私は取り立てて不幸ではなかった。
そして女である人生に不満もなかったと思う。
だから、あの時どうしてあんなことを願ったのか……いまだに謎である。

 帰宅ラッシュの満員電車から吐き出された人の波は、我先へと改札の外へと向かっていく。
私ももちろん例外でなく、頭の中で念仏のように、早く家に帰って身にまとっている窮屈な靴や服を脱いでしまいたいシャワーもご飯もめんどくさいからベッドに飛び込みたいと唱えながら最短距離で出口へと向かっていた。まだ週のはじめだというのに、マスカラで塗り固めたまつ毛が重く感じるくらいには疲れていた。
一秒でも早く玄関の扉を開けたくて速度をあげようと力強く足を踏み出した。その足が地面に着くと同時に、ぐらりと視界が揺れた。あれ?おかしいなと思った時には、冷たいタイルだか何かが貼られている床にぶつかっていた。
地面に強かに打った膝や手の平がジンジンと痛むのを感じながらああヒールが折れたのだな、とそう思った。
直ぐに立ち上がれば良かったのに、のろのろとヒールの折れてしまった左足の靴を脱いでそれをじっと眺めた。ぶらぶらと垂れ下がった踵の部分は今にも千切れそうだ。
ゆっくりとため息をついてからもう使い物にならなくなったそれを、駅備え付けのゴミ箱に捨ててしまうために右のパンプスも脱いで立ち上がった。
ひやりと足の裏から伝わってくる冷気に身体がぎゅっと硬くなった。
確か構内にゴミ箱があったはずだ。いつも見ているはずなのにいざという時には目当てのものが探し出せない。痛みと不安が焦りになって、ふつふつとやり場の無い怒りに変わる。今度は自分を落ち着けようとゆっくりと息を吸った。
取り敢えず時間でも確認しようとスマホを探す。上着のポケットの中に目当てのものは見つからない。確か電車を降りる時、定期券を出す前にポケットに入れたと思ったんだけどな。反対側のポケットや鞄の中も探ってから、歩先に転がっているのに気がついた。
どうやら転んだ拍子に落としてしまったらしい。二度目のため息をついてスマホを拾い上げた。
ひびの入ったディスプレイが、チカチカと新しい通知を表示していた。

 将来への漠然とした不安、憂鬱な毎日、何となく不調な身体、どれをとっても平凡な悩みである。
明日の命を心配しないで済むと言う観点で見れば、むしろ幸福と言っても良かった。
ちょっと仕事で疲れていただけ。パンプスだってこれひとつしか持ってないわけじゃない。スマホだってそのうち買い替える予定だったし、使えなくなったわけじゃない。友達が結婚しようが、親から孫をせっつかれようが、男にふられようが、上司に無茶振りされようが、同期に嫌味を言われようがそれで私が脅かされるわけじゃない。
そう思っているのに、急に目頭が熱くなりじわじわと滲むそれを抑え込む事が出来なかった。



“落日のかがやきに空燃える頃、遠く、その薔薇色の深みを、
 降りてくる露にぬれながら、君はどこに行くのか、ただひとり飛んで。
 猟師の目はむなしく はるか天かける君を撃とうと狙うかもしれない、
 くれないの空に黒い影となり 君の姿が浮かび行く時。”


 自然と足は自宅のアパートとは反対方向に向かって歩き出していた。
会社を出る時にまだ明るかった空は陽が落ち、もうすぐ夜が来るだろう。
ギザギザに荒れたアスファルトがストッキングだけの足を傷つけている。
すれ違う人々の怪訝な目を横目に先程よりも軽い足取りで進む。
左手に持った一足の靴はなにも言わない。

