COFFEE TALK

 太陽が沈んで月が昇る頃、やっとその店の明かりは灯る。
Coffee Talk と書かれたネオンが瞬き、その店の主人は一杯目のコーヒーを入れ新聞に目を通す。
この店の一日はこうやって始まる。

 夕方から降り出した雨がアスファルトを覆っていた。
車が走り去って行く度に、地面がライトに照らされて光る。
雨粒に濡れた窓から空席のカウンターが見えた。
きっと今夜も一番乗りだ。
カランと来店を知らせるベルが鳴るドアを勢いよく開けた。

「いらっしゃいませ。」

黒髪の真面目で大人しそうな男の子がカップを拭く手を止めてこちらを向いた。

「あれ?マスターは??」

いつもは無愛想なマスターがひとり気儘に開けているお店なのである。
いつの間にアルバイトなんて雇ったんだろう。
思わず首を傾げた私に、男の子はすこし考えるような素振りをしてから口を開いた。

「貴女がレイさんですか?ええとその、ライターの。」
「そう、新聞に勤めながら小説を書いている、そのライターよ。」

私が言うと彼はにっこりと笑った。

「マスターがいつも貴女の事を話すので会うのが楽しみだったんです。いつもので?」
「うん、いつもので。うーん、なんだか嫌な予感…。」

カウンターにある背の高い椅子に腰掛け、頬杖をついて青年がエスプレッソマシンを操る後ろ姿を眺める。
顔つきは優男風なのに身体は案外しっかりと筋肉がついている。
何か運動でもやっているのだろうか。

「そんな事ないですよ。でもこんなに美人だなんて知らなかったなあ。」

くすくすと笑いながら差し出されたそれは、私のお気に入り。
そのコーヒーは、闇夜より黒くて、地獄より苦くて熱い。

「あー、これこれ。目が覚める。」
「こんな時間に目が覚めちゃっていいんですか?」
「もちろん!…って言うか、締め切りがやばくって。」
「ああ、なるほど。話しかけない方が良いですか?」
「ううん、スランプっていうか…煮詰まっちゃって。むしろ話し相手になってくれると助かる。」
「俺で良ければ。」
「ありがとう。ちなみにマスターは?どうしたの??」

この店の常連であった彼に、(名前は、月岡紬くん。アルバイトをしながら劇団に所属しているとのこと。素敵な名前だ。)店番を任せて、マスターはふらりとシアトルに行ってしまったらしい。何を考えてるかわからないマスターならやりかねない。

「それで店はしばらく閉めていっても良かったらしいんですが、ここを寝ぐらにしている煩いヤツがいるから出来れば空けておきたかったそうですよ。俺もここでコーヒーが飲めなくなるのは寂しかったので引き受けちゃったんです。」
「…もしかしなくても、その煩いのって私?」

 マスターが仕方ないといった風情でそのセリフを言う場面が想像できて、思わず眉間に皺が寄った。
窓を叩く雨音の間に時折足早に移動する靴の音や人の声が混じっては去っていく。
カフェの扉を開ける人はいない。

「まあ、お互い様か。マスターの不作法な愛と月岡くんの厚意に感謝。一杯奢るよ?」
「それじゃあ、俺もエスプレッソ頂いていいですか?」
「うん。ふたりの出会いに乾杯。…なんちゃって。」

それからいくつかの話をした。
このカフェの事、彼のこれまでの人生や演劇の事。私の仕事に、物語について。
どうやら彼は思慮深く、思いやりに溢れ、親切だということがわかった。
静かにかかっているピアノの音が雨音に吸い込まれていく。
悪くない、というかとても良い夜に胸が高鳴る。
この胸の中でパチパチと弾ける様な感触を感じた。

「なんか閃きそう!!」

いつも持ち歩いてるオレンジ色のハードカバーの手帳を取り出すと、カランカランとベルが鳴った。

「はよーっす。」

長髪ワンレン、蜂蜜色の髪にシルバーのピアス。
それが似合う色気のある整った顔。
何となく最近読み直した小説に出てくるヒロインに面影が重なった。

“眠りたくもない。死にたくもない。空の牧場をどこまでもさすらっていたい”

濡れた髪で歌うホリーの声が聞こえた気がした。

「そう、この人がマスターの言ってたレイさん。レイさん、こちらは同じ劇団に所属してて同じくここでアルバイトをしている万里くん、です。」

考え事をしている間に、自己紹介がはじまっていた。

「なるほど。本当に色んなタイプのイケメンを取り揃えてるのね。監督さんは相当敏腕と見た。」
「ふうん、思ってたよりかわいいじゃん。」

隣のスツールに腰掛けて頬杖をつきながらこちらを向いている。

「なんか、言っていることは二人ともだいたい同じなのにこの差は何なんだろう。」

真剣に言ったのに、ふたりは楽しそうに笑った。

端正なコーヒーの香りと、落ち着いた声で交わされる会話。
夜の間降り続いた雨は、朝が来る前に上がった。