「お前を殺す前にわたしはお前に接吻をした
わたしの最後もぜひともお前への接吻で」
その日は恐ろしく静かにやってきた。
それはアルヴォ・ペルトの”鏡の中の鏡”のピアノの旋律のように。
それは冷たい氷の上で踊る少女の控えめな足取りのように、針葉樹の葉にやわらかい雪が降り積もるみたいに。
窓から見える景色は深く沈んだ青色で、音まで吸い込まれそうだった。
午前中の仕事はつつがなく完了し、午後も何事もないように祈るのみだった。
いつもの毎日のようで、近界民の侵攻に神経をさく日々は本部の酸素を薄くした。
早めに昼食を切り上げて人の少ないエリアへ移動する。
わたしが気負ったって仕方ないのに。そんなこと自分が一番わかっているのに。
文庫本の頁をめくる指が強張っているのに気がついてため息が出た。
「よお、お嬢ちゃん」
「冬島くんそれやめて」
「メシ食った?」
「温かいお蕎麦にしたけど」
「あー、悪くねぇなそれ」
「こんなところで油売ってていいの」
「きゅーけー」
肩に頭を預けて寄り掛かってきた彼を押し返そうとしてやめた。
A級の隊長にも一息つける場所があってもいいだろう。
意識を肩から紙に印刷された文字に移す。
”彼はもうひとつのデッキチェアを取って、妻が寝転んでいる椅子から少し離れたところに引っ張っていった。そして自分の顔が相手から見えないようにセットした。
「もうあきらめたの?」と彼女は気だるい声で尋ねた。
「紙とマッチが尽きてしまったよ」と彼は力なく答えた。
ふたりのあいだにはそれ以上の会話はなかった。潮は満ち潮になっていて、海の水はひたひたと静かに足元に近づいていた。”
遠慮なくのせられた頭はずっしりと重く、トリオン体なのか生身なのかわからない。
“ テンマクケムシか、と彼女は心の中で呟いた。
それから彼女は大きな声に出してみた。「テンマクケムシ!」
「なんだって君はそんなことを叫びたてるんだ。大声で叫ぶことでもないだろう。樹木がむしばまれるのは、人間のからだがむしばまれるのと同じことなんだよ」
「ねえ、これは夏のあいだだけ借りた家で、私たちがここにまた戻ってくることなんてないのよ」
「若い年月というのはまるで避暑地の家みたいなものだなぁ」と彼は消耗した声で、呟くように言った。彼女はよく聞こえなかった。
「なんですって?」
彼はもう少し大きな声で同じ言葉を繰り返した。
そして彼女にはわかった。この人はちゃんと知っているのだ。太陽がすっかり沈んでしまうまで、サンデッキの上のふたりの椅子は離れ離れになったままだった。”
私たちのあいだに横たわる時間はそれほど大きなものではなく、そもそも私たちはまだ若い部類だろう。
それでも青春はすでに遠く、数年を寝て過ごしてしまったわたしには青春の記憶さえもない。
冬島くんの呼吸する音がわずかに聞こえる。
”あたりに闇が降りてくると、長い歳月を共に暮らしてきた夫婦はもっとお互いのそばに寄りたいという本能に駆り立てられた。
こころもとない様子で彼女はデッキチェアから立ち上がり、彼のほうに自分の椅子を引き寄せた。彼の焼けこげた手が椅子の手すりにのっていた。少しあとで、太陽の代わりに寝ずの番をつとめるべく、感傷的な月が地平線から空にのぼった。彼女は夫の手の上に自分の手を重ねた。”
妻が思い出した、時間の経過と共に無くしたと思っていたもの。
重ねた手の温もりの先にあるもの。
それでも未来は変わらない。そう、変わらないのだ。
愛はそこにあるだけだ。
パリパリと空気が張り詰めて、非常用のサイレンが鳴った。
冬島くんの瞼が開いた。
「じゃあ、俺行くわ」
「うん」
立ち上がった冬島くんの手を取って指を絡めた。
「……気をつけて」
言うべき言葉は思い浮かばず、無力なわたしは手を離した。
風の音なんて聞こえないはずなのに、唸るような風の音がした。
急いで自分のデスクに戻る。
一般の職員は避難、医療スタッフと研究職員は待機、オペレーターと通信室スタッフは大規模侵攻用のマニュアルに沿って業務にあたるため、指令系統が変更されるのでそれの確認と自分の位置情報を登録する。
「巫条は待機だったか?」
人員の確認を終え事務室にロックをかけた上司に挨拶をする。
避難する彼らの方が不安だろうにさっぱりとした表情をしていた。
この為に準備をしてきたから、準備をしてきた仲間を信じているから。
「いえ、オペレーターのサポートとして通信部に向かいます」
「そうか、気をつけろよ」
「はい、ありがとうございます。皆さんも気をつけて」
ポケットに入れたトリガーを握りしめて通信部の本部へ向かう。
