三門市に図書館はふたつある。ひとつは大規模侵攻の後に建てられたもので、新しく綺麗で広い。最新の図書は全てこっちに収蔵されるので、大抵の人はそちらへ行く。もうひとつはこの昔からある小さな図書館である。小さいのは大規模侵攻で本館が壊されたからで、今残っている建物は元々分館だった所だ。蔵書の数はそれ程多い訳ではないので、新しい方へ収蔵しても良さそうなのだが、結局は統合されなかった。資料の多くは三門市の郷土に関係するものや貸出禁止の専門分野図書なので、こちらを訪れる人は少ない。
 蝉の鳴き声が遠く、窓の向こう側で聞こえた。
 私は埃の匂いがする棚を見上げ、順番に掠れた背表紙の文字を追っていく。ふと気になって時計を見ると、午後の二時を回ったところだった。外は一日で一番暑い時間だ。
 その暑いはずの夏の午後の日差しは、ぶ厚いカーテンによって遮られている。普段は冷暖房の恩恵がほとんど受けられない室温に設定されているのに、今日は寒いほど空調が効いている。ノースリーブから伸びる腕に冷風が直接当たる。自身の手で二の腕をさすりながら、上着を持ってくれば良かったと後悔した。本当は調べ物をしたかったけれど、早く外へ出たい気持ちの方が大きい。あの暑いほどの太陽の日差しが恋しかった。貸出禁止図書は概要だけコピーして一旦帰ろう。そう決めてコピー機が置いてある箇所まで急いだ。
 平日の図書館に人はまばらで海の底みたいにしんと静まり返っている。いつもは平日でも、もう少し人が居るのに。リノリウムを歩く自信の靴の音だけが聞こえる。腕に抱えた本が重い。
 業務用の大きな複合機の蓋を持ち上げ、開いた本を挟む。複写スタートのボタンを押すと光の線がピーッと移動する。目がチカチカするので、あまり下を見ない様にしながらその作業を繰り返した。次の本はどこまでコピーして帰ろうかと思っていると、ふと誰かに見られている気がした。もしかしてコピー機の順番待ちかと思ってあたりを見回しても人影はなかった。
「……気のせいかな?」
 視線を感じた方を見ると、さっき本を探していたあたりの棚の奥で、プラスチックのカーテンがゆらゆらと揺れていた。エアコンの風のせいだろうか。カーテンが揺れるたび薄暗い通路がほんの僅かに太陽の光に照らされる。その光景から目を離せないでいると、閲覧室と書かれたプラスチックのプレートの下、本棚の隙間に人が立っているのに気がついた。いや、気のせいかも知れない。そう言えば、閲覧室は二階にあるし、柱の向こうに部屋はないのになんで閲覧室のプレートがかかっているのだろう。柱の下には低い棚があって、椅子なども特に置いていない。そんな所に人が居て気がつかない訳が無い。———誰もいなかった。それなのに、
「やっぱり見られている気がする」
 昼間なのに背筋がゾォッとした。何も変わったものは見えなかったのに、何かが見えてしまうのが怖くて俯いたままコピーを続けた。もし、次に顔を上げた時に此方をジッと見つめる双眸を視てしまったら……。震える手を叱咤して慌ててコピーを終わらせた。印刷が抜けてないかなど確認する心の余裕はなく、紙の束をそのままトートバックに突っ込んだ。
(後は受付で本を借りるだけ)
 両手で持っていた本を抱え直す。貸出カウンターへ本を差し出して、バーコードのついたカードを出す。ピッピッと次々にバーコードが読み込まれていく。よく考えれば、職員の人が居るから一人ではないじゃないか。そう安心したのも束の間、無言で業務をこなす目の前の女性に違和感を感じる。どうしてかこの人が大規模侵攻の日からずっとここに居る気がした。あの日はたくさんの人間が死んだ。スゥッと頭から血の気が下がり身体中に悪寒が走った。寒い。どうして今日はこんなに冷房が強いのだろう。
