窓の外で雷が鳴った。
こちらへ来ると言った彼女は無事だろうか。
もしかしたら今日は来ないかもしれないと思ったが、一方でそれでも彼女は来るだろうと思った。

「うひゃ〜!すごい雨ですねえ!」
「そうだね、迎えに行った方がいいかも知れないね」
「たしかに!おれ傘探してきます!!」
「風も強いし危ないから太一は待っててくれる?」

一瞬外が真っ白に光ってそれから雨が窓に叩きつけられる音だけが聞こえた。

「いや、オレが行ってきます」

玄関に立て掛けておいた傘を手に持つと来馬先輩がタオルを渡してくれる。

「気をつけてね、鋼」




分厚い雲を光が割いて空が波打った。
怖いとは思わないし特別美しいとも思わない。
自然と凪いだ水面のようにシンと落ち着くだけ。

扉を出てすぐに人影がこちらに向かってくるのが見えた。
思ったよりも雨脚は酷くない。
軽く地面を蹴って彼女のそばに駆け寄った。

「鋼くん」

水の跳ねる音に気がついた彼女がこちらに気がついた。
彼女は傘をさしているのにもかかわらず随分と濡れていた。

「なんだか嵐みたいだね」

彼女は濡れた瞳で弱々しく微笑んだ。
それはこの前静かに詩をよんだ彼の面影と重なった。



「カゲ」

奥まった場所にあるあまり人の来ない自販機の前の椅子に彼は居た。
俯いて座り何かを読んでいるように見える。
観葉植物に遮られるようにして彼の細い指が薄い紙を捲るのを見ていた。

「ンだよ、黙って見てんじゃねえ」

マスクを顎まで下げたせいでギザギザの歯が見える。

「何を読んでるんだ?」

反対側から覗くと、向こうが透けるようなすべすべした紙には稲妻のような版画と3行の短い言葉。
(領分とは仮初めの染めものであるというのに、いまではあちこちで濫りに縺れあつている。)
(両側から侵しあう、まだ気づかれぬ波打際にだけ、杭のようにも立つわずかの者たち。)

「いずれへも属するゆえに、その人は、いずれにも属さぬ。いずれにも属さぬゆえに、あの人は、すべてに属する。」とカゲが言った。「厄介な女」



また空が瞬いた。

「くしゅんっ」
「すみません、早く支部に戻りましょう」

来馬先輩に借りたタオルを渡しながら足を来た道へと向ける。

「ううん、大丈夫だよ。ごめんね」

何故だか霧絵さんが泣いているみたいに見えた。
雨に濡れているからだろうか。
何もできないオレは開きかけた手をもう一度強く握った。



「ただいま戻りました」
「お邪魔します」

鈴鳴支部の扉を開けると暖かくて寒さで強ばっていた身体が緩んだ。
外が寒いのか湿度のせいなのか窓が白く曇っている。

「おかえり。ふたりともコーヒーでいいかな?」
「先輩〜!コーヒーってこれでいいですか?!お帰りなさい!!うわっ?!」

来馬くんが出迎えてくれて新しいふわふわのタオルを渡してくれる。
うう、馬鹿みたいに濡れてごめんなさい。
ゴシゴシと乱暴に顔を拭いているとインスタントコーヒーとマグカップを持った太一くんが奥から元気よく出てきた。
ああ、スローモーションで太一くんが飛んでくる……。

「「「太一(くん)!!!」

反射的に叫んで太一くんを抱きとめる。
そのまま倒れそうになるのを鋼くんが支えてくれた。
いつも太一くんを小さいと思ってしまうけれど実際は大きいんだった。

「大丈夫?」
「す、すいません!って霧絵さんびしょびしょじゃないですか?!」
「着替えた方がいいですね」
「うーん、今ちゃんがいればよかったんだけど」
「来馬先輩の上着ならありますよ!!」
「いや、うーん、霧絵さんが嫌じゃなければ……」
「そんな!嫌な訳ないよ!ん?じゃあ、お言葉に甘えてお借りします……?」

あれよあれよと言う間に来馬くんの高そうなカーディガンを借りる事になってしまった。
洗面所を借りて濡れてしまったワイシャツを脱いで着替える。
大変お行儀が悪いのだけれど濡れたストッキングもついでに脱いでしまう。
来馬くんに借りたカーディガンはすごくあったかくて肌触りが良い。
「あとめっちゃいい匂いがする……」

