その人を見た時、すべてわかった。

いや違う、彼女を見るみんなの瞳を見て気がついたんだ。

真っ直ぐに、だけど眩しそうに向けられた眼差しには、愛おしいという感情が浮かんでいた。
劇団の全員と顔を合わせたのはもう少し後だったけれど、表に出る分量が違うだけで例外なく全員が彼女を大切に思っているのがわかった。

みんなの注目は彼女に注がれていて、私なんか気に掛けてない。
それがわかった時すごくほっとした。

ほっとしたと同時に、つい昨日まで働いていた場所で私に注がれていた憐れみや好奇心による視線に心底うんざりしていたことにやっと気がついた。
純粋に私を心配してくれた人もいたかも知れないけれど、どうせ面白おかしくランチタイムのお喋りのネタになるだけだと思っていたから私から誰かに事情を説明したりはしなかった。
何か聞かれた曖昧に微笑んでいるとみんな勝手に解釈して去っていった。


ひとりでまた動けるようになるまで、それまででいいから
この居心地の良い場所でそうっとそうっと傷を癒したい。

他人の意味のない言葉で勝手に傷ついて泣いたりしなくなるまで。















玄関に置きっ放しだった雨に濡れたスーツケースは、ファスナーの隙間から雨水が染み込んでいて中身がずぶ濡れだった。
持ってきた洋服に着替えるのは諦めて秘伝のマイ・ブレンドスパイスだけを取り出して台所へ向かう。

なぜかカレーに使う野菜もまた様々なスパイスも常備してあって、ここの住人はカレーが好きなんだなと思った。

それならば、尚更下手なものを出すわけにはいかない。
気合いを入れて作らねば!!と決意を新たにして伏見さんに借りたTシャツの袖を腕まくりした。

「もうできた〜?」

みすみさんが急に後ろから覗き込んできたので、濡れた髪が首筋にあたる。

「ひゃあ!髪の毛濡れたままだと風邪引いちゃいますよ」

鍋をかき回していた手を止めて振り返る。
ゆっくりとした話し方と本能に直結したような行動に、背が高いのに子どもみたいだなと思った。
濡れた髪を犬のようにぶるぶると振ったので水しぶきが飛ぶ。
なんだか「しょうがないなあ」という温かい気持ちになって、手を止めた。

みすみさんの首にかかっていたバスタオルを拝借して高いところにある頭を背伸びしながらわしわしとふいた。

カレーは少しでも寝かせた方が味が落ち着いて美味しいから。

タオルの隙間からこちらを見つめるみすみさんの視線とぶつかった時は胸がドキッとしたが、すぐにふにゃふにゃと気持ちよさそうに目を細めたのをみてこちらも笑顔になる。
本物の犬を撫でているようで癒されるなあとニコニコしていたら、談話室の扉が勢いよく開いた。


「な、な、見知らぬ女子が三角サンといちゃついてるっスー!!!」
「はあ?……ほんとだ、けどそれより臣の服着てる方が怪しくない?」
「幸チャンこれは不純異性交遊っスーーー!!!」

赤い髪の男の子と緑色の髪の女の子が入ってきた。
どうやって返事をしたらいいのか固まっていると、伏見さんと髪の長い女性が入ってきた。

「ふたりともどうしたの?」
「太一たち帰ってきたのか」

「ええと、わたしは、えっと」

女性がツカツカとこちらへ歩いてくる。
なんだか分からないけれど誤解をされている。
やばいぞ、早く私の身の潔癖を説明をしなくては!と思うものの、
ほぼ一緒に住んでいた恋人に振られた上に恋人の新しい彼女が私と同じ部署の新入社員の女の子であまりにも居たたまれないから逃げるように仕事を辞めてついでに着の身着のまま貴重品だけスーツケースに入れてその家も出てきたが雨も降ってくるし頼れる友人も居らずどうしたらいいのか公園で途方にくれていたところこのみすみくんという男の子に拾われたんですって成人女性が言えるか?!とぐるぐる思考している間にどんどんと時間が過ぎていく。

みんながなにかを言っているのはわかるが、なんと言っているのかがわからない。
その意思の強うそうな瞳をした凛とした女性が歩いてくるのだけスローモーションで見えた。

私の前を通り過ぎ、火を止めたばかりのカレーの鍋の蓋を持ち上げる。
くんくんと可愛らしくて匂いを嗅いで閉じていた瞳を開いた。

「この香り、臣くんのカレーじゃない!」そう彼女は叫んだ。「そして私のカレーでもない!!」

スプーンを取り出し、慣れた様子で掬って口へ運ぶ。

「…!!」

ぱちぱちと瞬きをする様子は驚いていても可愛らしい。

「これはうちにあるスパイスだけじゃない…?」
「えと、すみません。私がブレンドしたやつなんです…」

他にもっと言うべき事があるだろうと思ったのだが、口に出たのはカレーの事だった。

「このカレー貴方が作られたんですか?!」
「は、はい」
「ちょっとあっちでお話をお聞きしても?!」
「も、もちろんです。実はこのスパイスの配合にたどり着くまで色々ありまして…」
「わかります!私も自分のオリジナルの配合にたどり着くまでに…!」

目がキラキラと輝くその女性がカレー好きとわかるとこの台所に揃えられたスパイスの種類の豊富さに納得が行く。
生まれてこの方カレーについて語り合えるような友人はいなかった。
むしろ友人はルー入れて煮るだけなんだからカレーなんて全部一緒でしょ?派だった。
彼氏は星の王子さま一択の甘党だったし。いや星の王子さまには星の王子さまの良さがあるけどね?!

そんな訳で、アウェイな場所であると言うのにテンションが上がってしまったのだった。

「カレー星人の仲間が増えた…」

呆れた声が後ろで漏れるのも気づかずに、古市左京さんと言う人が帰って来るまで、私たちのカレー(スパイス)談義は続いた。