 広い通りを抜けてビルとビルの間の路地へ入る。
一本中に入っただけだなのに、暗さが濃くなった気がした。
お世辞にも治安が良さそうとは言えない路地にカラフルな色彩の少年達がいる。
金髪、赤青緑。色とりどりの髪を持った彼らは単純に綺麗だと思った。
普段外部の人間が来る事が少ないのか、じろじろと無遠慮な視線が突き刺さる。
その視線をぼんやりと見つめ返していると、彼らのひとりが挑発的な足取りで近寄ってきた。
目線を上げる必要があるほどの長身としなやかな体躯、強い光のある瞳の端正な顔立ち。
意地悪そうな表情が、つまらなそうに逸らされてこちらに触れる事はなくそのまま道をあけてくれた。
私の目的地は彼らがたむろしていたその先にあるビルだ。
屋上へと繋がる階段が外についていて、建物の鍵を持っていなくても入れるので地元ではそこそこ有名なのである。
最もたむろしている少年達が居るので立ち入る人は少ないが。
その外付けされた階段を登っていると、少年たちが流しているであろう音楽が聞こえてきた。
笑い声が聞こえて羨ましい、と思った。それから何に?と自問する。
裸足の足に階段は冷たかった。


“君が目指すのは、水草ゆれる湖の
 さざ波に洗われる岸か、ひろびろとした川の淵か、
 あるいは大波がうねりうねって ぶつかり寄せる大海の磯か。”


 錆びついた扉を体当たりでもする様に強引に開けると、地上から空へと吹く風に髪の毛が巻き上がる。
広がった視界には夜の街の光がキラキラと輝いていた。
そんなに高さはない、ように見える。
けれど普段生活している筈の世界が遠くにあった。
少年たちの声も音楽もここには届かない。

 私のせめてもの意思表示に、手に持っていた靴をビルの淵にきちんと置いた。
ついでに鞄と上着も。
身軽になった身体で深呼吸する。
風は止まない。
意味もなく伸ばしっぱなしになっていた髪が、ストップモーションみたいに靡く。
もう一度鞄の所まで戻って、中から目的を達成出来そうな物を探した。
髪を切るのに適当なものがなかったので、無理やり頭から切り離す形になった。
きっと切り口の揃ってない散切り頭だろう。
でも達成感が胸を満たしていた。
むき出しになった首がすうすうして気持ちが良かった。


“ひとつの「力」が存在し、心くばって 君の行く先を導いてくれる、
 道なき岸辺にー 寂しく限りなく広い大空にー
 ひとりさすらっても迷うことのないように。”


 そのまま境界線を飛び越すようにビルの外へジャンプする。
踏み込んだ足が宙を蹴った時、目の間に黒い棺をのせた馬車が現れた。
落ちるとも思う暇もなく現れた幻覚に驚いていると、その中から人の手が差し出される。
空中に足をつく場所はもちろんなく下から吹き上げる風にバランスを取ることもままならない。

「闇の鏡に導かれしものよ 汝の心の望むまま、鏡に映るものの手をとるがよい」

聞こえた声が何を言ったのか理解する前に条件反射でその手を握ってしまうと、ぐっと引き寄せられて馬車の中に転げ込んだ。
明かりのない馬車の中では手の持ち主の顔が見えない。
じっとりとした沈黙が満ちたそこで私はなすすべがない。
高揚していた気持ちは落ち着き、軽くなったと思った体は再び疲労を訴えている。
静かなところで、横になって目を瞑りたいと思った。

「私は誰かに助けて欲しかったわけじゃない。神様だって信じてない」

沈黙は海の底みたいに暗くて、私の声は吸い込まれていった。
真っ黒な馬車に真っ黒な棺。強いて言えば神道に従っている家系にしてはお迎えの趣が洋風過ぎる。が

「差し出したその手に責任は取って貰います!」

両手でしっかりと握り直した相手の手に向かって頭を下げながら叫んだ。
馬車が動き出したのかガタガタと揺れる。

「来世は美少年で!!!」










「ぎゃーーーーーーー?!?!」

何だか急に明るくなったと思ったら、目の前には見たこともない種類の二足歩行をするねこたんが私を覗き込んでいた。

「オマエ、なんでもう起きてるんだ?!」
「喋ったーーーーーー?!?!」

再び悲鳴を上げれば相手も悲鳴を上げる。
どうやら彼には人語を話す事は普通の事らしい。
何だろう色違いのニャースかな。
それより私が起きてる事にびっくりしている。
え、なに?王子様のキスの前に起きちゃいけないとかルールがあるなら事前に言っておいて欲しい。