そういえば太一くんの手から飛び出したコーヒーは大丈夫だったんだろうか?
濡れた服を手早く畳んで談話室に戻ると太一くんが泣きながら来馬さんの腰にへばりついていた。

「えっ?!どうしたの?!大丈夫??」
「霧絵さぁぁぁぁん」
「太一大丈夫だから!課題はやり直せばいいから」

全然状況がわからず鋼くんを見ると机の上に広げたノートやプリントがぐちゃぐちゃになっていた。

「太一がこぼしたコーヒーを片付けようと掃除機を掛けてくれたんだけど、一緒に他のものも吸い込んじゃって……」
「なるほど……」

慌てて引っ張ったのかグシャグシャになってしまったものの中には破れてしまっているのもある。
なんとなく見覚えのある文字の連なりに、昨夜読んでいた本の一節だと気がついた。

「十二月の青くつめたい夜に、もしも
この部屋の片隅に、厳かにうずくまる彼女がいたら、
永遠の寝床のふちからやって来て、
大人になった子供を母のように見守る彼女がいたら、
わたしはこの敬虔な魂に何と答えることができるのだろう
彼女のくぼんだ瞼から、こぼれ落ちる涙を前にして。

ボードレールかあ。唯我くんもフランス語喋ってたけどボーダーの教養レベルどうなってるの?あ、太刀川くんが下げてるから大丈夫なのか、ははは」

最後は力なく笑ってしまった。
そりゃあフル単取れとは言わないけれど、留年なんてしようものならボーダーの印象が確実に悪くなるだろうしご両親にも申し訳が立たないし後輩たちの進学にも関わってくると思うと自然と胃が痛くなる。私は営業部でも広報部でも役職を持っている訳でもないのだが、太刀川くんを知っている身としては何とかしてあげたいのだが如何せん本人にやる気がないのだ……。

「霧絵さんもフランス文学?取ってたんですか」

鋼くんの目に尊敬の念が入っているように感じて慌てて弁解する。

「いやいや、昨日たまたま読んだ本がボードレールの研究者の本だったんだ。役に立つかわからないけど来馬くんも読む?貸そうか?」
「いいの?あんまり関連図書がなくて少し困ってたんだ」
「うん!セーターも借りちゃったしお礼になればいいんだけど」

本部から持ってきたUSBを渡し、回収予定だった書類を預かる。
来馬くんが作ってくれた生姜湯のおかげで身体がポカポカのまま支部を出た。



(来馬先輩の上着着た霧絵さんなんかエロかったすね!!!)
(太一?!)
(ははっ)
(鋼も笑うところじゃないよ?!)




雷は遠くへ去って雨も上がっていた。
分厚い雲のせいで暗いのか、もう日が暮れているのか。
大丈夫、祈ったりしない。
目を瞑ったって世界が暗闇になってしまうだけ。
大丈夫、まだ走れる。
虚勢だっていい、嘘つきでもいい諦めたくない。

大きな水溜りをパンプスを履いた足で飛び越えた。








「で、その格好はなにかな?」
「ひゃあ!!!」

自分のデスクには戻らず空き会議室で残りの仕事を仕上げてから一階に降りると学生は帰った後のようで人がほとんどいなかった。
何か飲んでからもうちょっと仕事して帰るか、キリがいいので何か食べて帰ろうかとぼんやり悩んでいると真後ろで低い声がした。

「あ、東くん!!!」
「それ来馬のだろ?」

びっくりしたせいで煩い心臓をぎゅっと押さえつけながら振り返る。

「す鈴鳴行く途中に雨で濡れちゃって……」
「ふーん?」

東くんが背中の襟のきわを指でなぞるから背中がぞわぞわした。
思いっきり睨んでも余裕そうに笑っている。

「はは、悪い悪い」
「東くんのばか!えっち!変態!摩子ちゃんに報告しますよ!!」

ポンポンと頭を叩かれる。
完全に子ども扱いされてる。

「残業もいいが、早く帰れよ」
「こんな時間に本部にいる東くんに言われたくありませんー!」
「残念、俺はもう帰るところなんだよ」
「私ももう帰るよ。途中まで一緒に帰ろう」

歩きながら東隊のみんなの話やスナイパーのみんなの話を聞いていると自分のアパートの前まで来ていた。

「あ、ごめん。千佳ちゃんの初登場シーンがあんまりにも凄くて話に夢中になっちゃった」

送って貰う気は無かったので謝ると東くんが"ん?"と何か催促するような顔をする。

「う、送ってくれてありがとう」
「どういたしまして」


お前はもう少し人に甘えた方がいいと言った東くんの背中を見送る。
もう十分過ぎるほど甘えて、頼って、支えられてるのに。


風のない冬の夜に、水溜りが崩れ落ちそうな星を映しながら震えた。