空の境界 


両儀式 生誕祭2022


胡蝶の夢





うなじの骨が、寒さによって針ときしむ。

薄汚れたビルの隙間に雪がゆっくりと落ちていく。
そこには意思も無ければ意味も無い。
私だって同じようなものだ。
生への執着も死への憧れもない。
だから飛べないんだろう。


 見られた街を歩きながら立ち止まって、空を見上げる。でも都会には空と呼べるようなものは殆どなくて、鼠色のビルの隙間に申し訳程度のグレイがある。掃除の行き届いていない汚れた窓がどこまでも並んでいるのを見て、誰かに聞いた話を思い出した。いわんや、ホテルの窓は自殺防止の為に清掃時以外には完全に開かないらしい。死にたいから空を目指すのか、空があるから死を選ぶのか。どっちにしたって、ビルから人は落ちてくる。
 ぐしゃり、と音がして振り返ると、赤い血溜まり。潰れた肉体は、もう人間の形を留めてはいなかった。
「……」
どこかで見たような景色だ。かつて栄華を誇った高層マンション群と赤い押し花。自分とその死体しかいないはずなのに、声がした。プラスチックみたいな殺伐とした声。そのまま踵を返してその場を後にした。



 どうやら部屋の中が寒くて目が覚めたらしい。コンクリートが剥き出しの床と壁のせいで、部屋の中が冷蔵庫のように寒い。あまり好きじゃないエアコンを起動させているというのに、ちっとも暖かくなりはしない。なんでこんな目に合わないといけないのか。
 窓の方へ視線を向けると、ブラインドの隙間から淡い光が差し込んでいる。その灯りだけで部屋はぼんやりと明るかった。夜明けはまだまだ先だ。
 闇は相変わらずひっそりと静まり返っていて、血液を送り出す心臓の音が煩いくらいだった。ぶうん、とエアコンが唸る。いつの間に雨が降ったのか、外の道路を自動車が飛沫を上げて走り去って行く音がした。
  目の前の壁にはカレンダーが掛かっている。年末になるとどこかで配っている代物。上が写真になっていて下に格子状の小さな部屋に数字が割り振られている。どこまでも凡庸で、ありふれた人並みの幸せ。二月と印刷されたページには何の印も付いていない。数日前にそれを見ながら交わされた会話を思い出して、溜め息を吐いた。

「式の誕生日まではかからないと思うんだ」
 携帯電話は持ち歩かない。電話は好きじゃない。寝床にしているマンションの一室に電話を引いているものの、それが鳴ろうが留守番電話にメッセージが入っていようが受話器を取る事もない。だからその日も気紛れに橙子の事務所に顔を出すと、バタバタとした様子の二人に嵐の様な伝言を投げつけられた。勿論こっちの事情などお構いなしに。
 ------式、遅かったね。留守番が嫌で、来ないのかと思った。ええっ、暫く事務所を空けるからって何度も電話したじゃないか。もしかして聞いてない?ああ、式じゃないか。鍵は引き出しに入っているけど、いちいちかける必要はない。カチャ。でも戻るまでなるべくここにいて欲しいの。何かあったらお願いね?あ、幹也クンー!これも車に積んでおいて。うわ、橙子さんこれ何が入っているんですか?信じられないほど重いんですけど。うふふ。ヒ・ミ・ツ♡
……それに覚えておく必要もないエトセトラ。
「お留守番よろしくねー」
 軽薄な声とひらひらと揺れた橙子の手が景色の向こうに消える。ため息は誰にも聞かれない。やれやれ、トウコたちの話は無駄に長くて困る。
バタン、とドアが無機質な音を立てて閉まった。



 ガチャリ、ドアが開く音がした。
 長い緑の黒髪と白く折れそうな四肢を持った、百合のような女が座っていた。
「……あいつならいないぞ」
彼女はその表情のない貌でくすり、と笑った。
「あなたが代わりに連れて行ってくれたんでしょう?」
 式はこの女がフェンスの向こう側へ堕ちていったのを思い出した。音もなく花弁が散るように、ただ闇に溶けていった。ここに居るのは残像だ。あまりにも脆くて透けてしまっているモノ。

 隣を見ると彼女が震えている。身体を抱きしめるように両手を背中に回しているが、震えは止まらない。------ここは確かに寒い。
「寒いのか」
 抑揚のない声が夜に響く。彼女は答えず、ただ首を横に振った。おしゃべりなやつが二人ともいないので、会話は手で千切ったみたいにぶつぶつと切れてしまう。
 蛍光灯がパチパチと音を立てて瞬いて、その後また暗闇に戻る。女の身体がびくん、と一度だけ痙攣した。小さい口から押し殺した声が聞こえたけれど、何と言ったのか解らなかった。彼女の用事はそれで済んだのか、音を立てずに立ち上がる。向かった先は建物の屋上に繋がる扉の方だった。きっと高いところが好きなんだろう。
 カチ、と時計の針が鳴った。
「お誕生日おめでとう、わたしの死神さん」
 彼女は振り向く事なくドアの向こうへ消えた。時計を見ると針が天辺を指している。今日は昨日になり、明日が今日になった。
二月十七日。時計は午前零時を示していた。



「式!!おまえは一体何を連れて来たんだ?!」
伽藍の堂のソファーで丸くなっていると、トウコの怒鳴り声が本体と共に帰って来た。ちらりと目線だけあげて、あとは無視を決め込んだ。
「余計なモノ中に入れないように留守番を頼んだんだぞ?全くおまえは番犬にもならないじゃないか」
ぶつぶつとボヤくのを微睡む意識の外側で聞いた。とろとろとした眠りの入り口は羊水の中みたいに気持ちがいい。
「あれ、式寝てるんですか?」
「見れば判るだろう。つまらん事は聞くな」
「橙子さんなんか怒ってます?」
身体に毛布か何かが掛けられる。身体が暖かくなって本格的に脳が眠りへと移行していく。
「誕生日おめでとう、式」
薄れゆく意識の中で、今日それを聞くのは二回目だなと思った。