社会人四年目。
 責任がある仕事も任されるようになったし、後輩だっている。毎日同じような事の繰り返しだけど、それは安定している証拠で多分悪い事じゃなかったはずだ。

 恋人とも付き合って三年。一緒にいて安心するような仲だ。たまに言葉が足りなくてすれ違う事もあったけれど、きっとこのまま結婚するんだと思っていた。

 その人は、職場の同期だけど院卒なので年齢は年上で。頭は良いけど冗談も通じるし、連絡もまめにしてくれるタイプだった。そうでもなくても、部署が違うものの会社で顔を合わせる事も多かったので特に問題もなかったのだ。
 ……そう思ってだのは私だけだった。

 まさか昨日まで同じベッドで寝ていた彼が、職場の若い子と結婚するなんて言い出すとは思いもしなかった。確かに最近素っ気ないとは思っていたけれど、仕事が忙しいと言っていたのでそのせいなのだと思っていた。まあ、その職場で後輩と愛を育んでいらっしゃったらしいです。
 そんな事にも微塵も気が付かないでご飯を作って待っていた自分が信じられないし、三人とも同じ職場なのも辛かった。
 結果事態が発覚して一ヶ月後、私は未来の事を考えずに自分の心を守るために仕事を辞めて、辞めたその足でそもまま会社の借り上げ社宅をスーツケース一つで飛び出した。



「あ〜〜〜」

 なんの計画もなく乗り込んだ電車は平日と言うこともあってガラガラに空いていた。終点まで乗って更に遠くへ行く線へ乗り換えても良いかもなんてぼんやり考えながら窓の外を眺める。春の弱々しい光が車内を照らしている。それが朝の光に似ていて、彼と夜を過ごした後の柔らかい時間を思い出させた。ぐぐっとせり上がってくる涙の気配を感じて、私は慌てて天鵞絨駅という駅で電車を降りた。
 改札を出たのは良いけれど、一度も降りた事のない駅だった。あてもなく歩いているとヒールを履いた足が運動不足と靴擦れで、じくじくと痛み出したので見つけた公園のベンチに座って空を仰ぐ。
 会社から出来るだけ遠くに行きたかったのに途中で降りてしまった自分にも呆れているし、さっきまで晴れていたのに見上げた空がどんよりと重く濁っていて深いため息が出た。
 職もないが住む場所もない。結婚すると思って貯めていたお金が少しあるので、今すぐ働かなくても死にはしないが、いつまでもふらふらしている訳には行かないだろう。今日はホテルでも取るしかないか……。もう一度電車に乗る気力が湧かないので、近くにあれば良いのだが。なければ漫喫か最悪夜を越えられればカラオケでもファミレスでも構わない。
「はあ」
何度目かのため息。平日なので公園の人はまばらだ。時折通り過ぎる人にチラチラと見られるけれど、そんな事に関心を割けるほど余裕もなかった。
 公園のベンチにだらりと座り、背もたれに頭をのせて呻く。こんな姿知り合いに見られたら終わるな〜なんて思っていると、灰色の空からぽたりと水滴が落ちてきた。あれ?と思っている間に水滴は瞬く間に雨脚を強くし、ザアァっと音を立てて降りはじめた。
「嘘でしょー」
傘は持って来ていない。そもそも、必要最低限以外の荷物は処分してしまったのだ。彼に貰った物だけ以外にも彼の面影が散らつくのだから仕方がない。
 駅前まで戻ればコンビニがあったはずだが、既に結構濡れてしまったし、何よりスーツケースがあるので走ろうにも走れないのだ。
 突然の雨に立ち上がったはいいものの動くに動けず、雨によって塗りつぶされていく地面を見ていた。

「お姉さんさんかく持ってないの〜?」
 雨が降りはじめて公園にいた数少ない人たちも足早に立ち去って行ったはずだったのに、急に声をかけられびくりとして辺りを見回す。そんな私を余所に、ベンチの正面にある木から"しゅたっ"と効果音を口に出しながら、人が飛び降りてきた。その人は猫のようななめらかな体躯を鮮やかにひるがえして着地した。
 立ち上がると頭ひとつ分は大きい少年は小学生や中学生には見えない。今時の若い子の間では木登りが流行っているのかな……なんて若干現実逃避をしていると、オレンジ色の垂れ目が覗き込むように向けられていた。
(整った顔をした子だなあ)
「おやー?」
「な、なんでしょうか」
ぽたぽたと前髪から垂れる水滴が視界を邪魔する。目に入りそうで顔を顰めると、名前も知らない彼の手がおでこに触れた。
「お家ないの?」
「えっ」
 予想外の言葉にびっくりしてぱちぱちと数回瞬きをする。濡れた前髪を目にかからないように流した指が離れていくのをじっと見つめる。私の居場所っていまどこにあるんだろう……。
「私のお家……なくなっちゃった」
そう口にした瞬間に、涙がぽろっとでた。振られた時も会社を辞める時も泣かなかったのに。さっきだって涙が溢れる前に歩き出せたのに。
 それっきり黙った彼女に三角は閃いたように両手をぽんっと合わせた。
「うーん、とりあえずかんとくさんとこいこ!」
「……」
 もういい大人なのにこんなところでびしょ濡れになってなにしてるんだろう。本当に馬鹿みたい。誰にも必要とされてない私なんかこの世界から消えちゃいたい。
「こっち!」
 男の子が私の手をぎゅっと握った。冷たく冷えた私の手とは反対に温かくて大きな手だった。どこに向かっているのか分からないのに引っ張られるまま歩き出す。いつの間にか左手に持っていたスーツケースも彼の手に握られていた。
 繋いだ手が熱くて、また涙が出た。差し出されたこの手を離したくなくて、名前も知らない男の子の後に無言でついて行った。



