警戒区域の中にある残された家の中にはさっきまで人が住んでいた状態のまま———住人はちょっと散歩にでも出掛けただけで、あと五分もしたら戻って来るような気配が———残っているものもある。とは言っても大規模侵攻から数年経った現在では荒れ果てていて当時の面影より荒廃した現状のが目立つようになってしまったが。
 任務中、ある一軒の家が村上の目に止まった。その家はまわりを囲う塀が崩れてはいるものの、家屋に大きな損傷は見当たらない比較的きれいに残っている家だった。玄関が通りに面して正面にあり、二階にある窓には薄汚れたカーテンが掛かっている。
 警戒区域にはそう珍しくはない家なのに、妙に気を引かれた。その事を通信で伝えると「鋼がそう思うなら何かあるのだと思う。みんな調べてみようか」と隊長からの返答があった。部下の発言を無下にしない人ではあるが、こうも信頼されると面映ゆくもある。オペレーターの彼女とも話し合った結果、レーダーでは近界民の反応が無いことからひとりで室内をあらためる事になった。
 ひとりでは危険だと言う意見も上がったが、防衛任務に支障を来しては本末転倒になってしまう。もし異変があっても直ぐに対処出来る様、防衛任務に当たっている他の部隊にも連絡しておく、と言う事で話は落ち着いた。
「どっちもサポート出来る位置で構えてるんで!任せてくださいっ!」
 思わず目を瞑りたくなるほどの大きな声に苦笑しながら、うしろを守る後輩に「任せるな」と声を掛けた。
(まずは外から確認するか)
敷地内に足を踏み入れると、ジャリっと音が鳴る。どうやら、ブロック塀だったものがかなりの範囲に散らばっているらしい。そうこうしている内に、空気がピリリと静電気を纏ったように弾ける。———門がどこかで開いたのだ。
「本部から北西に門発生、現在柿崎隊が交戦中。鋼くんはそのまま廃屋の探索を続けて」
「了解」
 戻るべきかと問う前に飛んでくる指示に、オレはその家の裏手へ回ることにした。手入れのされていない庭木の枝を避けながら回り込むと、勝手口とごみ捨てに使用されていたのであろう汚れたポリバケツが見つかった。蓋は外れて何処かに行ってしまっている。中には縛られた黒いビニール袋が入っていた。ビニール袋の中に入っている物の事はあまり考えたくないな、と思った。掠れたマジックで「生」の文字が辛うじて残っているのを見て生ごみを入れていたんだろうと推測する。上手く分解されていれば良いのだが。
 ポリバケツのサイズが小さいので、この家に住んでいたのはそんなに大人数じゃないのかも知れないなと思った。
 来た方と逆側を歩くと一階の部屋には和室があるのか、障子の剥がれた様子が見える窓がある。なんで廃墟にある障子はみんな穴が空いているかと疑問に思っていると「糊がとれちゃうからでしょ」と返事があった。なるほど。誰かが悪戯しているのかと思っていたのは口に出さないでおこう。
 虫食いだらけになった障子の向こうは、深淵の如く深い闇があるだけだった。
 きっと玄関の鍵は締まっているのだろうと思っていたのに、意外にもドアノブを捻ると扉は簡単に開いた。黒板を引っ掻いたような嫌な音がするものの施錠はされていないようだった。
 廊下の奥は全くと言っていいほど、真っ暗で見えない。開いた玄関から差す光で、廊下に舞う塵がきらきらと反射した。
(別に変なところはないな……)
 自分が感じた違和感は気の所為だったのだろうか?引き返そうかと悩んでいる内に薄闇に目が慣れ、廊下に何か落ちているのが見えた。目を凝らすとそれは廊下落ちているのではなく、点々と何かが滴った跡が残っているのだった。黒ずんだそれは真っ直ぐ伸びた廊下の先まで続いている。裏側に勝手口があったのだからこの奥には台所があるはずだ。
 土足のまま中へ入るのは躊躇したもののトリオン体を解除するわけにもいかないのでそのまま廊下に足を乗せた。案の定ギシギシと軋む床板を踏み抜かない様にゆっくりと体重を移動しながら奥へ進む。
 短い廊下の突き当たりにあったのはやはり台所で、じゃらじゃらと垂れる短い簾を潜ろうとして、足がずるりとすべった。玄関から続く斑点は段々と大きくなり、台所の床にはまだ液体の状態で残っていた。
(どこかから雨漏りでもしているのか?)
 数年前からこの状態で残っているとは考えられない。雨漏りしているなら良く腐らずに残っているものだ、と思った所でぷんと饐えた臭いが鼻をついた。流し台の上にある小窓から僅かに外の光が届いている。それを確認したと同時にぽた、と蛇口から水が垂れた。
(あそこか———?)
 床が腐っているかも知れないと更に慎重に歩を進めているとまたぽた、と水音がする。無音の室内に、呼吸音と足を擦る音、それに水音だけが響く。ぽたん。ずりずり。たん、ぽたん。
(蛇口を閉めなければ)
村上はそう思って蛇口に手を掛ける。ぎゅっと捻ると、止まるどころかザーッと勢いよく水が流れ出した。
(そんな訳が無い。水道なんて当に止まっているはず———)
ゴボボッと咽せる様な音が排水溝から聞こえる。詰まっているのか蛇口から流れる水はシンクの中にどんどん溜まっていくばかりだ。
(水を流さないと)
 シンクに屈み込むと赤錆びた水がひたひたと満ちていた。排水溝が詰まっているのは、茶色い動物の毛がこびりついているのが原因のようだ。
 それを目にした時、足元がぐらぐらと波打つように揺れている感覚がした。
 揺れが収まるのを目を閉じてじっと待っていると、いつの間にか手の平には、ぬらぬらと光る刃こぼれのある包丁が握られていた。


