人の少なくなったメディア開発室は節電の為に不要な照明が落とされている。仄かに暗くなった部屋の中で、ぽつぽつと発光しているのは残業仲間たちの液晶の輝きである。私たちはトリガーを握る事は出来ないけれど、こうやって闘っているのだ!
「お先に失礼します」
「あ〜、お疲れさま〜」
 そんな風に脳内でモノローグをつけ自分を鼓舞しながら仕事をしていたら、今日もまた最後の一人になってしまった。キリが良いところまでデータをまとめようと思っていると、すぐに日付なんか変わってしまう。キリが良いところなんて永遠にやって来ないのなんて知っているくせに、毎日飽きもせず残業をしている。
 ボーダー本部は大きな建物なので人気が無くなると突然、伽藍として昼間と別の雰囲気になってしまう。古びた学校みたいに、廃墟みたいな感じがする。そのせいで、さっきまでモニタに表示される文字列とにらめっこしていたのに、急に背後や物影が気になりだした。誰もいないのに画面を覗かれている気がする。エアコンの風が吹くだけで、寒気がして鳥肌が立った。(エアコンって消さなかったっけ……?)雑念ばかりが頭を過ぎる。集中出来なくなっちゃったし、今日はもう帰るか。そうと決まれば久しぶりに明日になる前に家に帰ろう。
 全てのデータを保存して少ない手荷物を鞄に突っ込む。携帯と鍵さえ忘れなければ、あと忘れても問題ない。でも……。
 今日もあの踏切を通らなきゃいけないのか。そう考えただけで、胸がずっしりと重くなる。もう仮眠室に泊まってしまおうか、とも考えたが照明の絞られた薄暗い廊下が怖くてやっぱりやめる。この前冬島さんにボーダーには"出る"と脅かされたばかりだ。信じてるわけじゃないけど、とてもひとりでは朝まで眠れる気がしない。本部にいる幽霊と毎日踏切で背後をつけてくる何かはどっちが危険なのだろう。
「はあ」
 早足でボーダーを出て家に急ぐ。家まではそう暗くない外灯のついた道を十五分も歩けば良いだけだ。と言うか警戒区域さえ出ればすぐに根城にしている安アパートが見えてくる。踏切があるので通勤時間帯など列車が通過するのを待つ場合は地下道を通った方が早く向こう側に行けるのだが、階段を降りるのが面倒なので大体踏切の前で立っている事になる。それが最近踏切の数メートル前から誰かが背後をついてくる足音が聞こえる。自意識過剰なのかも知れないが、なんとなく振り返るのも怖くてコンビニに寄ってやり過ごして帰っている。けれど、毎日毎日逃げ回るのも疲れた。そもそも帰宅時間が一緒になるだけで、ただのご近所さんかも知れないし。
 そう、考え事をしながら歩いているとちょうど踏切の遮断機が降りてきた。割と遅い時間に帰る事が多いのに毎回捕まってしまうのはなんでなんだろう。遮断機の警報音が鳴っているのに、今日も背後から足音が聞こえた。
 したしたしたした。
 アスファルトの上を早足に歩く小さな音が遮断機の音に負けず耳に入ってくる。
(ああ、嫌だ。)
 ただ足音がするだけなのに、物凄く嫌な気分になる。やっぱり毎日後ろからついてくるなんて変だ。少しでも距離をとりたくて小走りで進むけれど、遮断機は下りきっているので向こう側には渡れない。
 このまま踏切で立ち止まったら追い付かれてしまうかも知れない。走ってくぐれば間に合うだろうか?そう思って遮断機の向こう側へ首を出して覗く。
 したしたした。
 今度は、すぐ後ろで足音がした。
 踏切の向こう側には人が居るようだが、頭上の電灯が顔に影を落として表情は見えない。自分一人ではない事に安堵するが、足がすくんで動かない。助けを求めようか?いや、ただ背後に人が居るだけで何かされた訳じゃない。ーーどうしよう。
 ふっと、首筋に生温い風がふきかかった。ぞわぞわと両腕に鳥肌が立って頭がパニックになる。いま、息を吹きかけられた?自分の背中にぴったりと張り付く人影を想像して胸がぞぅっとした。遮断機が上がったら走って逃げよう。そう決意して鞄の持ち手を強く握った。
 ざり、と真後ろでいままでとは違う気配と音がして、反射的に顔をそちらに向けようとした。
「振り返るな」
 首を傾けたのとは反対側から低い声が聞こえて自分より背の高い人の胸に頭を抱えられる。肩に回された腕に先程までとは違う意味で、どきっとした。セーターから重いウッド系の深いあまい香りがする。
「あ、あずまくん……?」
「そのまま。何を見ても静かにしてられるか?」
 わかったと伝える為に黙ったまま二回頷く。正直何が起こっているのか全くわからないし、異性に抱きしめられてる今の状況で頭がパンクしそうだ。東くんとは年が近いので何度か話をした事があるが、取り立てて仲が良いわけじゃない。彼の周りにはいつもたくさんの人がいる。わたしが理解できるのは、東春秋めっちゃ良い匂いする……!と言うことだけだ。
 ざりざりと砂利を踏む音がして、すっと黒い影が踏切の中へ入っていく。声を出す前に東くんの腕に力がこもって、視界が塞がれた。
「?!」
 その瞬間列車が踏切の中をスピードを出してごうっと通過して行った。唸るような音がして、突風みたいな風が吹いた。
「多分、もう大丈夫だと思うぞ」
 顔を上げてると、遮断機の上がった踏切には誰もいない。さっきは反対側に人がいたはずなのに、どこにもいない。引き返してしまったのだろうか。
「急に悪かったな。本部を出る時に声を掛けたんだが、聞こえなかったみたいだから」
「ううん、ありがとう」
 本部を出る時になんか誰にも会わなかったのに。考え事をしていたから、気がつかなかったのだろうか。歩き出した東くんに支えられ凭れかかるようにして踏切を渡る。
 電灯がジジッと音を立てて瞬いた。まだ、誰かがそこで私たちを見ている気がする。
「家こっちだったよな。送って行くよ。……それとも俺の家に、行こうか?」
 夜の闇に甘い香りが漂う。まだ身体に残る恐怖と香水の匂いに頭がくらくらした。
 私はどうしたらいいのかわからなくて、彼の顔を見上げる。東くんは夜の中でにっこりと微笑んだ。きっと彼に身を任せれば大丈夫、そう感じて彼の手が離れて行かないように、セーターの裾をぎゅうと強く握った。

怖いのどっち/了