 喫茶店に古着屋、古そうなお店も真新しい建物もごちゃ混ぜの街を歩く。秘密基地みたいな家があったり、どこからか珈琲の芳ばしい香りがする。何度も立ち止まりそうになるけれど、強く引かれる腕のせいで足を止める事は許されない。何度も道を曲がると、ある三角屋根のお家の前で男の子が歩みを止めた。
「ここがね〜、オレ達の家。大切な場所」
 元々垂れ目がちなまなじりを更に下げてふにゃふにゃと彼は笑う。言葉通りにここが彼にとって大切な場所なんだと言うのが伝わってくる。そんな場所があるのが羨ましくて、でも目の前の男の子が幸せなのが嬉しくて胸がぎゅうとした。一度おさまった泣きた気持ちがまた溢れそうになったので、意識をお家の方へずらす。
 窓の多い大きな家にはMANKAI寮と書いてある。満開って意味だろうか。不思議な名前だと思った。
「やった〜、鍵空いてるから入れるよ」
 恐ろしい事を言いながら男の子が玄関の扉を開けて入っていく。この子ここに住んでるんだよね?不法侵入じゃないよね?不穏な言葉に、ついさっきまで胸を締め付けていた感情がどこかへ飛んでいく。
「はやくはやく〜」
「あ、うん。お邪魔します……」
勝手知ったると言った雰囲気で室内に入っていく彼に続いて家の敷居を跨いだ。玄関は広く靴箱も大きい。声を潜める必要はないのに囁くような声量で挨拶すると、男の子がにこっと笑った。門にはMANKAI寮と表札が出ていたけれど、寮という雰囲気はあまりない。なんていうか、普通の家だ。
「誰かいるといいねえ」
「あ、床濡れちゃう」
あまりにも雨に打たれすぎて二人とも完全に濡れ鼠である。彼はこの家に所縁がありそうだけれど、私は他人だ。このまま人様の家に入って床を濡らすわけには行かない。それなのに彼は手を離してくれなかった。
「だいじょうぶだいじょうぶ」
「ほ、本当?」
「タオル持ってきてあげるからあっちの部屋で待ってて〜」
ふわふわしてるしなんか不思議ちゃんぽいけど、本当に大丈夫なんだろうか。というかそもそも知らない人に付いてきちゃってる私も大丈夫なんだろうか。
 待っていて、と言われた部屋はどうやらリビングとキッチンダイニングのようだった。びしょ濡れのままソファーに座るわけにも行かないのでドアを入ったところで立って待っていた。
「おみがいた〜!タオル持ってきてくれて、飲み物もくれるって」
「えと、ありがとう?」
おみさんと言うのが誰なのか(多分保護者的な寮母的な人かな?)わからないけれど、話をしてくれたみたいなのでお言葉に甘えることにする。すぐにこちらへ向かってくる足音が聞こえた。
「三角ー?監督さんはいいとして左京さんは説得するの難しいんじゃないか?」
開け放したドアから入ってきた人と目が合う。優しそうな声だが、目が合ってから固まってしまった。あれ?やっぱり彼のお言葉に甘えるのは不味かったかな。
「あ、あの、お邪魔してすみません」
「いや……雨大変だったな。良かったらタオル使ってくれ、下さい」
「ありがとうございます」
「おみありがとう〜!」
 おみくんと言う男の子が渡してくれたタオルを受け取ると、ここに連れてきてくれた青い髪の男の子がまたふにゃっと笑った。今更だけれど、この人も結構濡れている。
「あの、君も濡れたままだと風邪引いちゃうよ」
「ん〜〜じゃあ、一緒にお風呂はいる?」
「え?!」
「あー、二人とも温まった方がいいかもな。えっと、お名前は?」
「あ、綾波レイです。でもあの流石にそこまでは」
「レイさん」
「は、はい」
「伏見臣です。ここはMANKAIカンパニーと言う劇団の団員の寮で、暫く他の団員は帰って来ないと思います。よければ濡れてしまったお洋服も洗濯しますし、お風呂入っちゃって下さい。三角お前はあとな」
 伏見さんは優しそうな顔と声の割に結構強引だった。話を聞いているうちに浴室へと案内され、簡単に設備の説明を受ける。「男物で悪いんだけど、シャンプーやリンスは俺のを使ってください」との事だ。言われるがまま返事をしていると、気が付いた時には何人も一緒に入れそうな広い湯船にひとりで浸かっていた。
「はああああ」
 冷えていた身体に熱いお湯が染みる。ぎゅっと縮こまっていたものが解けていくように感じた。ぶくぶくぶく。体育座りをして顔の半分まで湯の中に沈む。身体が温まってそれだけでまた泣いてしまいそうだった。
 だめだ、一ヶ月間息を詰めていたのが緩んでしまった。今だけ他人のくれる優しさに甘えてしまおう。
 少し泣いたらきっとまた歩き出せる。