 カウンターから見える図書館の出入り口は外の光が差していて別の世界みたいだ。ここは寒すぎる。耳を澄ますとバラバラと雨粒が屋根に打つかる音がした。———そうだ。あの日も降り注ぐ雨を避ける事が出来なかった。濡れた服は身体にぴったりと張り付き、ずっしりと水分を含んだ服が重くて……すごく寒かった。ぐらりと世界が揺れて、カウンターに手をついた。
「あー、巫条サン?」
 耳元でザラザラとした低い声が聞こえた。力強く握られた二の腕が熱い。瞬きをすると、隣に諏訪くんが居た。身体が鉛のように重い。
 諏訪くんが貸出手続きを終えた本をまとめて持ってくれるのを、ぼんやり眺める。私は諏訪くんの体温が欲しくて彼の手を握った。冷え切った体には火傷しそうなほど熱い。諏訪くんは生きている人だった。
「大丈夫か?」
 図書館を出ると蝉がうるさいくらいに鳴いている。さっきまでとても静かだったのに……何かが変だ。頭ではそう思うものの身体は、コンクリートが反射する熱を貪るのに忙しい。むき出しになった肌を夏の太陽が容赦なくじりじりと焼く。熱を孕んだ空気を肺いっぱいに吸うと身体を犯していた冷気が出ていく気がした。
 深呼吸をしていると顰めっ面をした諏訪くんと目が合って、心配してくれたんだと思った。
「本ごめんね、持ってくれてありがとう。すごく助かったよ」
「いや、たまたま見かけたんで」
繋いだままだった手を離そうとしたのに、逆に強く握られる。
「貧血だったみたい。もう大丈夫だよ」
 ただ立っているだけなのに、汗が止まらない。手汗が恥ずかしくなってきた頃、諏訪くんはやっと手を離してくれた。喉が渇いて鞄からペットボトルを出してお茶を飲む。ぬるくなった液体を流し込んでいると、隣で諏訪くんが煙草に火をつけた。
 煙草の煙が風に溶けていく。頭一つ分高いところにある横顔を盗み見ると首筋に汗がつたっていた。
「あちぃ」
「明日も暑いみたいだよ」
 朝起きて見たニュースでは暫く猛暑日が続くと言っていた。熱中症になってはいけないと思って持ってきたお茶は、車に置きっぱなしにしたみたいに生温かかった。図書館の中はあんなに寒く感じたのに。
「あそこで何やってたんスか?」
 諏訪くんの目は、図書館の本館があった所、つまり現在はただの空き地になっている場所を映している。そこは名前のわからない雑草が生えているだけの場所だ。図書館の分館は駐車場の後ろにある。私は今どこから出てきたのだろうか。
「えっと」
 白昼夢というものを見たのかも知れない。せめて時間を確認しようとポケットに手を入れてから、スマホを持っていない事に気がつく。鞄をひっくり返しても見つからなかった。でもそんな筈はない。家を出る時は確かに持っていたから。
 諏訪くんにお願いして電話をかけてもらうと、どこからか着信音が聞こえた。音が聞こえるという事は、そう遠くないところにあるらしい。
「あー、さっき蹲ってた時に落としたんじゃね」
 足首ほどの背丈の雑草の中から諏訪くんがスマホを見つけ出してくれた。鳴り続けるスマホを受け取るとまた、誰かの視線を感じた。悪意も敵意も感じない、私を観察するだけの目。
 スマホは真っ黒な画面のまま、ずっと振動している。なんで。どうして。電話は一体どこから掛かってきているのか。今度は暑くて汗が止まらないのに、全身に鳥肌が立った。怖い。
 諏訪くんはゲラゲラと大きな声で笑っている。
 仕方がないから私も泣きながら笑った。

三門市立図書館(分館)/了