冷たい窓ガラスが部屋の暖かい空気に触れて、薄い膜が世界の内側と外側の間をおおった。
それは私と世界を隔てている膜によく似ている。

つつ、と指をすべらせると集まった水滴が、重力に引かれてガラスをすべり落ちる。
人間も肌にナイフをすべらせると血潮が溢れるので、一緒だなと思った。

膜を切り取られた窓の外には、澄んだ黒が夜になってどこまでも続いているのが見えた。










 私のアパートから駅に行くまでの道に一軒のお花屋さんがある。そこはこじんまりとしたお店だけれど、隅に置かれた花まで手入れが行き届いていてとても素敵な花屋さんだ。
 殺風景な部屋に暮らしている私は、その花屋さんによく花を買いに行く。室内で仕事をしているので、部屋の中に生きているものがあると元気がでるのだ。
 基本的に切り花ばかりだけれど、いつか部屋の中をジャングルみたいにしたいと思っている。生命を煌めかせながら強い香りを放つ、偽物みたいにつやつやした花や緑の中で眠れたらどんなに良いだろう。でもきっと私はジャングルを作る前に、植物を枯らしてしまう。寒いのが好きだから。

 私が花屋さんを訪れるのは、平日の昼間かお店が閉まるギリギリの時間だ。その時間に行くとお客さんが少なくゆっくりと花を見る事が出来る。季節ごとに変わっていく花のショーケースを眺めるのは楽しい。
 お花屋さんを散歩コースに組み込んでいたので、足繁く通っているうちに店員さんとも顔馴染みになってしまった。今日もいつも見る大学生くらいの男の子がガラスケースの花を整理しているのに気が付いた。

「こんにちは」

丁度目が合ったので挨拶をすると、彼がふわっと笑う。

「レイさん、今日は梅がはいりましたよ」
「本当?まだ一月なのに」

 丁寧に花をカットしていた月岡さんの側へ行くと蝋梅を見せてくれた。まだ蕾が多いけれど枝に顔を近ずけると梅の芳しい香りが鼻腔に広がった。
 部屋に飾る花を買う時は香りを楽しみたいので、窓を開けた時に外の空気と香りが一緒に流れてくるくらい香りがしっかりしたものを選ぶことが多い。冬にはそういったお花はあまりないのだけれど。

「いい香り。椿もあんなに美しい花が咲くのだから、香りがしてもいいと思わない?」
「ふふ、そうですね」
「冬はさびしくていやだな」

 月岡さんにいくつかお勧めを聞いた後、作業を邪魔しないように店内を見てまわる。その時花じゃない、知っている香りがした。

「紬」

 低いけれど艶のある声が名前を呼ぶと、月岡さんが振り向いた。あの淡く光を放つしなやかな髪は彼しか持っていない。二言三言会話をする様子は、家族の会話を彷彿とさせるような親しげな雰囲気があった。
 あまりにも凝視していたせいだろう、視線に気が付いたアズマが振り返った。

「あれ?レイじゃない、こんな所でなにしてるの?」
「久しぶり。お花屋さんにお花買いにきたの」
「ふふ、そうだね。元気にしてた?」
「ええ。あなたが休業してくれたおかげで大忙しよ」

 月岡さんが私たちのやり取りをきょとんと見ている。アズマが添い寝屋をやっていたのを知らなかったのなら余計なことを口にしたと後悔しかけた時、なんて事無さそうにアズマが私と月岡さんに紹介をしてくれた。

「あ、紬ごめんね。こちら元同業者のレイ、でこちらはボクの劇団のリーダーだよ」

アズマが添い寝屋を辞めると言った時詳しい事は聞かなかったのでけれど、まさか劇団に所属していたとは驚きだ。

「アズマはいま演劇をしているの?」
「うん、そうなんだ」

アズマが役者さん……。

「知らなかった……」

 アズマも月岡さんも私が思っているお芝居をする人のイメージとは違った。じゃあ、どんな人が役者さんなのかと問われると困ってしまうのだけれど。なんだかふたりと演劇を結びつけるのが難しくてぼうっとしてしまった。

「レイさんは……」

月岡さんが困ったようにアズマと私を見るので、何となく言いたいことがわかった。

「添い寝屋をやってます。だからこうして平日の昼間にぷらぷらしたり出来るんですよ」

 そうだったんですね、と月岡さんが嫌味のない笑顔をむけてくれる。とても育ちがいい人だなあと思った。それにこのアズマを受け入れているだけある。
 添い寝屋をやっていると言うと、露骨に嫌な顔をされたり偏見の塊みたいなアドバイスを押し付けられる。確かに水商売じゃないかと言われればそれまでなのだけれど、そもそも仕事に優劣はないと思っている。
 私もこの仕事をしてからそう思うようになったので、偉そうな事は言えないが。