◇◇◇


「……くん。村上くん!大丈夫?」
「ああ、すまない。ぼうっとしていた」
学校からの帰り道考え事をしながら歩いていたせいで、彼女に心配を掛けてしまったようだった。
「疲れてるんじゃない?たまにはゆっくりした方がいいよ」
「いや、大丈夫だ。それよりハチが居なくなったんだって?」
ハチと言うのは彼女が飼っている犬の名前だ。雑種だそうだが、人懐っこそうなクリクリとした瞳と、柴犬の様にくるりと巻いた尻尾がチャームポイントの愛らしい犬である。そう記憶の中から引っ張り出したハチの面影と隣を歩く彼女の顔が重なった。
 心配そうにこちらを窺う黒目がちな目が、物憂げに伏せられる。
「そうなの。繋いでたリードが切られてて……学校が終わった後に探してるんだけど見つからないの」
彼女の震える声に居ても立っても居られない気持ちになる。正直、現在はボーダーで、来馬隊で、自分がなすべき事に取り組むのが精一杯で、彼女に対する好意が友情なのか、恋愛を含むものなのかは自分でもよく分からない。けれど、彼女が困っているのであればなんとかしてあげたいと思う。
「オレも探すの手伝うよ」
「でも、村上くんボーダーがあるでしょ?」
オレの方が身長が高いので、彼女がオレを見ると必然的に上目遣いになる。今日はそれに加えて溢れないように張った涙の膜が、彼女の瞳を潤ませていた。
「防衛任務が無い日もあるから。隊長に相談して時間を作るよ」
連絡先を交換し合って、一旦彼女と別れる。「ありがとう」とはにかみながら微笑んだ彼女の表情にオレの胸は高鳴った。


