一度頭まで湯船に潜って(人様の家でやるなんてかなりマナー違反だったとあとから気がついた)気合いを入れて浴室をあとにする。脱衣所に出ると、洗濯機が音を立てて回っていた。もしかして、びしょ濡れだった私の服を洗ってくれたのかな……。申し訳ない。

 借りたタオルを手にとってはた、と思いつく。
「このタオルめっちゃ水吸うな?!」
じゃなかった。引っ越しするつもりだったから、もちろん着替えや細々したものも持ってきている。けれど全てスーツケースの中だ。走って玄関に向かえば誰にも会わずにスーツケースを運べるかも知れないけど……。さすがにバスタオル一枚で今日はじめて会う人たちの前を歩き回る度胸はない。そもそも恩人である二人にこれ以上変な奴だと思われたくもない。
 脱衣所でうろうろとしてみるも、とりあえず肌の乾燥が気になるので洗面所にある化粧水や乳液をお借りする。寮だけあって色々な人が生活しているのか銘柄も豊富だ。流石にデパコスの高いブランドのを手に取る勇気はなかったので、ドラッグストアで見かけたことのある肌に優しいと謳っているやつをぱしゃぱしゃと手でつけた。
 ドライヤーもテレビでCMをしているものだし、そういえば浴室にあったシャンプーやトリートメントもいいやつが多かった気がしてきた。お芝居をやっているって事は見られるお仕事なわけだし、みんなスキンケアには気をつけているのかも知れない。うーん、偉いなあ。
「レイさん?」
 頭の中で好き勝手に観察して感想を述べていたら伏見さんの声がドア越しに聞こえた。自分の呑気さに呆れる。
「あ、はい!お風呂ありがとうございました」
「男物で悪いんだが着替え置いておいたぞ。他に使うものあったら好きに使ってくれ」
「何から何まですみません……」
ドア越しなので見えないのだが頭を下げる。頭が上がらないと言う言葉の意味が身に染みて理解できた。
「いや、ゆっくりでいいから。談話室で待ってるな」
「はい。わかりました」

 伏見さんの足音が遠ざかって行くのを聞きながら、ドライヤーのスイッチを入れた。凄く気の利くしっかりした人だ。失礼かも知れないが、お母さんみたいな人だ。私なんて友達が家に遊びに来てもここまで気が回らない気がする。
 サイドチェストにきれいに畳まれた服が置いてあった。ああ、新品のメンズパンツまである……。いたたまれなさに、ごめんなさいとその場には居ない伏見さんに謝った。
 彼氏にも服を借りたりしたことなかったな、と思いながら自分の服と違う柔軟剤の匂いがするシャツを羽織る。ソワソワとする気持ちを落ち着けようと思ったけれど、公園で会った男の子が濡れたまんまだったと思い出し借りたものを片付けると急ぎ足で最初に通された部屋に戻った。


「あ、お姉さんおみの服きてる〜!」
談話室と呼ばれる部屋に戻ると、やっぱり濡れたままの男の子がいた。
「あ、ごめんね。先にお風呂借りて」
「んーん!女の子には優しくしろってじいちゃんが言ってたあ」
そう言ってくしゅん、と小さいくしゃみをした。
「三角しっかりあったまってこい」
「うんっ!いってきまーす」

伏見さんがみすみくん(ってどんな字を書くんだろう?)をお風呂に送り出す。彼は濡れて張り付く服を物ともせず、上機嫌に「さんかくさんかく〜!」と聞いた事のない歌を歌いながらぱたぱたと駆けていった。
「あの、いろいろありがとうございます」
伏見さんとふたりっきりになったので改めてお礼を言う。
「いや、服そんなのしかなくて悪いな。あー、甘いのは大丈夫か?」
「いえ……えっと大好きです?」
促されるままソファーに座ると伏見さんに湯気が立つマグカップを手渡される。両手で受け取ると、チョコレートの甘い香りが鼻腔を擽ぐる。「いただきます」と小さく呟いて口をつけると、とろりとした液体が口いっぱいに広がった。
「ん、スパイスが効いててすごく美味しいです!」
最初は気がつかなかったが、シナモンの香りとあとはカルダモンが入っているのだろうか?スパイシーな香りもする。甘過ぎないので、二口三口と止まらない。
「よかった。最近研究してるんだ、改善点とかあったら教えてくれ」
「伏見さんがええと、作ったんですか?」
なんと言うか市販の粉を使ってココアを作るだけでも十分なのに、わざわざこんな手間の掛かる物を出してくれるなんて。傷心中なので、さり気ない優しが心に沁みすぎてしまう。
「はは、こう見えて料理が好きなんだ。それより……三角が公園で拾ってきたって言うからてっきり犬か猫だと思ってたんだが、まさか人間の女性だったとは思わなかったな。なんで傘もささずに雨に濡れてたのか、聞いてもいいか?」
 ああ、だから最初に部屋に入って来た時に驚いた表情だったのかと納得がいった。ここまでお世話になっておいて何も話さないと言うのも失礼な気がして自分の状況をかい摘んで話す。
話しながらだんだん熱を持っていく自身の声に、私は誰かに話したかったんだと気がついた。事情を知っている人には話ずらい内容も、今日あったばかりの伏見さんになら話せた。
 伏見さんは感想もアドバイスもしないで聞いてくれ、時々こんがらがってしまう私の為に質問を挟んでくれた。私の三年間とこれまでの人生を揺るがす大事件はたった十五分で語り終わった。
「大変だったな」
年上の見っともない話のあとも、伏見さんは優しく労わってくれた。気を張っていたのが緩んで、ぐぅぅと盛大にお腹が空腹を訴えた。流石に恥ずかしくて顔を伏せる。頭上で伏見さんの楽しそうな笑い声が響いた。

「お腹すいた〜!」
お風呂上がりのみすみくんが談話室に飛び込んできた。運動神経が良過ぎるのか、動きが人間離れしていていちいち驚いてしまう。伏見さんはみすみくんに慣れているらしく、急に現れても驚かなかった。
「早いけど夕飯にするか。ふたりとも何が食べたい?」
ぬくもりのある瞳でこちらを見る伏見さんにおずおずと手をあげる。
「あ、あの!もし良かったらお礼に私が作ってもいいですか?」
「お姉さんのごはんおいしい〜?」
二人分の視線を受け止めながら、姿勢を正す。私にはひとつだけ他人に誇れる得意料理があるのだ。
「ええと、カレーだけは自信があるんです!!」
「「カレー」」
胸を張った私に伏見さんとみすみくんは無感情な声をハモらせた。そんな二人の様子に首を傾げる。私は料理があまり得意ではないけれど、カレーだけは別なのだ。ちょうどいい事に、スパイスは持って来ているし、カレーに入れる野菜はだいたいどこの家にもある平凡なものだ。助けて貰ったお礼が出来る!と意気込んだ私に反してふたりは何故か遠いところを見ている。
「もしかしてカレー好きじゃないですか?」
「いや、そんなことはないぞ。カレーはいつ食べてもうまいよな」
伏見さんの言葉に胸を撫で下ろした。嫌いな物を食べさせる訳にはいかないからだ。
「よかった!カレーは最強の食べ物ですからね!!」
「「……」」
ふたたび遠くを見たふたりに首を傾げるレイなのであった。