「レイちゃんと寝てる?顔色が悪いよ」

いつ見ても美しいアズマの指が、目の下を優しくなぞっていく。とても冷たい指だった。私はうっとりと瞼を瞑りながら、海の底へ沈んでいきたいと思った。

「うん、何だか最近昼間は光もうるさくって……」

音も光も届かない深い暗闇の底へと。







 紬が働いている花屋さんを覗いてみようと思ったのは単なる気まぐれだった。冬は寒いし乾燥しているからあまり外に出るのは好きじゃない。(夏も暑いし紫外線が多いから必要最低限しか外に出ないけど)
 足を踏み入れたその小さく可愛らしい花屋は、冬でも緑でいっぱいだった。それで、昔の事を少し思い出した。大きなベッド以外ほとんど物がない部屋に住む彼女は、薄いシルクのシュミーズを着ていた。
「部屋の中にね、ジャングルを作りたいの。虫や小鳥も間違えちゃうような、そんな温室みたいな部屋で眠りたいの」
 あんまりにも彼女の見た目から離れた話だったので、きっと冗談だろう。彼女は彼女は生きている物より冷たい大理石の方がよく似合った。
 カウンターの向こうに、紬が立っているのが見えた。植物に囲まれている紬はとてもリラックスしていて、演じている彼とはまた別の魅力がある。
 その背中に声をかけると他にも紬を見ている人がいるのに気が付いた。

 ざっくりとしたセーターを着て、髪をおろした女性は柔らかい影に包まれている。ひと目でレイだ、と思った。触れたら壊れそうな曲線と、遠い虚ろな瞳を持っているのはレイしかいない。

 思わず名前を呼ぶと彼女はまぶしそうに顔をしかめた。なんだか彼女が透明になって消えてしまいそうに思えて、その腕を引き寄せた。近くで見ると目の下にうっすらと隈がある。嫌な予感がした。
 添い寝屋は夜眠らない仕事だ。そのかわり太陽が出てから眠る。
 添い寝を必要とする人は、心や身体に傷がついて眠れなくなった人達なので、眠れなくて不安になっている人の隣でぐうぐう居眠りをする訳にはいかない。彼女、もしくは彼が安心して眠れるようにベッドを温め、悪夢で飛び起きた身体に飲み物と幽かな笑みを与えるのが仕事だ。
 カウンセラーのように言葉にして相談に乗ったりする事はほとんど無いが、それでも一緒に夜を過ごせば気が付いてしまう。同じベッドに横になっていると、夢を共有してしまうのだ。
 その時どんな夢を見ても、ボクたちは曖昧な笑顔を浮かべるしかできる事はない。彼らが抱えた傷を癒すのは彼らなのだ。だからあまりにも個人に入れ込みすぎるとこの仕事は続かない。

 彼女はボクから見てもプロだったから心配はないと思う。そう思っていたのに口から出た言葉は、それとは反対の言葉だった。

「ボクが添い寝してあげようか」







 アズマに添い寝してあげようかと言われた時はびっくりした。彼は優しいけれど人を甘やかすタイプじゃないのだ。あんまりにも驚いたので咄嗟に断ってしまった。
自分のいまの状況を考えれば、お願いした方が良かったんじゃないか?と思ったのはひとり、家に帰ってからだった。
 がらんとした部屋の中で、月岡さんに渡された劇団のフライヤーを眺める。美しいデザインのそれには『冬組第三公演"真夜中の住人"』と書いてあった。
 何だか人ごとに思えないタイトルに心が惹かれる。殺風景な台所にフライヤーを置くと、そこだけぎゅっと空気が濃くなった気がした。






 仕事用のベットは海のように広い。泳ぐように両手を広げても、シーツの水面がどこまでも続いている。仕事前にアイロンをかけたシーツはパリッとしていて清潔だ。
 せっかく隣で安らかな寝息を立てていた身体が、目覚める音がした。窓の外へ視線をずらすと、薄っすらと明るくなっている。もうすぐ夜が明けるだろう。
 朝が来るのに怯えた体に、私は何をしてあげられるのだろう。静かにベッドから降りて裸足で台所へ向かう。
 暖かいハーブティーを淹れて手渡すと、強張った身体から力が抜けるのがわかった。まだ鶏が鳴くには早い時間だ。
「もう一度ベットの中で目を閉じて」
 ゆっくりと沈んで行く身体に、呼吸を合わせる。

 昨日が終わって今日が始まるまでのひどく孤独な時間。隣で目を閉じていると、いつの間にか夢が入り込んで私の夢と混じってしまう。
 いつの間にか一艘のボートに乗っていた私は、ただ揺れるボートの中で途方にくれている。オールのないボートはチャプチャプと波立つ水面に漂っている。
 私の向かいには大きな鏡があって、その中にはたくさんのボートに乗った私がいる。どの私も、どこにも行けず、ただ風が立てる波に揺れるばかりだ。
 なんだかそこはとても寒かった。