「まあいい。そこのニンゲン!このグリム様にその服をよこすんだゾ!」

服?と思って見てみると、魔法使いのローブ様な服を着ていた。
袖が大きく広がっていてキラキラとした金糸で繊細な刺繍がされている。
ずる、と被っていたフードが瞼の上にかぶさってくる。
一体これはどう言う事なんだろう。
ちらりと目の前にいるグリムと名乗ったねこたんを見上げる。

「さもなくば……丸焼きだ!」

ニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべたあと、蒼い炎がごうっと吹き荒れる。
熱風が頰に当たって熱い。
赤より青の方が温度が高いんだっけ、熱された空気が喉を焼く。
なんだかよく分からないけど、なんだかよく分からないまま火あぶりで死ぬなんて嫌だ。
いや、理由があったってごめんだけど。そんな中世の拷問みたいな死に方。
ビルの上から身投げした事は棚に上げて、慌てて棺桶のみたいなものから飛び出した。
さっと視線を動かし、目についた出口から部屋の外に出る。

「コイツ!待つんだゾ!」

後頭部に降りかかる声と火の粉に振りかえらず走り続ける。
しばらく無我夢中で見知らぬ場所を全速力で駆けずり回り、敷地の外に出た時には息が上がっていた。
だめだ、もう走れない。
どこか、見つからないところに隠れよう。
走っているうちに脱げたフードのおかげで視界は良好だが、この服はとても走りずらい。
こめかみから汗が伝っているのがわかる。
目についた大きな建物の扉を開けしっかりと閉める。
古い紙と新しい紙の匂いがする。
暗くてよくわからないが図書館だろうか。
あのねこたんが通り過ぎるまで息を殺していよう。
そう思っていたのに

「俺様の鼻から逃げられると思ったか!ニンゲンめ!」

足りなくなった酸素を十分に吸い込む余裕もなく見つかってしまった。

「あの、この服…君には大き過ぎると思うんだけど…」

はあはあ言いながら何とかそれだけ告げてみる。
こんなところで身包みを剥がされるわけにはいかない。
この服に思い入れがあるわけじゃないから、ねこたんが交換できる服をお持ちだったら別にいいんだけど…。
しかし彼に四次元ポケットでもついてない限り、彼が身につけているのはボロボロのストライプのリボンひとつである。

「つべこべ言ってないでその服をーー

炎がこちらに向かってくる気配にぎゅっと目を閉じる。
ヒュッと冷たい風が通り過ぎたと思った時に、グリムの悲鳴が聞こえた。

「なんだぁこの紐!」
「紐ではありません。愛の鞭です!」

助かったのか。
恐る恐る現れた人物に視線を合わせる。

「ああ、やっと見つけました」

艶のある声でそう言われ胸がどきっとする。
顔の半分を仮面で覆われているので、表情がわかりずらい。
漆黒の髪に寒色の口紅がつやつやしていてきれいだ。
きっとすごく整った顔をしている。
じゃなければ、派手な帽子や服に芝居掛かった喋り方と時代遅れな仮面が似合うはずもない。

