本部を出ると湿気を含んだ熱風が身体を撫でる。もう日が落ちて随分経った筈なのにまだまだ暑い。風が止まってしまったせいで昼間より不快な暑さだ。じわじわと滲み出る汗がシャツを濡らしていく。
 繁華街へと足を踏み入れると浮かれた服装の若者たちが楽しそうにはしゃいでいるのが見えた。諏訪は自身も若者だと言う事を忘れてただ「夏だなぁ」と思った。目の前を歩く金髪の男に髪の長い女が細い腕を絡ませる。女の肌はネオンのギラギラした光を滑らかに反射させる。それは蛇を思い起こさせた。
 「暑くないのかね」と呟いて咥えたタバコを少しの逡巡後再びポケットに戻した。目的の居酒屋はもうすぐ着くはずだった。道路の端で口づけを交わすカップルの横を通り過ぎる時、甘ったるい花の香りがした。そのせいで似てもいない霧絵さんの匂いを思い出してしまって一瞬体が熱くなる。
「クソッタレ」
奥歯を噛み締めて居酒屋の暖簾を乱暴にくぐった。

「おい、諏訪遅いぞ」
いつもより広い座敷の個室に通されると間髪入れずに風間の声がした。ポケットから取り出したスマホを確認しても遅れていないし、新しい連絡も来ていない。
「いや時間ぴったりだわ」
「遅刻だぞ」
 反論するもジョッキを持った木崎に怒られる。ジョッキには三分の一しか黄金色の液体が入っていない。
「ざっけんな!もう飲んでんじゃねーか」
「悪いな諏訪」
 お猪口を掲げた東の姿に、この飲み会が始まってから随分と時間が経っているのを知った。
「ぜってぇ悪いと思ってないヤツっすよねそれ」
とりあえずビールを頼んでポケットに入っていたタバコに火をつけると太刀川が寄ってきた。
「霧絵さんは?」
 俺に用があった訳じゃないらしくそれだけ言うと皿に残っていた料理を次々と口に放り込んでいく。僅かに残っていたツマミが無くなっていくのを眺めながら、さっき料理も注文すれば良かったと後悔した。
「あいつ来んの?」
 会いたいとは思っていたが、このメンバーでの飲み会に来るとなると嬉しいよりも不安の方が勝つ。
スマホを出してメッセージ画面をタップする。短い文章を送信する前に襖が開いた。
「あ、冬島さ〜ん」
太刀川が隣でひらひらと手を振る。髭面なのでちっとも可愛くはない。
「おっさんまで呼んでんのかよ」
「お〜、盛り上がってんなぁ」
冬島はぐるりと座敷を見回して安全そうな木崎の隣に腰を下ろした。
「霧絵さんは?」
太刀川が今度は冬島に向かって聞いた。まあ、ここに居る全員気になってるんだろうけど。
「お前それしか言わねぇな」
運ばれてきたビールを受け取って、食べ物の注文をした。これだけ好き勝手にしている連中だ何を頼もうが文句は言われまい。
「寺島と一緒にくるんじゃね?トリガー弄ってたし」
「ふ〜ん」
冬島の言葉に太刀川が詰まらなさそうに返事をした。暫く沈黙が続く。恐らくみんな霧絵について思いを巡らせているのだろう。

「あのトリガー設定どうにかなんないのか?」
見ていて痛々しいと風間が言った。
「本人に言ってやれよ」
これもここにいる全員が思っている事だ。多分。と言うか、普通なら全員止めると思う。
「言った。が、変える気は無いらしい」
風間がダンッと力強くジョッキを置く。気持ちはわからなくもない。生身よりは数段落ちるとはいえ、異常な感度設定だ。
「そもそも感覚はありでも痛覚はなしなんじゃなかったですっけ?」
「さあ、その辺は室長と直接やってんだろーしなぁ」
冬島は興味がなさそうな声を出す。
「東さんが言ってもダメなの?」
「ん?ああ、あいつ身体の感覚にやたら固執してるからな。まずそのへんをどうにかしないとだめなんじゃないか?」
太刀川の言葉に静かに徳利を傾けていた東が返す。
「え?だから霧絵さんってぎゅってしても怒んないの?」
 キョトンとした太刀川を全員の視線が突き刺す。だが皆、思い当たる節があったのか太刀川を咎める声は上がらなかった。
「まあ、そう言われると関係ないってとは、言い切れないよな……」
各々の思い当たる節を自慢の様に話し始めた連中に、太刀川が低い声で叫ぶ。
「俺の霧絵さんなんだけど?」
「お前のじゃねえ」
 所有権を主張する太刀川に突っ込む。一度もお前のだったこともないし、これからもお前のものにはならない。……俺の、でもねぇけど。
「ボーダーに霧絵より可愛い子いっぱいいるだろ?」
 東の言葉にそっくりそのまま熨斗を付けて返したいと思った。アンタならもっと美人で尽くしてくれる女だって選び放題だろうに。
「それな。別に霧絵さんおっぱいおっきくないし」
太刀川は本人がいたら殴られそうな失礼な事をしれっと言った。
「でもなんつーか、見た目とか中身とかじゃなくて霧絵じゃなきゃだめなんだよなぁ」
「「わかる」」
一斉に神妙な顔をして頷いた。
「あと、あいつなんかいい匂いしない?」
「香水みたいな強い匂いじゃなくて、すっごい近くにいるとわかるやつな」
これ本人に聞かれたらやばいだろうなと思っていると、枝豆を加えた太刀川が聞きたくない知識を教えてくれる。
「シャンプー唯我と一緒ですよ」
「唯我の方が髪、綺麗だろう」
「ブホォッ」
 風間が真面目に放った一言に、飲み下すはずだったビールが気管の中へ入った。結構酔っ払ってるなアイツ。

