていた鞄の持ち手を強く握りしめた。
本部に戻るよりは一番近いコンビニに駆け込む方が早い、と判断したところで人影がふり返った。
「で、どうして太刀川くんがウチの前にいるのかな?」
私服でもロングコートを着ている太刀川くんを睨む。
いや、似合ってるけど。
勝手に不審者扱いしたのはこちらの方だけど、本当に心臓が止まるかと思ったんだから。
「霧絵さんこそ朝帰り?俺寒くて死んじゃいそう」
ぎゅっと掴まれた手の平が氷のように冷たかったので、思わず謝りそうになった。
いや、なんでだ。
特に約束もしてないし、私は悪くない。はずだ。
「お仕事ですから。一回寝たらまた行くし」
「帰ってきたばっかじゃん、身体壊すよ〜」
「だって、」
大規模侵攻が、と言いかけたところで手に持っていたはずの鍵が太刀川くんの手の中にあるのに気がついた。
「ん?」
自然な動作で扉を開けて、入らないの?と視線で訴えてくる男に頭が痛くなってきた。
注意するのも無駄な気がして、無言のまま靴を脱いだ。
どさりとソファーに鞄を放り投げて、そのまま自分も倒れ込んだ。
あー、せめて化粧落としてからベッドに行きたいけど、もう動ける気がしない。
「霧絵さーん、これ食べていい?」
元気な声に顔をあげると台所にいるカップ麺を持った太刀川くんが見えた。
「…私シーフード」
「了解」
仕方がないので、先にシャワーを浴びてこよう。
太刀川くんの下手な鼻歌を聞きながら浴室に向かった。
ベランダでふたりでカップラーメンをすする。
シャワーを浴びてゆるんだ身体は、もう半分眠っている。
朝靄で街は白く現実感がない。
眩しくて目を細めながら、ぼんやりと明けていく街を眺める。
隣の太刀川くんの視線を感じるから、前だけしか見れない。
「あー、なんつうか霧絵さんが俺より強かったら安心できるのに。」
ベランダに出てから無言だった太刀川くんが口を開いた。
ああ、彼なりに心配してくれてたのかな、と回らない頭で思う。
「じゃあ、鍛えてくれればいいじゃん。」
強い彼が、私を強くしてくれたら話はそれで終わる。
「無理。」
ほぼ即答で返された否定の言葉に思わず笑ってしまう。
そんな簡単に強くなれるのであれば、みんなもうなってるもんね。
「ひどい。」
それでも、守ると言わない彼に心の中で感謝をした。
きっとトリガーに手を伸ばした人間が何を求めているか知っているから。
「ひどいのは霧絵さんだよ。」
太刀川くんの頭が肩にのしかかる。
ふわふわの髪の毛が首筋に当たってこそばゆい。
「ラーメン溢れるよ。」
お腹の中からあったまったら、目を開いているのが辛いくらい眠たくなってきた。
太刀川くんは無言で鼻をすすった後離れて行った。
「大丈夫だよ私は」
スープまで飲み干した空のカップを足元に置く。
本当に朝日が眩しい。
「大丈夫だよ」
もう一度言ってから瞼を閉じた。
◇
大丈夫だと小さい声で言ってから彼女は隣ですうすうと寝息をたてはじめた。
目の下にうっすらと隈が出来ていた。
この人は化粧をしてないといつもよりさらに幼く見える。
綺麗じゃないし可愛くないのに、かわいいなあと思う。
閉じられた色の薄い唇に自分のを重ねてみる。
「シーフード味」
ここ数日悩んだ事が解決したわけじゃないのに、これでいいかと思った。
俺には未来は見えない。
だからこれでいいんだ、とそう思った。