「最近東さんに会ってますか?」

寂しがってましたよ、と眉を下げて笑う彼に自然に微笑むことができる。
今日はお花屋さんで会ったわけではないのに、彼からは生花の香りがする。
彼の身体から緩やかに発散される光も私の中の夜までは届かない。
光は暫くあたりを漂ってから、やがて消えた。

「元々しょっちゅう会うような仲じゃないもの。それにアズマはもう貴方たちがいるわ」

俺はやんわりと引かれた見えない線にじっと目をこらす。
彼女は怒ってもいないし悲しんでもいない。
ほんの少し諦めたような微笑をしている。


「よかったら今から劇場を見に来ませんか?」

彼女を繋ぎ止めておきたくて咄嗟に公演をやっていない劇場に誘った。
太陽が沈む前の煌めきが彼女の白い頰を照らす。

「これから夜が来るわ」

彼女の冷たい手を握った。







「なんだか、寂しい場所ね。あんなにきらきらしていたのに」

照明のついてない薄暗い劇場の中に入ると、僅かに埃っぽい匂いがした。

「それが舞台なんですよ。どんなに着飾っても孤独なんです」

「そうなの……」

彼女はじっと誰も立っていない板の上を見ている。

「レイさんがいる場所はどんなところなんですか?」

聞いてはいけないことなのかと思っていたが彼女は案外すんなりと答えてくれた。
俺がその事を聞くのはわかっていたかのように。

「……小説ってたくさん読むかしら」
「ええと、そうですね。嫌いではないです」

役者さんだものね、と彼女が頷きながら続ける。

「これはわたしが見た夢じゃなくて、本で読んだものなんだけれどいいかしら?」
「はい」

彼女はスポットライトのない舞台に立った。
一度閉じた目を開くとさっきまでの彼女とは別人だった。
ぞくりと胸に熱がともった。
きっと彼女は俺に演じて見せてくれる気なのだ。


「がらんとしたところだったわ」

誰もいない劇場の冷たい空気を彼女の声が震わせる。

「倉庫や格納庫のように天井が高い建物なの。中には誰もいない。僕のまわりには血の匂いが漂っている。重くぬめぬめとした匂いが、はっきりとした比重を持って断層のようにどんよりと空中に浮遊している。不思議と怖くはないわ。でもその匂いが呼吸するたび身体の中に入ってくるの。喉を通って頭にも手にも足にも巡っていくのがわかる。嫌だけど、同化しないわけにはいかない……。
部屋の右手には首を切り取られてしまった牛の胴体が、左手にはその切り取られた首が床に並べられているの。多分切り取られて間もないのね、その両方の断面からだらだらと血が流れ出ているわ。そしてその五百個もありそうな牛の頭は全部同じ方向を向くようにしてあるの。きっとすごく大変だったに違いないわ。それくらい綺麗に並べてあるの。
部屋の床には葉脈のように細い溝が走っていて、真ん中の方で一本になっているわ。牛たちの血はそれに集められて外にある海に流れるようになっている。その時気が付いたのだけれど、建物のは崖の上に立っていて下は海なの。そこから見える海は牛の血の色をしていたわ。
外には羽虫みたいにたくさんの鴎が飛んでいて牛の血を啜っている。けれどそんなんじゃ足りないからずうっと空を飛びながら待っているの。切り離されてしまった牛を。そして僕を。
牛はまだ死んでないと繰り返し鴎はもう死ぬと繰り返す。そんな中で僕は……」

そのまま彼女は黙ったまま客席の奥を睨む。
ほんの数分の事だったのに長い間そこにいたような気がした。
いつだか写真で見たイーストエンドみたいな、崖と海があるところ。
海の匂いの中に混じる血液の匂い。


「わたしがいるのはそういうところ」

彼女が舞台から飛び降りて、やっと時間が動き出した。
ごくりと生唾を飲み込んでから随分と緊張していたんだなと思った。



彼が彼女の孤独に恋をしているのがわかった。
だって、あんなにも美しいものに恋をしないなんて不可能だから。