「そういやこの前見た時、来馬のカーディガン羽織っててしかもその下なんも着てなかったぞ」
「え?!なにそれどういう状況?!」
太刀川が飲んでいたビールのジョッキを慌てて置いた。机に半身を乗り出したところで、個室の襖が開いた。
「わ!みんなもう結構飲んでる感じだ〜?!」
「ちわ」
雷蔵と霧絵が一緒に入って来た。騒がしい店内のお陰か会話は漏れてなかったらしい。二人は手前の空いてる席に座る。
「霧絵さんこっちね」
「オイ太刀川」
奥の席から長い手が伸びて彼女のむき出しの腕を握る。
「はいはい。太刀川くんって普段割と大人っぽいのに、こういうメンツの時甘えん坊になるよね〜」
 誰かのおかわりで頼まれたビールがそのまま二人の手に渡される。少し汗をかいたビールジョッキを受け取った霧絵は、太刀川に乞われるまま隣へ座る。
 太刀川が甘えるように彼女にすり寄っていくのを横目で見ながらタバコを灰皿に押し付けた。
太刀川が意味有り気に霧絵さんの耳元に顔を寄せる。
「来馬のカーディガンってなに?」
「んぇ?!」
 彼女が悲鳴にもなっていない声をあげた。ついでに飲んでいたビールが口元に垂れる。ゴシゴシと荒っぽく手の甲で拭っただけなのに、その濡れた唇から目が離せなかった。
「あ、東くん?!」
「ははは」
 東は意味有り気に笑った。チキショウ、この人ホント食えねえな。普段は頼りになるし尊敬してるけど、マジで全然ちっとも善人じゃねえ。
「霧絵は俺にするって言っただろう」
 急に立ち上がった風間は、状況が飲み込めていない周りを余所に、霧絵の足の間に座る。いや、丸まった。猫か?
「俺はお母さんだ」
 木崎のひと言で全員が黙った。突然の母性の目覚めに俺は死んだ。ついでに冬島さんと東さんも死んだ。
「あ、あー!この前の飲み会の話だね、びっくりした」
 名前さんは合点がいったようで納得したようにビールの続きを飲み始めた。空いた手で風間を撫でている。よく見たら隣で太刀川も死んでいた。しかもどさくさに紛れて彼女の腰に腕を回している。
「諏訪くんいなかったっけ?この前に飲んだ時に『ボーダーで〇〇にしたい人NO.1は?』みたいな話をしてたんだよ。それでお母さんは、レイジくんになりました!」
ドヤァとする霧絵さんがかわいい。
「あいつはただの筋肉ゴリラだぞ」
「母です」
「オイやめろ」
「諏訪くんはねぇ」
 この流れ的にあんまり聞きたくねぇな、と思いながらちらりと視線をずらすと、霧絵さんが上目遣いでこっちを見る。そしてにっこりと笑いながら言った。
「おにぃちゃん」
 えへへ、と照れたように笑う顔が可愛すぎて俺の心臓は二度目の死を迎えた。そう言えば雷蔵が一言も喋ってねえなと思ったら、徹夜が祟ったのか半分ほど中身の減ったグラスを握って机に突っ伏していた。お疲れ、俺は良い夢見れたぞ。







「そろそろ出るぞ〜」
 冬島の号令で風間の首根っこを捕まえた諏訪と寺島をおぶった木崎が座敷から出て行く。
「あ、おトイレ行きたいから先出てて〜」
「ひとりで大丈夫か」
「トイレくらいひとりで行けますぅ!」
 立ち上がった霧絵が危なっかしいくらいふらふらとしている。まあ普段からあんな感じか。
「悪い先出ててくれるか?」
「もう一名様トイレにご案な〜い」
 冬島に一万円を渡して会計を頼むと、にやりと笑って背中を強く叩かれた。それに笑って返す。そんなに飲んだつもりはなかったが、身体の芯が熱くなってるのがわかった。俺もそこそこ酒が回っているらしい。

「ん、東くんだ〜」
 ちょうどトイレから出てきた名前がこちらに気が付いて立ち止まる。他の客が来たので彼女の手を自分の方へ引く。彼女が俺の胸にぶつかってクスクス笑っている。随分とご機嫌だな。
「あれ?トイレいかないの?」
「お前を迎えに来ただけだよ」
 そのまま動かない俺を不思議そうに見つめる名前をさらにきつく抱き寄せる。触れているところが、熱くて理性がドロドロと溶けていくのがわかった。抑えきれずに、腰に回した腕に力を込めて下半身が密着するように足の間に割って入る。
「東くん大丈夫?気持ち悪い?」
 何も分かっていない霧絵が心配そうに言った。俺より自分の心配をした方が良いぞ。そう思っても、わざわざ逃す様な事は、口には出さないけれど。彼女から立ち上るアルコールの匂いと汗の香り。外でいつものメンバーが待っているのは理解しているのに、手を離す事が出来ない。
「顔熱いな」
 こちらを見上げる彼女の頰に手で触れる。上気した頰に撫で、汗で張り付いた前髪をはがしてやる。居酒屋のトイレの前で何やってるんだと思わなくはない。けれど気持ちよさそうに目を細める霧絵に歯止めが掛からない。
「悪い子だね、東くん」
 顔を寄せると俺の髪が彼女の額に落ちる。その刺激のせいか、くすぐったそうに小さく声をあげて笑いながら言った。

「船乗りは泣かないのよ、ベイビー。ぜったい泣かないの。泣くのは船が沈む時だけ」

 彼女は俺の喉仏にキスして、優しく体を離した。まだ船は沈んでいない。俺に泣く事は許されない。しっかりと手を握り合ったまま俺たちは、船に乗った仲間たちの元へ帰った。