「ダメじゃありませんか。勝手に扉から出るなんて!
それに、まだ手懐けられていない使い魔の同伴は校則違反ですよ」

嗜めるような声色で言われて肩がびくっと跳ねた。
怒鳴られたわけじゃないのに、身体が強張った。

「反抗的な使い魔はみんなそう言うんです。少し静かにしていましょうね」

暴れるグリムをいとも簡単に抑え込むと逸らされた視線が再びこちらを向く。

「まったく。勝手に扉を開けて出てきてしまった新入生など前代未聞です!どれだけせっかちさんなんですか。とっくに入学式は始まっていますよ。鏡の間へ行きましょう」

小さい子にでも言い聞かせるように言われてしゅんとする。
会社でミスをした時のように怒鳴られた方がマシな気がする……。
そんな私を気遣ってくれたのか金色の爪がついた指を唇に当てながら説明をしてくれた。

「この学園に入学する生徒は全てあの扉をくぐってこの学園に来るのですが、特殊な鍵がかかっているのでこちらで開くまで生徒は目覚めないはずなんですけどねえ」

なんだかアニメとかゲームとかみたいな話だなぁと思って聞いていると、彼がじっとこちらを見ていた。

「それまでの世界に別れを告げ、新しく生まれ変わる」

重々しくも誇らしげに彼は言う。
今はブーツを履いている足が、ひやりとしたコンクリートの熱を思い出す。
不安に駆られて自身の髪に触れようとするが、短くなった髪に触れる事なく宙を彷徨った手を開いたり閉じたりしてから結局下ろした。

「あの扉にはそんな思いが込められているのです。おっと!長話をしている場合ではありませんでした」

行きますよと背中に添えられた手に反発するように、ぐっと立ち止まる。
おや?という顔で見下ろされて言おうかどうか迷っていると、どうかしましたかと先を促してくれる。
ちょっとばかり質問のタイミングが遅い気がしたが、今まで取り込んでたから仕方がない。
今言うぞ!言ってやるぞ!と自分に自分で気合を入れた。

「あの、ここはどこですか?」

初対面の人にあなたは誰ですか?とはさすがに聞けなくて、遠回りな質問をしてしまった。
ここは図書館ですよ。とかそこじゃない系の返答がきたどうしようと思っていると

「君、まだ意識がはっきりしてないんですか?空間転移魔法の影響で記憶が混乱しているんですかねぇ」

全然困ってない様子で、「まあいいでしょう。よくあることです。歩きながら説明してさしあげます。私優しいので」と部屋を出て行ってしまった。
置いて行かれても困るので、慌ててついていく。

「くうかんてんいまほう?」

漢字に変換する事は簡単だったけど、話の文脈からすると不正解な気がしてひらがなで呟いた。
こうそく、つかいま。わたしほんとうにうまれかわっちゃったのかな。

外に出ると、夜が明ける前なのか薄暗い中庭は肌寒かった。
汗がひいたせいで余計に寒気がする。身震いをしてから、脱げていたフードを被り直した。

「ここはナイトレイブンカレッジ。ツイステッドワンダーランドきっての名門魔法士養成学校です。そして私は理事長よりこの学園を預かる校長ディア・クロウリーと申します」
「はあ」

まほ、うし?が何だかわからないけど、学校なのと、この人が校長なんだと言うのはわかった。
専門的な大学みたいな感じかな。

「この学園に入学できるのは『闇の鏡』に資質を認められた者のみ。貴方のところにも『扉』を載せた黒い馬車が迎えにきたはずです」

ぎゅっと握りしめた手の平を思い出す。
あの世へのお迎えだと思っていたものが、どうやら学校へ入学する為のものだったらしい。
いや、意味わからんな?そんなに都合よくあの息の詰まる現実から逃げられるわけがない。
死んじゃってから学生生活のやり直しが出来るなんてそれなんてAngel Beats! ?