◇◇◇


 ざりっざりっ。
 わざと足を引き摺って音を立てているのだろう、それは追い詰めるように徐々に近づいて来る。狭い家の中だ。どうやっても逃げられないのは始めから明らかだった。
 それでも彼女の脳味噌は、懸命にこの状況から脱出する方法を考える。追って来るそれは室内が暗いせいか黒い影のように映った。
 ざりっざりっ。
 ゆっくりとした足音には悦楽の気配がにじみ出ていた。きっとこの状況が楽しくて楽しくて仕方がないのだろう。
 震える足が縺れて床に腰を強かに打つ。それでも止まらない歩みに尻餅をついたまま後退りするが、ドンっと直ぐに何かにぶつかってしまう。グラグラと背中で揺れたのは冷蔵庫のようだった。
「———ひっ」
 そいつは目の前まで来ると手に持っていた『ナニカ』をこちらに目がけて放り投げた。『ソレ』はぐしゃ、ともびしゃ、ともつかない音を立てて脇へと落ちた。床に着いた手の甲に生ぬるい液体がかかる。気持ちが悪い。気持ちが悪い。気持ちが悪い。
 悲鳴を上げたいのに、むき出しの喉からは引き攣った音が鳴っただけだった。
 小窓からスッと明かりが入って、覆い被さるような獣の影についている双眸が闇の中に浮き上がる。私をじっと見詰めているぎらぎらした双眸は、眠たげな彼の瞳とは似ても似つかない。
「村上く、ん」
クラスメイトの名前を呼ぶと、目の前の影の口元がニタリと歪んだ。嫌だ———。怖い。こんなの現実じゃない。そうだ夢だ。赤黒く染まった腕が私の首へ伸ばされる。嫌だ嫌だ嫌だ。助けて。
「嘘って言ってよ……」
涙でぼやける視界の中、粘り気のある声が鼓膜を揺さぶる。そいつは嬉しそうに言った。
「家族は一緒に暮らさないと駄目なんだ」


◇◇◇


 枕元に置いておいた携帯電話がけたたましく鳴る。普段マナーモードにしているから気にしていなかったけれど、初期設定の音って結構煩いんだなと思った。
 時刻は午後八時二十分。夕ご飯を食べて居眠りをしてしまったようだ。いや、電気を消しているのだから学校から帰って来た私は寝る気満々だったみたいだ。苦笑して携帯電話の画面を確認すると着信履歴に「村上鋼」と連絡先を交換したばかりのクラスメイトの名前が表示されていた。電話を掛けてくるなんて何かあったのかな、と不安になりながら折り返しの電話をかける。
 数コールで良く知った男の子の声が聞こえた。
「村上くん?」
「ごめん、寝てたみたいだな」
 さっきまで眠っていたせいか掠れた低い声しか出ない。一言目で図星を突かれてじわじわと顔が熱くなる。必死で取り繕おうとするも、咳払いをすると喉にビリリと痛みが走った。
 思わず漏れた悲鳴に、電話の向こうで村上くんが心配そうな声をあげた。
「ううん、大丈夫」
「手短に話すな。ハチの件ボーダーでも声掛けてみようかと思って。それでハチの写真を一枚送って貰えるか?」
「本当?ありがとう!お母さんも喜ぶよ」
「いや、早く見つかると良いな。今日はひとりか?」
「うん。お母さん夜勤だから」
「そうか、戸締りはしっかりな」
「ありがとう。おやすみ」
「ああ。おやすみ」
 プチ、と音を立てて切れるラインにほんの少し寂しさを覚える。ひとりで過ごす夜なんてしょっちゅうあるのに、なんとなく薄寒い気持ちなった。
(窓、カーテン開けっ放しだ。閉めなきゃ……)
 ベッドから降りて開きっぱなしだったカーテンに手をかける。窓の向こう、お向かいのお家の斜め前にある電柱の影が、ゆらゆらと揺れた様に見えて目をこらす。街灯の明かりでは影になっていてよく見えない。
 それは向かいの家の垣根と電柱の間からこちらを凝っと見上げていた。ゾワゾワッと全身の肌が粟立つ。
 真っ暗の中にある二つの目は確かに私の部屋を見詰めていた。慌ててカーテンを閉める。
(変質者……?)
 ばくばくと心臓が脈打つ。警察に電話する?でもただ道に人が立っているだけでは、相手にして貰えないだろう。それならば、家中の戸締りだけ確認して、早いけれど寝てしまおう。きっと寝てしまえば、朝までにどこかに行ってしまうはずだ。
 そう思って自室を出ようとすると何かに後ろ髪を引かれる。不思議に思いながら、部屋の中を目で探っていると、勉強机に置いたスタンドミラーに映る自分と目が合った。
 首に覚えの無い赫い痣がくっきりと浮き上がっている。痛みを感じたのは乾燥のせいではなく、これのせいだったのだろうか。
 震える指でその跡に触れると、ぬるっとしたものが手についた。真っ赤に染まった手の平に、私は大きな悲鳴をあげた。
                                                                         まがついえ/了