私は食卓に座っている。
二人で選んだテーブルと椅子はお気に入りで温かい感触がする。
そのウォルナットのテーブルは見慣れたものなのに何故か小さいなと思った。
(ふたりで使うには大きいくらいなのに)
彼が向かいに座ってテレビをぼんやり見ていた。
「おはよう」
声をかけると彼が寝起きの声で朝ごはんをねだってくる。
よくある日曜日の朝だった。
ああ、なんだ。
あの悲しい方が夢だったのだ。
一緒に積み重ねた時間は今もふたりの間に優しく横たわっている。
大丈夫、ちゃんと好きだって気持ちがふたりにあるんだ。
安心してパンをトースターにいれて、コーヒーをマグカップに注ぐ。
朝の柔らかい時間を彼のスマホが切り裂くようにけたたましく鳴った。
慌てたように外へ向かう彼の背中に声をかける事も出来ない。
カップを差し出した手が宙を彷徨う。
ため息とともにテーブルに置いた二つのカップが冷めていく。
ようやく戻ってきた彼は、こちらをあまり見ないようにしながら言った。
「ごめん急な予定ができたからもう行くわ」
「え、今日は一緒に映画見に行くって…」
「悪い、また今度な」
冷たくなった朝食、その奥で閉まる扉。
ああ、それは果たされない約束だ。
私は動くことができなくて、いつまでもそこに座り続けた。
目が覚めると知らない天井が見えるのにも慣れてきた。
そろそろこの天井を我が家だと認識するんだろう。
ただ、枕が冷たくなっているのには慣れない。
夢は覚えていない、けれどきっと私はまだ失ったものを探しているのかもしれない。
最後の方は本当にひどい人だったと思う。
でも確かに、幸せな時間もあったのだ。
腫れた目元を見られたくなくて、足音を立てないように洗面所にむかった。
「レイさん!おはようございます!!」
咲也くんの元気な声で、もやもやが少し晴れた。
「おはよう、地方公演お疲れさまでした」
「いえ!すごく勉強になりましたし楽しかったです」
「うん、咲也くん見てたらわかる」
「ええっ?!本当ですか?!」
ふたりで話しながらキッチンへ向かうとちょうど学生組が出て行くところだった。
「わ!真澄くんこんなところで寝たら遅刻しちゃうよ!!」
いづみさんと咲也くんが真澄くんを揺り起こす。
去年は同じ高校に通っていたから咲也くんが毎日起こしてあげていたそうだ。
咲也くんがお兄ちゃんみたいで微笑ましい。
「監督さん、もう新しい劇団員の募集始めたの?」
ビシッとスーツを着こなした茅ヶ崎さんがいづみさんに声をかけている。
まだ全員の顔と名前が一致しているか不安なのに、どうやらもう新しい人を募集するらしい。
(確かに雇ってもらう時にが劇団員を増やしたいから事務作業をする人が欲しいと言われたんだった)
「条件、一人暮らし(持ち家)にしといてね」
「どんな人が来ても仲良くしてくださいね!」
「え〜」
「え〜じゃありません!」
子供みたいな反応をする茅ヶ崎さんをふたりで見送った。
「新しい人募集するんですか?」
「そうなんです!レイさんにもきて貰ったことだし善は急げで」
「なるほど…」
いづみさんはいつだって未来に向かって全力だ。
全身がきらきらと光っている様に見える。
「さてと、久しぶりにブログの更新でもしようかな。レイさんはうちの公式ブログって見たことありましたっけ?」
「いえ、一緒に見せてもらってもいいですか?」
「もちろんです!」
前回の更新はシトロンさんだった。
なんというか絶妙な日本語の選び方で中毒性があると言うかなんと言うか……。
割と自由なんだなと思ったのは秘密だ。
しかもそのブログを運営する配信サービスのランキング上位に入っていて、感心してしまった。
「あ、シトロンくんいいところに!」
丁度通りがかったシトロンさんを捕まえて3人で顔を寄せ合って画面をみる。
ブログの注目度について褒めるとシトロンさんは悲しそうに首を振った。
「なかなか"ちかウサの辛え〜ブログ"を抜かせないヨ」
「?」
どうやらライバルはカレーを中心とした激辛料理のレビューブログらしい。
カレーという言葉に喉が鳴る。
いづみさんの手が迷わず記事をクリックする。
「あ、このカレー屋さん行ったことある!」
ブログの記事は大きな写真からはじまっていて思わずゴクリと喉が鳴る。
いづみさんの手はどんどん新しい記事へと移っていく。
「こっちのお店はかなり上級者向けなのに、さすがですね!!」
彼女が手を止めた記事の写真には見覚えがある。
思わず口を挟んでしまった。
「独特のスパイスが効いてるんですよね!」
「はい!変化球的ですが、とても美味しいですよね」
「この人写真撮るのうまいな〜」
「確かに、スプーンで掬った瞬間のカレーは最高ですからね」
「そうなんですよ!!」
ふたりで盛り上がっているとシトロンさんが後ろでため息をついた。
「…目の付けどころがマニアックすぎるネ」
劇団募集の記事はシトロンさんにお願いして今日の作業を始める。
備品の整理は大方終わったので、それをデータにまとめている途中なのだ。
色々な条件で検索出来るようにしたいので、試行錯誤しているところである。
天気がいいから洗濯をしながらやろう。
青い空が高く澄んでいる。
深呼吸をすると、少し冷たい風の中に春の匂いが混じっているのに気がついた。
いつか真っ直ぐ前だけをみる美しい人のようになれるのだろうか。
ここへ連れてきてくれた、温かい手を思い出して
それからもう一度深呼吸をした。