「……あさはかなり」
「さっ、入学式に行きますよ」
「あ、はい。すいません」

中庭を通り、広い廊下を渡り走ってきた道を戻っていく。
しっかりとした石造りの建物は高さと古さを持っている。
グリニッジの海洋博物館とかメトロポリタン美術館とかそんな感じの厳かな感じがする。
日本じゃないんだろうな、彫刻みたいな柱はコンクリートより柔らかそうに見えた。

「違いますよ!」

ざわざわとした広間の中に入ると、自分と同じ服を来た男の子達がたくさんいた。
皆フードを目深に被っている。
赤い髪の男の子がこちらを訝しげに見ていた。
うう、お目目がいまにも溢れそうなくらい大きい。
アイラインは漆黒で光を反射しない。
その視線から逃げるように俯いた。

「寮分けがまだなのは君だけですよ。さあ、鏡の前へ」

身を屈めたクロウリーが耳元で告げる。
どうやら中央にある大きな鏡の前に立つ必要があるらしい。
ハリーポッター見た時も思ったけど、こう言うのってみんなの前でやる必要あるのかな。
どこか個室でやればいいのに。
一歩進むたび刺さる視線の数が増えるので、逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。
スリザリンは嫌だスリザリンは嫌だ。

鏡の前に立つと、黒いガラスに自身の姿ではなく仮面が映し出される。

「ひっ」

なにこれ怖い。ホラー?

「汝の名を告げよ」
「う、あ、レイです…」
「レイ……汝の魂のかたちは……」

沈黙が重い。
ファイナルアンサーだから!ファイナルアンサーだから早くして!!
こんな注目を浴びる時間は早く終わって。

「わからぬ」
「わからんのかーい!」

不安が臨界点に達してついツッコミを入れてしまった。

「なんですって?」

クロウリーの声に驚いて振り返る。
ツカツカと早足でこちらに歩いてくる姿に圧倒されてじり、と後ろに下がった。
ごめんなさい。ひょうきん者の血が騒いでしまっただけで、本当はツッコミを入れる気なんてなかったんです。

「この者からは魔力の波長が一切感じられない…… 色も、形も、一切の無である。よってどの寮にもふさわしくない!」

顔の怖い鏡がめっちゃディスってくる。
いや本当に信頼関係を築く前にツッコミ入れてごめんね。

「魔法が使えない人間を黒き馬車が迎えにいくなんてありえない!」
「生徒選定の手違いなどこの百年一度もなかったはず、一体なぜ……」

どんどん不穏な方へ向かっていく成り行きに血の気が下がってくる。
お手数をお掛けして申し訳ありませんが、こちらの手違いでしたのでご自宅までお送りします。なんて展開にはならないんだろうなぁ。
ざわざわと広がっていく混乱の渦に身の危険を感じる。

「むが、それじゃあその席、未来の大魔法師グリム様に譲るんだゾ〜!!」

クロウリーの拘束を解いたグリムが大きな声で叫ぶ。
広間に居る人達の視線が一斉にグリムを捉えた。
よし、今がチャンス!
三十六計逃げるに如かず、勝ち目がない時は戦わずに全力で逃走して損害を避けるのが定石!
ひとまずこの広間からの逃亡を企てて右足をひいた。

「伏せろっ」

走り出した私のフードがぐっと掴まれた。
目の前をグリムの炎が通り過ぎる。
ああ、もう少しで業火に焼かれていた。
首の圧迫感が消えて急に入ってきた酸素にごほごほと咽せる。
生理的に浮かんだ涙で視界が滲み、広間に轟々と広がった炎が幻想的に揺らめいた。

「し、死ぬかと思った」

腰が抜けてぺたんと座り込んだ私の横には、広間に入ってきた時に目のあった凛とした男の子がいた。
助けてくれたんだ。
お礼を言おうと口を開いたのに、掠れた音しか出なかった。
グリムを捕まえようとする人達の声が響く。
私は今さら震え出した身体を両手で抱きしめることしか出来なかった。





クロウリーさんと一緒に図書館に戻ってきた。
先ほどは暗くてわからなかったが、部屋の灯りがともると本が浮いているのに気づいた。
肩の位置にあるものに手を伸ばしたが、ふいっと手の届かないところへ行ってしまった。
どう言う仕組みなんだろう。
普通に本棚に収まっているのもあるが、ファンタジーの世界だ。

