ブルームバーグの猫02


人魚姫



人生はガラスの向こうにあるぼんやりしたものだった。
薄いグレーの景色はいつも手が届かない程遠かった。

両親は二人とも仕事にしか関心がなく、家にはいなかった。
勉強や運動を頑張って見たけれど、それで興味を引くことは出来なかった。

碓氷真澄は世界に馴染めなかった。

それからは他の大人たちやクラスメイトに
好意を向けられようが悪意を向けられようが関心が持てなかった。

よく知りもしない他人に関心が持てる事に一種の尊敬さえ覚えた。

でも、あの日俺は女神にあった。
その人は初めから鮮やかでモノクロの世界で輝いていた。

顔が整っているとかスタイルが良いとかそういんじゃなかった。
髪もボサボサだったし、変な奴らと酷いコントみたいなのをしていて
表情だって可愛いって思ったわけじゃなかった。

だけど、その人が俺に声を掛けた時俺は俺じゃないみたいになって、
それは心臓がドクドクして頭の中が煩くて…とにかくはじめての体験だった。

目が離せなくて、彼女の瞳の中に映りたいと思った。

何でも良いから声を聞きたいし、可能ならば彼女に触れたかった。


それで、この気持ちが恋だと知ったんだ。






「ワケありのワケがシビアすぎる」

事情を説明する暇もなく連れてきた皆木綴くんが突っ込んだ。

ヤクザさんは団員を連れてきたところで一先ず今日は引き上げてくれるらしい。
しかし、劇団を取り壊さない為に提示された条件は到底達成出来るようなものじゃなかった。

ひとつ、来月中に新生春組の旗揚げ公演を行い、千秋楽を満員にする事
ふたつ、年内にかつてと同じく4ユニット分の劇団員を集め、それぞれの公園を行い成功させる事
みっつ、一年以内に劇場の借金を完済する事

「お前が泡に沈んで完済するっていうなら、話は別だがな」

「監督が泡に沈めば助かる…」

「いやダメだろ、それは!」

「泡って何ですか?」

「い、いやあ、ちょっと考えてみただけですってば」

支配人の下手くそな口笛を聞きながら、考える。

「お前がこの劇団の総監督になる事、これが最後の条件だ」

私が監督を引き受ければこの劇場はまだ潰れない。
私はこの世界に仮の居場所を見つけられる。

もし、失敗しても私が泡に沈むだけで済むのなら。
これから巻き込む子達には迷惑を掛けないなら。

私は最後のチャンスとしてやれる事をやってみても良いのかもしれない。

この世界に見限られる時は、人魚姫のように泡になって消えるだけだ。


「わかりました。責任を持ってやり遂げます」

「そうか、俺の名前は古市左京だ。千秋楽の空っぽの劇場を見に来てやる」

左京さんは迫田さんを連れて劇場を去って行った。

私たちも劇場を後にして支配人の後について寮へ向かう。

寮は大きくて思っていたより綺麗だった。
(支配人ちゃんと管理はしてたんだな)
綴くんはもう荷物があると言うので、今日から寮を使うようだ。

私も、お父さんが使っていたと言う部屋に住む事にした。
仕事は辞めたばっかりだし、この年だ実家を出て行く事に問題はない。
必要な物だけあとで取りに行こう。
共同生活はあまりした事がないが、きっと大丈夫だろう。
時間がないので、彼らと少しでも一緒にいた方が良いだろうし…。

真澄くんのご両親に許可を取る話から、咲也くんも家族に許可を取ってない事がわかった。
支配人はうっかりし過ぎていつか捕まるんじゃないだろうか。
一度ど突いてから咲也くんのご家族に電話する。
名字も違うし、咲也くんには興味がないような対応に戸惑いながら事情を説明し電話を終わる。
咲也くんは、両親が小さい時に亡くなっていて親戚の家を転々としてると言った。
ここは彼の居場所でもあるんだな。

真澄くんのご両親には電話が繋がらず留守電を残した。
もしかしたら、やたらに私に固執するようなあの態度は
母性的なのを求めてるのかも知れない!

脳内で色々な決意表明をしていると、サッと視線の端で何かが動いた。

「「ギャーーー!!!」

その物体が名前を呼んではいけないGからはじまる生物だとわかった時
支配人と私は思いっきり叫んで近くにいた綴くんに抱き着いた。

「ふたりとも耳元で叫ばないで下さい!」

綴くんが抜け出そうとするので、もっとキツく力を入れる。

「真澄くんこっちじゃなくて、あ、あいつをどうにかして」

高校生に泣きながらお願いをする。母性も何もないが仕方ない。

真澄くんはその辺にあった薄い冊子を丸めて振り上げた。

「サノバビッチ」

「殺しちゃったんですか?」

「真澄くんはそんなこと言っちゃだめ!って咲也くん、相手はGだよ?!」
「そうですよ、ああ、怖かった」

「でも、相手も一生懸命生きてるだけですよ!」

咲也くんは知れば知るほど良い子で、こう言う子を守るのが大人の役目だと痛感する。

「Gの事は置いておいて…、
これからみんなで頑張ろうね!!」

「監督、そう言う大事な事は離れてから言って下さい…」

綴くんの抱き心地が良くて、離れがたいなと思っていたのは内緒だ。