ベッドに座ったままカーテンの隙間から外を覗き込む。グレイの空がべったりと横たわっていた。なにを燃やしたらこんなに憂鬱な灰色が生まれるのだろうか。深呼吸をすると空気の中には夏の匂いを感じることができるのに、夏はそこにいない。グズグズと振り続ける雨に夢と現実の境目が揺らいでいくような気がした。

毎日短い夢を見るのに夢はだいたいが悪夢だった。色々な方法で私を追い詰めてくる悪夢。どの夢も起きるとじっとりと背中に汗をかいていた。そしてその夢の中で触った空気の感触は、必ず現実までついてきた。テーブルに溢した水がひたひたとゆっくり広がっていくように。そのせいでベットの中から起き上がっても暫くはただ呆然と寝る前とは寸分と違わないはずの部屋をじっと見つめる羽目になるのだった。

洗面台についている鏡に映った自分は青白い顔をしていた。ぼんやりと痛む頭に鞭を打って制服に体をねじ込んだ。雨に濡れることは嫌いじゃないし、海の方から湿気を含んだ風が吹きてくる不穏な気配は好ましくすらあるのに。

「行ってきまーす!」

挨拶は元気よく。傘は持っていかない。今日こそは私の世界に夏がやってくると信じて。


「なんか元気なくね?」

学校に着くと紙パックのいちご牛乳をストローで飲んでいる米屋に話しかけられる。

「いや、なんか調子出なくて」

ため息を吐きながら米屋の手からいちご牛乳を奪う。甘くておいしい。でも水分補給としては甘すぎるので一口飲んで返した。

「おまえなあ」

米屋じゃなくて出水から非難するような声が上がる。はいはい君たちはニコイチニコイチ。そんなことより

「夏は来ないし、夢見は悪いし。いろいろあるわけよ、私にも」
「ふうん、夢見が悪いってどんな?」
「どんなって言われてもなあ……この前は米津玄師は歌と絵と曲は全部違う人がやってて三人のグループ名が米津玄師だってネットで読んで」
「マジで?」
「それで三人だったんだ〜なるほどって思ったら、それ夢だった」
「いや夢なんかい」
「っていうか、それのどこが悪夢なんだよ」

米屋がジューっと飲み干してパックがペコッと音と立ててへっこんだ。

「現実だと思ってたとこ」

二人が黙る。出水がなにか言ったけれど、米屋の声に遮られた。と言うか私の大声と勢いよく立ち上がった所為で大きな音を立てた椅子に掻き消された。

「なんか蝉の鳴き声しね?」
「うっそ!」

耳をすますと確かに蝉っぽい音がする。夏が来たのかついに。まじか。オラわくわくしてきたぞ。

「いやなんか、蝉の鳴き声で元気出てきた気がする!」

反対になんか出水はテンションが下がってる。暑いの嫌いそうだもんねぇ。残念!

「しかもこれからめっちゃ晴れるらしいぜ」
「よっしゃぁ」

米屋がスマホの天気予報を見せてくれる。急いで確認のために教室の窓へベタッとへばりついた。ずっしりと重たい色をした雲の向こうにほんの少しだけ明るい空が見えた。蝉の声が段々近くなる。

「蝉うるせえんだよ、黙ってろ!!!」
「そんなことある?!」

長い午後になりそうだった。








「海の方は晴れてる!」

浜辺へ走って行くと柔らかい砂に足を取られる。それでも走るのをやめられない。革靴の中にどんどん細かい砂が入ってきて靴の意味をなさないので、靴下も一緒に脱ぎ捨てる。砂はまだ熱くない。それでも指の間を通り抜ける砂粒の感触は確かに夏だった。

「お〜、気持ちいいな」

米屋は汗で額にはりついた前髪をかきあげてカチューシャで留めた。足元を見ると私と同じで素足である。

「靴は?」
「どっかに脱ぎ捨ててきた」

にやっと笑う横顔に私も同様の微笑みを返す。海の風は冷たい。だけど太陽の色が濃くなって世界のコントラストが強くなる。肌を焦すような太陽が恋しい。魚が水を欲するように私は光を欲していた。

「出水クンのんびりしてると日が暮れちゃうよ〜!」

まだ100メートルくらい後方にいる出水に向かって叫ぶ。何か言っているみたいだけどちゃんとは聞こえない。米屋も同じだったようでお互いに視線を合わせて首を傾げた。15秒後くらいに息も絶え絶えな出水が砂に手をつきながら言った。

「おまえらってなんなの?バカなの?知ってたわ」
「言い草」
「いや、まじありえねえわ。どんだけ走んの?小学生かなんかなの?」
「やだなぁクラスメイトじゃ〜ん」
「んで霧絵なにしに海まできたん?」
「えっへへ!あ、あれ?鞄どこにやったけ」

持ってきたものを取り出そうとして自分がなにも持っていないことに気がつく。格好がつかないけれど二人に手伝ってもらって砂浜から鞄を探す。まあ、米屋も放り出してたので私のことを非難する資格なんてないのだけれど。どこまでも広がる水平線に胸が痛くなる。波打ち際の砂は湿っていて冷たい。足でグッと押すとすぐに水が染み出す。海は見えなくても砂の下に続いている。そう、きっとそれが真実なのだ。私たちがどこを歩いてようがずっと下の方でなにかが繋がっている。目には見えなくても。信じられなくても。

「「花火?」」

多分それは昼間なのに?と続くはずだ。それはそう。まだ陽は沈まない。でも

「い〜じゃん。花火だって太陽の下で咲きたいって言ってるよ」
「いや、なんか格好いい風だけど、昼間じゃ見えねえから」
「だまらっしゃい!素人は黙っとれ!」
「おまえも素人では?」

シュワっと音を立てて火花が噴出す。炎は白く色は飛んだ。昼間の空にひっそりと浮かぶ薄い月のような淡い色だった。傾いた太陽のオレンジ色の方がよっぽど鮮やかな色をしている。霧絵の髪が海の奥から吹く風で巻き上げられる。くるくると好き勝手に弄ばれているのに文句一つ言わない。彼女は花火を両手で一本ずつ持ってダンスするみたいにくるっと回った。写真に撮りたいくらいだったのに、一瞬でも彼女から目を離すのが勿体なくて身動ぎひとつできなかった。

「いまが永遠に続けばいいのにな」

思わず溢れた言葉はそのまま消えるはずだった。そんなことは現実に起こりえないことだったし、それはこれからといままでをいっぺんに貶めることだったからだ。なんて、感傷的になるのは夕暮れのせいだろう。

「永遠なんていらない」

そこには留保もなく条件もなかった。原因もなく説明もなかった。「しかし」もなく「もし」もなかった。

「だからずっと一緒にいてよね」彼女はスローモーションで笑った。

おれはそれでもやっぱり時が止まればいいと思った。そうすればずっと17歳の彼女を見ていられるから。永遠なんていらないとそう言った彼女の美しい顔が眩しすぎて。