「貴方本当にそこから来たんですか?嘘をついてるんじゃないでしょうね?」

ぱらららら、と手を触れずに何冊もの本をめくりながらクロウリーさんが言う。

グリムはこの学校の生徒の男の子達が捕まえて部屋から出してしまった。
引きずって放り投げた、のが正しい表現かも知れない。
最後まで学校に通いたいと叫んでいたので、ちょっとかわいそうだった。

魔力がないと言われた私も同じ感じになるかと思いきや、鏡を使って?家に帰れることになった。
なんと鏡の前で帰りたい場所を思い描くだけでいいらしい。魔法ってすごい。
でも、帰れなかった。
私が捨ててきたあの雑多なワンルームを思い浮かべてみたが、帰りたいのかはわからなかった。
ここへ来てから”死にたくない”と思ったものの、私はどこへ行きたいんだろう。
その気持ちが関係あるのかないのかはわからないけれど、私を無駄と告げた鏡は私の帰る場所は存在しないと言った。


「こうなってくるとなんらかのトラブルで別の惑星か異世界から招集された可能性が出てきましたね。貴方、ここへ来るときに持っていたものなどは?
身分証明になるような、魔導車免許証とか靴の片方とか……」

靴が身分証明になるなんてそんなシンデレラじゃあるまいし、と心の中でツッコミをいれた。
ちなみに残念ではあるが靴は両方きちんと揃えて置いてきてしまったし、荷物も何も持っていない。
手ぶらだと言うことを両手を上げて伝えるとクロウリーさんは
「困りましたねえ。」と言って目を伏せてしまった。
私も好きでここに来たわけではないけれど、なんだか申し訳なくなってきた。
他人に迷惑をかけちゃダメだよね。

「魔法を使えない者をこの学園に置いておくわけにはいきません」
「すみません。あの
「しかし無一文の若者を放り出すのは教育者として非常に胸が痛みます。私優しいので」
「えっと、でも
「そうですね、学園内に今は使われていない建物があります。昔寮として使われていたので、掃除をすれば寝泊まりぐらいはできるはずです。そこであれば、しばらく宿として貸し出して差し上げましょう!その間に貴方が元いた場所に帰れる方法を探るのです」

とりあえずこの学園から出て今後の身の振り方を考えようかと思ったのだけれど、クロウリーさんは口を挟む隙をくれない。
そういえば会ってからずっとこんな感じだ。
会話が成り立たないのは困るけれど、悪い話ではない。
当面の住まいを確保できるなんて願ったり叶ったりなので、申し出を受けることにした。

「では善は急げです。寮へ向かいましょう。少し古いですが、趣のある建物ですよ」




クロウリーは半歩下がって歩く少年を気付かれないように眺めた。
魔法が使えない人間が珍しい訳ではない。
それこそ魔法士養成の学園長になってから接する機会が減ったとはいえ、街へ出れば普通に出会う。
この学園に選ばれておきながら、魔法が使えず、さらに自己主張の少ない彼は一体何なのだろう。
平凡な顔に整えていない髪型。
長さのバラバラな髪をひとふさつまみ上げた。

「ひゃ?!」

何ですかと自分の髪を手ぐしで直す彼の声に驚きはあれど、不快さや苛立ちはない。
この学園の生徒は大勢いれど、この反応は彼だけだろう。
皆自分の価値を知り、それを他人に気軽に触れさせたりしない。
物腰の柔らかさだけでいえば他校の方がまだ馴染そうだ。
式典服から伸びる腕は、白くて細い。
けれど、陶器のように透き通る白さではなくて、暖色の影を含んだ不思議な色だ。