「ゲートオープンから348秒経過敵性トリオン兵が北西、西、南西、南、東分散して侵攻中。対策本部開設完了。西部と北西部はS級隊員による戦闘が開始、正規隊員は警戒区域内に到着次第戦闘開始、C級隊員は警戒区域外にて市民の避難誘導にあたっています」
「ボーダーのトラップ作動。南、南西、東部のトリオン兵の足止めに成功しています」
「東部、諏訪隊到着。南部、東隊到着。南西部、来馬隊到着。隊所属オペレーターが本部到着次第隊員に接続します」
一番大きなディスプレイに表示された対策本部の映像に沢村さんの音声が入る。
出現したトリオン兵のマーカーがみるみるうちに増えていく。
知っている名前に安堵すればいいのか、心配に心を戦慄かせればいいのか。
深呼吸を手短に済ませて、端末にログインした。
「本部所属巫条霧絵オペレーションサポート業務を開始します」
現着した隊員に次々と本部に接続してくるのを、祈るような気持ちでエリア担当ごとに振り分けオペレーション回路に繋いだ。
「爆撃型トリオン兵接近!」
突然のアラームと作戦室から沢村さんの切迫した声が響いた。
「砲台全門撃ちまくれ!!」
「一体撃墜、もう一体が来ます!」
「衝撃に備えろ!!」
鬼怒田室長の声に本部には砲台なんてついてたのかと今更ながら感心していたらもの凄い衝撃で椅子から転げ落ちた。
「第二波来ます!三体です!!」
頭を強く打ち付けてすぐに立ち上がれない。
本部は無事なのだろうか。
忍田さんの声が聞こえるのに、非常事態でも凛々しくて格好いいなとしかわからない。
「忍田本部長二発は保証せんぞ!!」
「問題ない残りは一体だ」
「もう一体が直撃します!衝撃に備えてください!!」
「全員伏せろ!!」
通信部臨時部長が叫んだ。
「後続はないそうだ。いまのうちに負傷した職員は離脱、シェルタールームに自力で移動できない職員は救護班を当てろ」
部屋の中に異常は見当たらない。本部基地が頑丈で良かった。
「巫条は大丈夫か?」
「ありがとうございます、頭をぶつけたくらいで問題ありません」
隣の通信部の先輩が声をかけてくれる。
彼も怪我などはしてないようだ。
「しかしA級1位って凄んだな」
一番大きいスクリーンに先ほどの爆撃型トリオン兵を切り落とす太刀川くんが映っていた。
「本当に心強いですよね」(私たちなんかよりずっと)
次々と現れては消える戦闘の断片に、たくさんの喪失の予感がした。
でも諦めらない。守られるだけにはうんざりだったから。
痛くても惨めでも、自分の剣を持ちたかった。
もう一度硬い椅子に座り直して画面を睨んだ。
キーを叩く音、たくさんの警報、人の声。
場面は次々に変わり思考する暇さえも与えられはしない。
くるくると戦況は変わる。
あまりにも多くの情報が洪水のように流れてくるので、段々色が薄くなって音が小さくなる。
スローモーションの濁流の中を割るように大きな電子音が鳴った。
////////////////侵入警報/////////////////
聞きなれない侵入警報の音が鳴り響いて、数秒もしないうちに通信部の壁が破壊された。
頭が現実に追いつかない。
壁と一緒に机も椅子もモニタも人も吹き飛ばされた。
咄嗟に掴んだトリガーのおかげでなんとか立つ事だけは出来た。
鳴り止まない警報がわんわんと響いて地面が揺れているみたいだ。
ざっと見回しても倒れている人や機材の下敷きになっている人が見える。
助けなきゃと思うのに、突然入ってきた黒い人から目が離せない。
恐怖が全身を駆け巡って痺れて動けない。
(人型近界民……!)
「なんだ、的にもなりゃしねえ」
つまらなそうに笑いながら私の左側が吹き飛ばされた。
黒い刃のようなものが複数現れて、一瞬で世界がぐちゃぐちゃになる。
「やめて!」
ノーマルトリガーでなんとかなる様な相手ではない。
そんな事誰だって分かる。
「能無しのネズミの癖に一丁前にトリガー起動してやがんな」
やっと私に気がついたみたいにその人の目がこちらに向いた。
口が大きく左右に引かれて一層笑みが深まる。
剣を握っていた手はあっという間に切り落とされて地面に落ちた。
痛くて苦しくて彼の手が首を握っていることでかろうじて倒れないで済んでいる。
「やっぱこうじゃねーと」
何も出来ないままの自分に涙が出てくる。
ベイルアウトするのも時間の問題だ。
生身に戻ったら先ほど受けた傷できっと立ち上がることもできない。
「祈る時間くらいはやるよ」
黒い瞳が私を見下ろしている。
「祈る為に瞼を閉じても世界が闇に包まれるだけよ」
彼の胸を抱きしめるようにして剣を突き立ても、温かいプールに飛び込んだみたいに私の身体が沈んで行くだけだった。
そっか、祈っても祈らなくても私が行く先は闇の中だったんだ。
泥のような眠りの中で思い出すのは、誰かのあたたかな体温。