「本当に異世界から来たんですかねえ」

ボーイソプラノの声が自身の名を呼んだ。
それは哀れなほど不安を含んだ声で、なんだか自分が虐めているみたいだと思った。

「あなたエレメンタリースクールの子どもみたいですね」

思わず心の声が出てしまった。
彼は「それ気にしてるんです」とジトッとこちらを睨んだが、目的地の寮を見て黙った。

「どうです?さあ、どうぞ中へ」

彼は廊下の蜘蛛の巣にいちいち悲鳴を上げながらついてくる。
一度驚かしたら猫のように飛び上がって逃げたので堪えきれずに笑ってしまった。

「ここであればとりあえず雨風は凌げるはずです、ふっ、クク」

談話室についてもツボから抜けられず笑っていると、背中にバシッと衝撃が走った。

「ごほん、私は調べ物に戻りますが、学園内をウロウロしないように!では」

いつものように黒い羽を出して飛び立つ。
ああ、大変愉快な気持ちです。

“一日中、君の翼ははばたいた、
 あのはるかな高みで、冷たく稀薄な大気を。
 しかし疲れても、楽しげな陸地には降りるな、
 暗い夜は近づいているが。”

なんて、歌いながら飛ぶくらいには機嫌が良かった。
そう逆に走って行く獣に気がつかないくらいに。









「……とりあえず座るためにも掃除をしよう」

廊下の蜘蛛の巣も凄かったが、談話室の埃もすごい。
それはもう歩いたところに足跡がつくくらい。
恐る恐る室内を歩いて、階段の下から掃除用具を見つけた。
ハタキで蜘蛛の巣をとり雑巾で上から拭いていく。
段々熱中してきて、ローブを脱ぎブラシで床を磨いていく。
ジジがいてくれたらいいのに。
ふと手を止めると雨音が聞こえた。
窓の外を見ると細かい雨がサアアとカーテンのように揺れていた。

「あ、雨漏りしてる」

ひゅうと入りこんできた冷たい風に気持ちが再び萎んでいった。

「ぎえー!急にひでえ雨だゾ!」
「!!!!グリム!」

ぎゅっと抱きしめる。

「オレ様の手にかかれば、ってオマエ!ちょっとオレ様の事情を聞いてやろうとかそういうのないんか!?」

グリムのお腹に頬ずりしていると、ペチペチとおでこに肉球の感触がした。

「ごめん。また会えたのがうれしくて」
「ふ、ふん!」

グリムはこの学園に入学する為に、ずっとずっと迎えの黒い馬車を待っていた。
ナイトレイブンカレッジは魔法が使えても、どんなに願っても、選ばれなければ入学できる訳じゃないらしい。
(そもそもグリムは人間じゃないけど)
手違いで居座る訳にはいかないって事か……。

「に゛ゃッ!つめてっ!」

ポタリとグリムの上に水滴が落ちる。
耳の炎が消えないようにとグリムが小さい手で耳を塞いでいる。

「あ〜、バケツ探してこないとだった」
「こんな雨漏りパパーっと直しちまえばいいんだゾ」

確かに天井が高いから魔法でも使えないと修理は難しそうだ。
魔法が使えない私にできるのは床が湖になるのを防ぐくらいだろう。
手伝う気のないグリムを置いてバケツを探しに行く。
さっき廊下で掃除用具を見つけたところにそれっぽいものがあった気がする。
底が抜けてなければいいけど。

薄暗い廊下に差し込む月明かりで深い影が落ちる。
取り残された生活感が生々しくて「なんか出そうだなあ」と思わず独り言を言った。
そうでもしないと自分の影にさえも悲鳴を上げそうだったから。

「久しぶりのお客様だ〜」
「ぎゃー!!!!!!出た〜〜〜〜!」

視覚で確認する前に知らない声が後ろでしたので叫んだ。
反射神経には自信がある。
ゆっくりと振り返ると、アニメみたいな幽霊?が三人?もいた。
三人とも特徴があって怖いと言うよりは愛嬌があるのだが、背景が透けている。
私の悲鳴を聞いたグリムが談話室から出てきて絶叫している。
ああ、この世界の人でも怖いやつなんだ。
自分よりパニックに陥っている人がいると逆に落ち着くなと思った。
涙目になったグリムは自分を大魔法師になる男と言って鼓舞している。
かわいい。頑張って。
グリムの炎は有効みたいだけど、

「もしかして魔法使う時目を瞑ってる?」

見当違いの方向に攻撃してると言うかゴーストの動きについて行けてない。
ひと悶着あってグリムにゴーストのいる場所を指示して彼らを追い払うことに成功した。
完全にポケモンかガッシュだった。

「でも後から来たの私たちだった……」

追い払って良かったのだろうか?
何となく後味が悪い。先住民を追い出す開拓者ってこんな感じかな。
確かにとても大義名分がないとやってられない。
グリムが腕の中で「腹が減ったんだゾ!」と言った。





「あなたたち何してるんですか」
持って来た夕食を埃がきれいに拭かれたテーブルに並べる。
指を軽く振って食事を魔法で温めるとスープから湯気が立った。
わっと駆け寄ってくる少年。なぜかいる追い出したはずの魔獣。
わあわあと喋りだす一人と一匹を前に思い出したのは、学園内に住み着いたゴーストの存在。
そういえばここゴーストが出るからって閉鎖したんでした。
それを自分の魔法をコントロールできない魔獣と魔法を使えない人間が追い出したなんて。
本当ならば中々興味深い。

高揚した気持ちはまだ収まらない。



ゴーストに姿を変えたクロウリーさんをグリムの炎で狙う。
それを危なげもなくさらりと避けるとまた別の場所に現れる。
移動するスピードはますますあがり目で追えなくなっていく。
最初はグリムに方向の指示を出していたが、そんな余裕もなくなった。

「グリムっ!」

私の声と視線に合わせてグリムが炎を吐く。
今日は運動をしてばっかりだ。
クロウリーさんの気がすむ頃には私もグリムもヘトヘトになっていた。

「あなたには猛獣使いのような才能があるのかもしれませんね」

出された夕食を口に入れるかどうか迷っているとそんなことを言われた。
違う世界に行った時ってそこにある食べ物は食べちゃいけないんじゃなかったけ?
横でガツガツとご飯を頬張っているグリムを見るとお腹がぐううと鳴った。
諦めてスプーンですくったスープを飲む。
温かくてほっとしたらぽろりと一粒だけ涙がこぼれた。
ふたりとも気がついてないようなので、乱暴に手の甲でぬぐった。

そう言えば、会社で四代モンスターと呼ばれる人たちを手懐け?て先輩に感心された事を思い出した。
こんなところで役に立つとは。
雑用ではあるが仕事を貰えたし、おかげで学食や図書館の利用する許可が出た。
クロウリーさんに任せて待っているだけよりありがたい。
それにグリムも一緒にと言うのが嬉しかった。
彼の望む形とは違うかも知れないけれど、ずっと憧れてた場所にいる許可が貰えたのだ。
不服そうなグリムを言いくるめて、明日から頑張ろうと思う。
バイトから社員になるのはよく聞く話だし私もそうだったからバイトから学生も夢、じゃないよ!多分!

泣いて運動してご飯を食べて。
そんな単純な事で明日への活力が湧くなんて。
私もう少し頑張れば良かったかもな。




“間もなくその苦労は終わるだろう。
間もなく君は夏の家を見つけて憩い、仲間に囲まれて囀るだろう。
間もなく蘆が君の巣を安全に多い包むだろう。”


グリムは温かなニンゲンの腕の中で微睡んでいた。
今まで自分を排除しようとしたヤツらと違って、こいつは無害で役立たずだ。
だからそばにいても大丈夫だと思った。
オレ様が守ってやらないとこいつはすぐに死んでしまうだろう。
だからそばにいてやらねーとなんだゾ。
彼ははじめて他人がこんなにも暖かいのを知った。

『おやすみ良い子たち。よい夢を』

ふたりの安らかな寝顔を見て、戻って来たゴーストたちは微笑んだ。